四 米の長官は陸に住む
感情論か理性論か
以上の戦況に於ては、連合艦隊司令長官は、当然比島に飛び、マニラ或はダバオに司令部をおいて直接指揮をとるのが本筋である。専門家は皆な心底でそれを要求していたであろうし、素人にもまた判り易い常識である。
当時、海上には四人の中将、陸上には二人の中将が、それぞれ司令長官としてレイテ決戦を分担していた。十月二十五日の決戦日に、それらの提督は直径二百浬の円内の各地点にあつて、互いに連絡なしに戦つた。而して其の中心たるべき連合艦隊長官は二千浬以上も離れた陸上の日吉台にあつて作戦を号令した。統一のある指揮と、機宜を得た命令とは、この形に於て望み得る道理がなかつた。聞くところによれば、豊田大将は自身フィリピンに飛んで指揮し度いと主張したのを、参謀達が強いて日吉の高台を通信的に有利であると力説して(台湾から帰つた直後でもあつた)、長官を諌止したのだという。豊田の闘志から考えても、いかにもありそうな事情である。
また栗田艦隊の中には激しい声があつた。レイテ作戦命令は、全艦隊の「港湾殴り込み」という前代未聞の猪突作戦であつた。当時残つていた堂々たる戦列――戦艦九、空母四、重巡一一、軽巡六、駆逐三五、潜水九――を挙げて沈没を前提とする最後の一戦を命じたものであつた。名督ある日本の艦隊に「死花を咲かせよう」としたのだ。それなら総大将は全艦隊の旗艦に将旗を翻して潔く陣頭に散る覚悟こそ必要である――と説くのであつた。
一応の理論ではあるが、当時はそこまで進む段階ではなかつたろう。第二艦隊の「大和」に乗つても、第三艦隊の「瑞鶴」に乗つても、全軍の指揮としては一方に偏してしまう。やはり、マニラに出陣して全体を見るのが至当であつたと信じられる。ところが、昭和二十年四月の菊水作戦になると、事情は全く違つて来た。艦隊の形を成していたのは僅かに第二艦隊のみで、それも戦艦一、軽巡一、駆逐八、という零落である。そうしてこれが「連合艦隊の現物の全部」であつた。司令部はこれに沖縄戦への自殺行を命じたのである。燃料は片道分しか与えない。沖縄への到達は海軍の常識で絶対不可能事と思われたが、万々一にも到達したら、「大和」一隻に対し敵艦数十隻の戦闘になるから、これも絶対の沈没である。ただ帝国海軍の最後を華々しく飾ろうとした葬儀の一戦だ。ここに至つて、海軍の総大将が旗艦「大和」に坐乗して立派に陣頭に散華するこそ、帝国海軍の最後を飾る道である、という議論が沸騰し、そうして今もなおその余韻を残しているのである。「正成湊川に行かず」という皮肉が今日でも語られる所以である。
が、最初は豊田も草鹿(参謀長)もこの自殺作戦に同意しなかつた。後に、沖縄戦の超重大性に鑑みて之を力説する中堅参謀連の強硬なる主張に余儀なく賛成したのである。そこで豊田は自ら指揮する意思を頻りに主張したが、強い幕僚の諌止で思い止まり、代りに九州まで進出して指揮した。裏面の事情は右の通りとしても、現実の形に於て、「菊水作戦」と称する其の菊水の旗が、湊川の戦場に翻らなかつた歴史が、将兵の感情を晴々とさせないだけである。多くは感情である。理性の判断は識者おのおの説く所を異にするであろう。
菊水の旗といえば、Z旗についても同じようなことがある。Z旗は「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」の信号であること周知の通りだ。若い人々には或は初耳かも知れないが、これは日露戦争に於ける対馬海戦の当日、東郷元帥が連合艦隊の旗艦三笠の檣上に掲げたので有名であり、我が海軍の将兵は、この旗の下で常に死を恐れずに戦うという精神結合の表徴である。
