七 大海軍遂に亡ぶ
軍艦四百十隻が沈む
終戦の幕を開くと、そこに最早や連合艦隊は無かつた。海に浮ぶ物はやがてまた海に沈む物だ、というような念仏でも唱えない限り、その全滅を弔う道はなかろう。
開戦時、堂々海を圧して出撃した二五四隻、百六万八千トンの大兵力は、開戦後続々と増強され、新建造三八三隻、八十五万八千トンを加えて合計実に六三七隻、百九十三万トンという偉大なる勢力を示したのが、終戦時までに撃沈されたもの四一〇隻、百三十八万トン、更に大破により航行不能のもの五五九隻、二十二万トンに上つた。《注:「五五九隻」は底本のまま。》
即ち六三七隻の中の四六九隻が撃沈破された。トン数にして、百九十万トンの中から百六十万トンが消え去つたのである。残つた軍艦はなお一六八隻、三十二万トンを数える計算であるが、これを分析すると、その中の八〇隻が海防艦其の他、四三隻が旧式で使われずに繋留されていた潜水艦、一四隻が入渠を要する旧駆逐艦其他であるから、その合計一三七隻は作戦外のものであつた。
即ち作戦可能の軍艦で残つたものは僅かに四十三隻。これを艦種別にすれば、戦艦〇、空母二、巡洋艦三、各種母艦三、駆逐艦一六、潜水艦七に過ぎなかつたのである。だから先きに筆者が「そこには最早や連合艦隊は無かつた」と書いたのが誇張でないことが判ろう。更に分析すれば、駆逐艦と潜水艦を除いた六隻の軍艦は次の通りである。
航空母艦――鳳翔。
巡洋艦――八雲、酒匂、鹿島。
潜水母艦――長鯨。
敷設船――箕面。
戦艦では、「長門」が中破して横須賀埠頭に繋がれていたのが、唯一の浮べる艦であり、榛名、伊勢、日向は爆弾に貫かれて瀬戸内海の島蔭に底をついていた。空母では隼鷹、海鷹、天城が同様に擱座し、葛城が甲板を大破されて柱島に繋がれていた。巡洋艦では妙高、高雄がレイテ海戦の深傷をシンガポールで修理中であり、青葉、磐手、利根、出雲、大淀の六艦は各地に於て航行不能であり、水上機母艦能登呂、敷設艦若鷹、常磐は擱座していた。以上が、動けないまでも「姿」の残つた艦の名で、その他は全部が海底の藻屑と消え去つたのである。では全部を表示して参考に供しよう(括弧内はトン数。単位千トン)。
艦種 開戦時 戦時建造 撃沈 形体残 作戦可能
艦種 開戦時 戦時建造 撃沈 形体残 作戦可能
戦艦 一〇隻(三〇一) 二隻(一四四) 八隻(三二三) 四隻(一二二) 〇( 〇)
空母 一〇隻(一五三) 一五隻(二五四) 一九隻(三一九) 六隻( 八八)一隻( 九)
巡洋艦 四一隻(二八五) 六隻( 三六) 三六隻(二三三) 一一隻( 八八)三隻(二四)
特務艦 一四隻( 六一) 三隻( 一七) 一一隻( 四四) 六隻( 三四)三隻(二一)
駆逐艦 一一一隻(一六八)六三隻(一一二)一三三隻(二一九) 四一隻(六〇)三〇隻(二七)
潜水艦 六四隻(九六)一二六隻(一五八)一三一隻(一八六) 五九隻(六八)一二隻(一五)
海防艦 四隻( 三)一六八隻(一三七) 七二隻( 五九) 一〇〇隻(八一) ――
計 二五四隻(一、〇六七)三八三隻(八五八)四一〇隻(一、三八四)二二七隻(五四一)四九隻(九六)
(註。この外に二七二隻の小艦艇が撃沈された)
航空機の喪失もまた軍艦に劣る筈はなかつた。空母と飛行機とが主戦兵器となつて斯くまでに大きい役割を果そうとは何国も予期しなかつた。だから日本は基地空軍一、四六九機、艦上機七三〇機、合計二、一九九機を以て戦争に臨んだ。アメリカと雖も開戦時の海空軍兵力は三、五九八機に過ぎなかつた。著るしい需要に応じて、海軍の戦時中生産高は三万機を上廻つた。そうして喪失総数は、二六、二八五機を算したのであつた。
また連合艦隊に属した船舶(専ら徴用)は合計三、五一六隻、三、三六九、〇四九トンであつたが、その中で大中型一、八三五隻、二、九一三、六〇一トンが撃沈され、残つたのは、主として沿海用小型船四五五、四四八トン(隻数は一、〇六八)のみ。即ち航洋船舶は殆ど全滅、トン数総計で約七五%を喪失した計算である。日本全体としての喪失数は二、五六八隻、八四三万余トン。即ち開戦時六〇〇万トン弱、戦時中建造三三三万トン、合計約九三〇万トンの九〇%強を失つた。米国の調査によれば、一、一〇〇万トン(捕獲引揚を加う)の中の九五四万トンを失つたことになつている(喪失八七%に当る)。
八 一将功不成、万骨枯る
国防の筋道と魂の保存
連合艦隊の軍艦は殆ど海底に去つて、その司令部のみが空しく日吉台に残つた。豊田大将も軍令部総長に親補されてそこを去つた後、小沢中将が司令長官となつたが指揮する軍艦がなく、丘の上に立ちつくして淋しく傾く月を眺めていた。
