第十章 結論(その二)

    一 残つた軍艦と其の運命
        戦利品となつた少数の行方

 三年九ヵ月の長い激しい海戦に、連合艦隊の被害が、
 開戦時   二五四隻  一、〇六七、八七〇トン
 戦時建造  三八三隻    八五八、二五〇トン
  計    六三七隻  一、九二六、一二〇トン
 撃沈    四一〇隻  一、三八三、九五〇トン
 大中破    五九隻    二八四、五二〇トン
  残    一六八隻    二五七、六五〇トン
という驚くべき数字に上つたことは前掲したが、その中から、千トン未満の海防艦七十余隻と旧式繋留中の潜水艦五〇隻と、入渠中の駆逐艦二隻を差引き、「戦闘可能の軍艦」を挙げると次の通りだ。
 航空母艦――鳳翔。
 巡洋艦――八雲、酒匂、鹿島。
 特務艦――長鯨、箕面、聖川丸。
 駆逐艦――雪風、汐風、夕風、波風、神風、冬月、春月、夏月、花月、宵月、響、竹、桐、杉、萩、樺、槙、樫、栗、楠、柿、蓮、榧、楓、蔦、董、椎、雄竹、初桜、初梅。
 潜水艦――伊一四、伊三六、伊二〇一、伊二〇三、伊四〇〇、伊四〇一、伊四〇二、伊五〇〇、伊五〇一、伊五〇二、伊五〇五、伊五〇六。
 (註)外に小型水中高速潜八、小型輸送潜一〇、蛟龍(六〇トン潜)一五〇があつた。
 点検すると、一万トン前後の軍艦が僅かに六隻、駆逐艦と潜水艦を加えて全部で四十九隻は余りにも淋しい「軍艦帳」である。そこで、形だけ残つていた軍艦の状態と所在地を拾い上げて見よう。
 艦種    艦名   所在地    状況
 戦艦    長門   横須賀    中破
 同     榛名   呉      大破
 同     伊勢   同      大破
 同     日向   同      大破
 航空母艦  天城   呉      転覆
 同     海鷹   別府     大破
 同     葛城   呉      甲板中破
 航空母艦  隼鷹   佐世保    中破(追記・龍鳳、駒橋、呉にて大破)
 巡洋艦   妙高   シンガポール 中破
 同     高雄   同      中破
 同     青葉   呉      大破
 同     磐手   同      着底
 同     出雲   同      転覆
 同     利根   同      大破
 同     大淀   同      転覆
 同     北上   同      小破
 泣いても笑つても是れだけである。多くは故郷の瀬戸内海に帰り、油がなくて回避運動も出来ず、島蔭に繋留中を、七月二十一日敵の艦上機大群の爆撃によつて一挙に致命傷を受けて了つたのである。それなら残つた軍艦はどこへ行つたか。潜水艦は、アメリカが接収した五隻の外はことごとく処分された。
 四十五隻の大部分は九州五島沖において、他は伊予灘、紀伊水道、若狭湾において自沈させられた。
 戦艦「長門」、軽巡「酒匂」の二隻はビキニ環礁における原爆実験に供された。
 さらに残つたものを四大国が左の如く分配した。
 国名  駆逐艦  海防艦  其の他小艇  計
 米国   六   一六    一一    三三
 英国   七   一五    一〇    三二
 ソ連   八   一六    一〇    三四
 中国   七   一七    一〇    三四
 まことに仲良く分け合つた。ソ連がほとんど戦わないで海上の収穫まで平等にもらい受けたのは、当時(昭和二十年十二月)未だ四大国の関係が円満だつたからであろう。惜しい駆逐艦二十八隻も国籍を変えた今日、どこでどう働いているのか知る由もないが、中国に分けられた月級の優秀なもの(二千トン級、速力三十八ノット。現在でも世界最高水準)は、台湾を訪れた人の眼には、それが魚雷発射管を取外して(二十四インチ魚雷は日本以外に作る国がないから)繋留されているのが映るであろう。
 さて日本に対して余りにも気の毒と思つたのであろう。そこで海上保安庁用として海防艦五隻(生名、竹生、鵜来、新南、志賀)、特務艦一隻(宗谷)、駆潜特務艇三五、哨海特務艇若干(以上は五十トン級木造)が与えられた。そしてそれらは復員輸送や港湾及び海峡の機雷処分に使われた。他に復員輸送に使われた修理空母もあつたが、役目を果した後に処分された。二十一年元旦の旭日が平和の光を太平洋に投げたとき、そこには一隻の日本軍艦もなかつた。