そのZ旗は、奇しくも、太平洋戦争を通じて、一回も連合艦隊旗艦の上に掲げられずに終つたのである。Z旗は、「掲げられず」に、「電報された」のである。それが三回あつた。真珠湾、マリアナ、レイテの三海戦に於て「Z旗の電信通達」が行われたのであつた。真珠湾戦では山本司令長官は広島湾にいた。マリアナ戦では豊田長官は孤艦大淀に住み、レイテ戦の時は日吉台にあつた。
Z旗が電報で配達されるのは、連合艦隊司令部が陸の上にあるのと同じような感じを受ける。勿論その電報を受ければ、受けた艦隊の長官が代理として其の旗艦に掲揚するけれども、その旗の直下に、東郷元帥の後継者が敵を睨んで立つているのでなければ、将兵の血を湧かせるには温度が低かつた。人間の情として已むを得ないであろう。
相手方を見ると、太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督はハワイに司令部をおいて指揮した。合衆国艦隊長官キング提督は常にワシントンに居た。前線に於て、機動艦隊長官は空母を旗艦としないで護衛部隊の戦艦に乗つていた。つまり日吉台はアメリカ流であつた。むしろ新時代の方式とも見える。あまり「連合艦隊」の名と歴史とに拘泥しない方がいいようである。
五 世界一流の海軍興る
急歩で最高位を追う
顧みるに日本はよくも世界第三位の海軍を築き上げたものである。いな、第三位は平均点であつて、海軍戦力の各単位の中では、「世界一」に位する幾つかの記録を保持していた。更に分析すれば、綜合戦力の中の「生産力」、「耐久性」、「資源」という三大要素の点数が低かつたために落第したのであつて、「造艦」「武器」「兵術」等については、英米よりも高い点数を取つていたのだ。
もしも戦争が、一ヵ年で勝負を決めるという性質のものであつたから、日本海軍は、勝つたかも知れないし、少なくともドローン・ゲームに引張ることは出来たろう。戦争が三年九ヵ月となつて前記三大要素が決定的役割を果たすことになつたが、昭和十六、七年の戦勢に於ては、日本は未だ勝者の座にすわつていたのだ。「科学」の点に於ても、レーダーは開戦の二年前に着想され、開戦直前竣工の空母瑞鶴には試験的に装備されたほどであるが(十七年五月の珊瑚海海戦ではこれで敵機を捕えている)、資金関係と、量産設備の欠如と、当事者の熱意不足のために放擲されていたのだ。此の上もない痛恨事であつた。また、ジェット機もロケット機も戦前から青年技術官の自信ある主張が上申されたのを、首脳部が却下して葬られていたのだ。《注:「あつたから」は底本のまま。》
原子爆弾に関しても、昭和十六年にB研究の名に於て開始され、十七年には部外委員に仁科芳雄、長岡半太郎等の構成者を加えた委員会を作り、ビルマと朝鮮にウラニウム原鉱を求めて一歩を踏み出す所まで行つたが、その委員会費が年額二千円というのでは、その当時としても問題にならなかつたことが判るように、上層部の不熱心と貧乏のために立往生に終つている。そのように科学に対して鈍感であつたのではなく、途を与えれば成就する可能性を持つていたのだ。
これに反して、現実に海軍の武力源として争われていた軍艦、大砲、航空機、魚雷等については、大体に於て米英を凌駕したといつて誇張でない。就中、日本の九三式高圧酸素魚雷が、米英のそれに比して三倍乃至四倍の威力を有した公認記録は前述の通りであるが、軍艦に於ても大砲に於ても、航空機に於ても爆弾に於ても、米英に優るとも劣るものではなかつた。超大戦艦大和、武蔵や、起大空母信濃の場合には、それを比較するものが世界に無かつたが、同艦型の場合を比較すると(一万トン重巡)次の如き優劣の著差があつた。緒論でも紹介したが、念のため再掲しておく。
国(艦名) 砲:数 魚雷:数 速力 防禦
日本 八吋砲:一〇 二四吋:一二 一四万馬力 舷側四吋
(那智) 四・七砲:六 三五ノット 砲塔一吋