敗戦の心に去来するものは何であつたか。艦と共に去つた同窓。機と共に失われた戦友。勇ましく散つた部下幾十万の将兵。あわれ一将功成らずして万骨徒らに枯る、の感慨は、「無艦の長官」を痛くも打つたことであろう。如何に多くの将官級戦友が去り、如何に多くの部下が失われたかを検しよう。
山本、古賀の両元帥、伊藤第二艦隊長官、南雲、高木、西村、山口、五藤、猪ノ口、坂、篠田、中岡、有賀等の提督の名は本文の何処かに現われたが、遺族の外には其の名を多く知られずに戦死した提督の数は、その名を書き列ねる紙幅が足らないはど多い。
元帥二、大将五、中将五六、少将二五二、その合計実に三百十五名のアドミラルが戦場の露と消えた。激しい戦い、長い争いの跡を歴々と語る悲しい数字である。一国の提督級が三百名以上も戦死するような戦争は、勿論有史未曽有であるが、将来も亦決して起らないであろう。
提督にして既に然り、大佐以下将兵の戦死が夥しい数に上ることは想像に難くない。しかも三十一万一千六百十三名という数字は、読者の想像も遥かに超越するものであろう。更に海軍軍属となつて戦死した人の数は九万六千五百三十三名に及ぶので、海軍の戦死者合計は、驚く可し、四十万九千百四十六人を算するのである。
四十万人は誰のために尊い自分の命を捨てたか。皆な日本の為に捨てたのである。四十万人は戦争を欲したのか。皆なそれを欲しなかつたのである。
ただ軍の指導部(主として中堅層)がそれを欲し、言論も政治もその威圧に屈し、また之を阻止することの出来た唯一の対抗力としての海軍も最後の砦を譲つた為に、遂に無謀の戦争を仕掛けて其の戦争の犠牲となつたのだ。満洲事変以後の「戦争への道程」はここで解説する遑はない。戦争となつた以上、日本は負けられない。その為に彼等は生命を投げ出したのである。
人間魚雷「回天」に乗つて出撃した一兵曹の母に宛てた手紙に「私が死んだら誰が御母さんを養つてくれるかと思うと胸がつまります。しかし、お母さんは僕の出征の時に、お国のために立派に死んでおくれと言われました。あの停車場のお母さんの言葉を思い出して僕はこれから決死の出撃をします。どうぞ御元気にお暮らし下さい――」というのがあつた。伊三六潜水艦の副長が彼れの遺書を見て一言激励しようとした時は、もう彼れの「回天」は発進されていた。いまは唯だその「回天」が敵船団の大物を爆沈する轟音を待つのみであつた。間もなく轟音が自艦を震撼し、大火柱の天に冲するのを見た。副長は急ぎ部屋に戻つてその手紙の上にモウ一度涙を落した。
四十万人は、事情はいろいろ違つても、心は皆なこの兵曹と同じであつた。これらの人々は、戦争の責任は露一点もなく、唯だ、戦争になつた以上は国を護ろうとして身命を擲つたのである。一に愛国の赤誠に身を挺したのだ。日本人はこの尊い歴史を忘れないであろう。そうして、それを忘れないことの結論は、日本人は日本を護る義務がある一事を記憶することであろう。
国力は如何ともすることが出来なかつた。況して乏しい国力の上に真の友人を持たず、東亜に孤立して戦つては、敗北は必然の運命でしかなかつた。
立派な造艦技術も、戦艦大和も、酸素魚雷も、猛訓練も、優れた兵術も、孤軍奮闘三年半に至つては遂に敗れざるを得なかつた。かくて「連合艦隊」は亡びたのである。
顧みるに日本は米英の文化で国を開き、日清戦争にも、日露戦争にも、英米の授助を受け、また第一次大戦は英米と共に戦つた。
日本の海軍はその基礎を英国に学んだ。もし友邦に関して、国に宿命があるならば、日本は英米の側にあるべき宿命を持つようである。強いてこれを破つたのは運命に逆行するものであり、それ故に逆運の破滅を招いたとも観じ得るであろう。かくて連合艦隊は亡びた。
が、連合艦隊が、世界一の均衡を得た海軍(ウェル・バランスド・ネーヴィー)と謂われて、明らかに他国の侵略を防ぎ、国防の理想としての平和を保障して来た史実は、斯かる威容も一朝その道を誤まれば遂には亡びざるを得ない教訓と共に、併せて国民の記憶に残らねばならない。
日本の海軍はインチキのない社会であつた。善い風格が国民に敬愛された。男らしく、そうしてスマートであつた。いい軍艦と、多くのいい軍人から成つていた。不幸にして、軍部の侵略暴挙を断乎として阻止するの勇を欠いた為に――結果としては同調した為に――七十年で築き上げた連合艦隊を失つた。艦と人とは去つた。が、魂は死なしてはならない。そこに国の護りを見るからである。
以上で「連合艦隊」の亡びた道程は明らかとなつたと思う。しかし乍ら「連合艦隊が如何に戦つたか」を一見して判るような表示も必要であろうし、更に遡つて、連合艦隊を「亡ぼさずに済んだ開戦当時の秘密」も、それを弔う人々が是非知つておき度い記録であろう。依つて「後記」六項を設けてこれを明らかにしよう。
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