    二 如何に敵を沈めたか
        補充建艦に雲泥の差

 後に元帥加藤友三郎の説を紹介するが、連合艦隊の理想は「戦わない」ところに存在した。それが有力に存在することが、相手国の侵略意図を防げば満点である。そこに平和の保障が成立するからだ。
 しかし、戦争になつてしまつては、連合艦隊は沈められる為に存在するのではない。敵を沈める為に存在したのだ。その存在理由を説明する数字は次の通りである。
 戦艦    四隻(米二、英二)
 航空母艦  一〇隻(護衛空母五隻を含む)
 重巡    九隻(米七、英二)
 軽巡    六隻(米三、英一、蘭二)
 駆逐艦   六五隻(米五六、英二、蘭七)
 潜水艦   五七隻(米五二、蘭五)
 その他   三六隻(母艦、砲艦、小艦艇)
 合計   一八七隻(完全撃沈のみ)
 少しく分析すれば、真珠湾で撃沈した中の四隻は復旧したのでこれを含まない。また大破曳航されたものも除いた。それらを加えると二百隻を超える。この数字は、戦争中のあの大本営発表の嘘とは違つて、米英の公表による確数である。なお潜水艦以上の正式軍艦について見ると、日本は三百四十隻を沈められたのに対し、敵の百五十隻を撃沈している。「完全撃沈比率」正に四四%に上る。実に善く戦つたこの記録こそは、不滅の金文字として、我が連合艦隊の追悼碑に太々と刻まれて然るべきであろう。
 前述来の幾多の統計は軍艦が一個の消耗品に過ぎないことを語るようである。あの最盛時五〇〇余隻百六十万トンの実在数を示した連合艦隊の往時を顧みると、いまの海上自衛隊は玩具の海軍に過ぎない。しかし、他日海軍の必要が認識され、おもむろに造艦を進める時が来れば、其の統計も大切な参考に残るだろう。沈められた数字も教訓だが、同時に「開戦の後に新造した数量」についても、吾々には「忘れてしまう」ことは「無益の上塗りだ」と思う。憶えておく方がいい。
 戦時中の建艦は戦艦二、各種空母一五(一隻未就役)、巡洋艦六、母艦三、駆逐艦六三、潜水艦一二六、海防艦一六八、その合計三八三隻、八十五万トンに上るのだ。この数字は、アメリカとイギリスを除いた他の外国では絶対に不可能な「生産」である。東洋のいずれの大国がこの何分ノ一でも造れるかと、いささか誇つて聞いてみたい気持だ。人は意を挫かずに待つていい。何も軍艦には限らない。一方で死活の大戦を戦いながら、これだけの艦を造つた「生産力」は、十年前に我が日本が現に示した「生産力」であり、これを平和的に利用しても「力」であることに変りはない。他の條件が復すれば(勿論これは一大問題であるが)、それを国民が楽しむ日も来るはずである。
 しかしながら本当に自惚れては大変だ。世界は広く、上には上がある。アメリカの生産力には遥かに及ばないことが開戦前から判つていたが、それが造艦の上で如何に現われたかを一瞥して、反省の材料にしておこう。戦時中新造艦就役比較は次の通りだ。
 艦種    日本    米国
 航空母艦   七    二六
 護衛空母   七   一一〇
 戦艦     二     八
 重巡洋艦   〇    一五
 軽巡洋艦   六    三三
 相手が悪かつた。これでは喧嘩にならない。駆逐艦と潜水艦も二倍以上造り、例えば終戦時の作戦可能潜水艦を比較すると日本が九でアメリカが一〇七だ。加うるに工程が早くて機を逸しない。例えば米の正式空母新造の中の七隻は昭和十八年の作戦に参加したが、日本は十九年後半に漸く出来上り、しかも「信濃」は就役の途中で沈み、雲龍(二万四百トン)は十九年末の処女出撃で沈められるといつた具合で(舟山列島附近。敵潜の雷撃)、大切な時機の綜合力発揮に役立たなかつた。戦時建艦の狙いは其の時機と量とである。戦争すれば軍艦は沈む。それを如何に早く補い且つ増強するかによつて次の勝敗は決まる。日本はアメリカに較べて、「遅く且つ少なかつた」のだから、兵術も精神力も通用しなかつたのである。
 太平洋海戦を一貫して示されたアメリカの兵術は、数の安全量を基本として攻勢を執ることであつた。数に疑問のある間は戦いを避け、物量整つて然る後に一戦を挑むのであつた。例えば日米海軍の総力決戦といわれたマリアナ海戦(一九・六・一九)の如きはその好適例とされるもので、比率は次表のような優劣を示したことを回顧する。
 艦種    米国   日本   我が比率
 大中空母  一五    五   三三%
 護衛空母  一四    四   二八・五%
 戦艦    一四    五   三六%
 巡洋艦   二五   一三   五二%
 駆逐艦   八六   二一   二五%
といつた具合で日本は大体三割の劣勢で戦つた。飛行機も日本が四五〇機で米が一、四九六機だから、これも一〇対三という割合になる。術と精神力とをもつて補うにも自ら限度があり、かくまでに物量の差が生じては、アウトレンジの戦法も功を奏しないで大敗したわけである。次に起つたレイテ戦中エンガノ沖海戦の如きは、両軍機動艦隊の航空兵力が、米の一、二八〇機に対して日本一〇八機というのだから、囮艦隊の敗戦は初めから問うところではなかつたが、敵を誘致するにしても兵力一割に満たない劣勢では、作戦自体に無理を内蔵していることが判る。
 けだし生産力の敗である。日本も実によく造つたと思う。今でも外国の造船を受注して名残りを止めている日本であるが、アメリカのそれが桁違いに大きかつたのには遂に手の附けようがなかつた次第である。