英国 八吋砲:八 二一吋:八 八万馬力 薬庫四吋
(ケント) 四吋砲:四 三一ノット 其他一吋
米国 八吋砲:一〇 二一吋:六 三二・五ノット 舷側二吋
(ペンサコラ) 五吋砲:五 砲塔二吋
即ち攻防速の三面に於て我が重巡は悉く優つていた。これら相剋する三要素に於て全部が優るというのは造艦の奇蹟であり、その総帥であつた平賀譲博士が海軍の至宝と崇められた所以でもあるが、その造艦技術が、やがて「大和」を建造し得た基盤となつたのである。勿論一万トン重巡の驚異的戦力の蔭には「居住性」と「航続力」の犠牲――将兵の部屋が狭く且つ燃料搭載の量が二、三割少ない――が伴つたけれども、それにしても大鋼鉄の無鋲熔接を初め幾多の技術工夫の集積が日本の優秀艦を産んだのである。
回想すれば明治五年、日本海軍発祥の日、十四隻の木製軍艦が品川湾に勢揃いしたその光景は、未だ日本に写真がなかつた時代で判らないが、その中の九隻が英国製、二隻が米国製、一隻が仏国、一隻が和蘭、そうして残る一隻が石川島造船所製の百三十五トン艦「千代田形艦」という記録は残つている(悉く幕府と旧藩から収納)。それから引続いて三十三年に亙り、日本の主たる軍艦は悉く外国品であつた。世界三大海戦史の一つに謳われた「対馬海戦」――明治三八・五・二七。――に於て東郷司令長官が率いた連合艦隊の主力も凡てが輸入品であつたに過ぎない。
これより先き、国防の大切な武器を外国に造つて貰うのは日本の恥であるという説が行われ、明治九年、横須賀で軍艦「清輝」を造ったが、素より外国製には遥かに及ばない。一旦中絶した後、二十一年に「橋立」を建造したが、やはり性能が外国品に比して遥かに劣ることが判つたので(橋立は日清戦争時の我が主力艦三隻中の一隻、その後は主力艦を全部外国に註文する方針をとり、その間、軽艦艇のみを建造しつつ造艦の技を練つたのであつた。
日本が始めて大戦艦(当時の)の建造を決意したのは明治三十八年であり、それが排水量一三、七五〇トンの「筑波」「生駒」の二艦であつた。それ以来俄然自信を得て全軍艦の国産化を実現するに至つたのである。
これに由つて見れば日本は建艦史の上では世界海軍国中で全くの新参者であつた。それが一万トン重巡の競争に於て世界記録を造り、やがて巨艦「大和」を造り上げて天下を驚かすことになつたのである。今は中共や朝鮮と兵力を比較するまでに落ちぶれた日本海軍も、素質と実績とを回想すれば天下に覇を争つた日もあつたのだ。謂わば家柄は御三家の一つ。聊かも自ら卑下する理由はない。
六 十万トンの大戦艦
「大和」から「紀伊」へ
優れた軍艦は国民の産物であつた。世界第三位の海軍は国の力の反映であつた。酸素魚雷も、零式戦闘機も、重巡那智も、戦艦大和も、みな日本人が造つたものである。
明治の中葉以後、急速に伸びた国勢は、そのまま海軍力の上に具現された。というよりも、国勢伸長の他の部門に較べて、海軍拡張は常にトップを歩んだ。金と智と精神とが、最高の割合を以て海軍に投じられたように見える。海上に離れてはいたが、国民は屡々そこに民族の誇りを発見した。そうして何時の間にか、世界三大海軍の一つが太平洋に浮んでいたのである。
しかしながら、昭和十六年十二月、我が海軍がどの位の力を整えていたかを正確に知る者は少なかつた。連合艦隊の百九十三万トンの大兵力が、終戦時、作戦可能のもの僅か八万トン内外という全滅的悲運に陥つた史実は、本文の結論に於て厭でも詳述しなければならないが、それは海軍将兵さえも殆ど正確に知る者が少ないのだから、国民が知らないのは当然であろう。が、知つておくべき歴史であり、その知識の前提として、開戦時の「世界第三位」――或は第二位――の威容を知つておく必要があろう。開戦時三大海軍国の兵力は米国側の調査によれば次の通りであつた。(単位千トン)
戦艦 空母 巡洋艦 駆逐艦 潜水艦 合計
日本 三五七 一七八 二九九 一五四 一〇七 一、〇九五
米国 五三四 一三五 三二九 二三七 一一七 一、三五二
英国 四三三 一六一 四七一 二六八 五五 一、三八八
即ち日本の対米比率は七四%に達し、守勢戦略の下に邀撃決戦を行えば勝算乏しからぬ数字と信じられた。況してアメリカは、戦艦四、重巡四、空母一、第十水雷戦隊が大西洋に派遣されていたから、兵力比は更に日本に有利であつた(註。アメリカの数字が日本のそれと少し違うのは艦齢の関係によるものと思う)。
その上に重大なことは、正に主戦兵力として台頭しつつあつた航空母艦に於て、日本が米英をハッキリ凌駕していたことだ。三国の第一線級の航空母艦の兵力は次の通りであつた。
昭和十二年 同十四年 同十六年
日本 四隻 六隻 八隻
米国 五隻 六隻 六隻
英国 三隻 三隻 七隻
静かにこれらの数字を眺めると、イギリスが日本との戦争を欲しなかつたことは勿論として、アメリカも出来るだけ日本と「外交交渉による妥結」を望んだ理由が浮び上つて来る。それこそ帝国海軍の存在理由であり、また国防の理想として、海軍自身が伝統確信して来た所であつたが、軍部内閣の南方侵略の勢いはコントロールを失い、遂にこの「平和保障の兵力」を亡国戦争の淵に投じてしまつたこと、幾度び考え直しても残念だ。が、嘆くのも今は余談であろう。もう少し軍艦そのものを眺めよう。
戦艦「大和」については多くの出版がある。映画にもなつた。だから満載排水量七二、八〇〇トンという巨峯のような大艦の姿は既に多く知られている筈だ。ただ、一挙にこれを建造した海軍の造艦技術に対しては、これを建造というよりも、むしろ創造と言い得る点に注意すべきであろう。大正十年に戦艦「陸奥」が造られた。三五、〇〇〇トンの世界的一級品であつた。それから休艦條約が成立して十五ヵ年休んだ。それが明けて忽ち七万トンという二倍大の巨艦に飛躍したのだ。
だからその建造中、米英はそれを「巨大」のものとは思つたが、よもや一挙にして二倍の超大艦が飛び出そうとは夢にも思わなかつた。恐らくは五万トン艦であろうと想像していたのが、当時の常識でもあつた。主砲も多分十六吋砲を十二門装備するだろうと想像した。ところが前代未聞の十八吋砲(四十六糎)が現われたので驚きを二倍にした。造艦造砲に天才的の技能を持たない限り、着想不可能の産物である。
ところが更に大なる驚きが秘められていた。大和、武蔵の一段上をゆく超巨大艦「紀伊」「尾張」の建造計画これである。「紀伊」の排水量は実に一〇〇、〇〇〇トンであつた。大和より三万トン大きいのである。しかもその主砲は二十吋砲であつた。その威力は五万メートルの距離で厚さ十六吋の鋼鈑を貫くというのだ。既に呉工廠で試作にかかつたとき、建造中止の命令が下り、緊張していた技術将校を落胆の底に叩き込んだ。(「紀伊」は軍令部予定名。十万トン是非論争中設計未了で中止となつた。)
そのまま進んでいたら、十万トンの戦艦「紀伊」「尾張」は昭和二十年春には太平洋に浮び出で、それこそ掛値のない「不沈戦艦」の誇りを戦史に残したかも知れない。
建造中止の決定は、久しく海軍部内に対立していた「大艦巨砲主義」と「空母至上主義」の争いに対し、後者の勝利に於て終止符が打たれた結果であつた。真珠湾とマレー海戦の実績が、戦艦から空母への転向を如実に命令したからである。しかし、日本海軍の造艦造砲技術が、十万トン、二十吋砲の超巨大戦艦を正に造ろうとした歴史は、敗戦十年の後、漸く一千五百トンの駆逐艦を造るようになつた今日の日本人に、尽きぬ自信の泉を与えずには措かないであろう。
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