    三 開戦と海軍の立場
        人が剛から柔に代つた

 海上敗戦の歴史を大局から顧みるとき、識者は必ずや次の疑問を抱くであろう。
  我が海軍は、米英という二大海軍国を同時に敵に廻して果して成算があつたのか?
という疑いがそれである。既に久しく一〇対六の比率問題を聞かされて来た。アメリカ一国に対しても、六割では全然問題にならない。七割ならば守勢戦略の下で漸く「攻勢防禦」の兵術を施す余地あると。而して昭和十六年の比率は、現実には六割以上であつたが、七割には達していなかつた。仮りに米国式の計算で七割強持つていたとしても、その外に日本よりも強いイギリスを同時に相手とするのだから、何う楽観的にみても比率は一〇対四以上にはならない。その時、イギリスが欧洲で苦戦中であつたことは明らかだが、独伊の弱い海軍を処理した後は、その兵力の一半を東洋に廻すことは当然計算に入れなければならなかつた。
 だから、我が海軍は冷静綿密に計量すれば成算が立たなかつた。大体に見て、アメリカに対しても、「二年以後は判らぬ」、「一年か一年半が精々だ」という二つの発言が、九月六日には永野軍令部総長により、十月には山本司令長官によつて記録されている。而してそれらは「対米戦争になれば」という質問に対する海将としての返答であり、「対米戦争は是か非か」と問われたなら、「非」と答えたであろうことは殆ど疑いない。
 それを事実の上に戦つたのが、海相米内光政、次官山本五十六、軍務局長井上成美の一統であつた。昭和十四年一月、平沼内閣成立後間もなく、板垣陸相は、日独伊三国防共協定の強化案を提議し、国策上の大問題として閣議に上程された。その強化案は、やがて軍事同盟に移行する伏線を内包していた。米内海相は断乎として反対し、陸相は飽くまで締結の要を説き、陸海軍の対立を現出して閣議争うこと七十余回、その間、米内、山本の暗殺説が流布されて物情騒然たる中に、これらの提督は一歩も譲らずに頑張り通した。八月、ドイツが豹変一転してソ連と不可侵候約を結ぶに至つて、平沼内閣の面目丸潰れとなつて辞職し、暗雲も自ら一拭されることになつた。
 この米内、山本、井上の命がけの反対は、ドイツとの協商または同盟が、やがて日米戦争を誘発する危険を包蔵するのが真の理由であつた。ドイツとの深入りの為に、アメリカとの戦争に捲き込まれるのは、日本の危険であり、且つ海軍の堪え難い所であるという、国策並びに戦略の上からの反対であつた。米内、山本の八カ月に亙る旗幟鮮明の反対が日独協商強化への深入りを阻止して日本を陥穽から救つた。
 阿部、米内の短命な内閣に次いで第二次近衛内閣が成立するや(昭和十五年七月)、暫らくにして日独伊三国同盟案が再び妖態を現わした。今度は初めから軍事同盟であり、更にアメリカが英国の側に参戦する可能性は一層近きを予想されたから、この同盟が日米戦争を誘発する危険率は前回よりも遥かに高かつた。近衛首相は、海軍が当然これに反対することを予期して楽観していた。ところが海軍当局は、初めは沈黙、次いで賛成へと動いて行くのであつた。
 海相及川古志郎、次官豊田貞次郎、軍務局長岡敬純というコンビは、一年前の米内、山本、井上の陣容とは全く性格を異にした。豊田が近衛に内情を打明けた要領は次の通りだ。
 「海軍としては実は肚の中で三国同盟には反対である。しかし、海軍がこれ以上反対することは最早や国内の政治情勢が許さないので已むを得ず賛成する(中略)。海軍はまだアメリカと戦うだけの自信はない――近衛公手記から――」
 即ち当時の海軍当局は、外の大勢に抗するの勇気なく、同時に、内部の血気の少数を抑えつつける力をも欠き、内外大勢順応の裏道を歩んだのである。十五年九月の決定期には、米内は予備役であり、山本は艦隊長官として呉にあり、最後の会議には参加したが発言を封ぜられて憤然として帰艦した場面もあつて、海軍省は退嬰妥協派の一色に塗られていた。《注:「抑えつつける」は底本のまま。》
 三国同盟成つて危機はいよいよ深まるばかりであつた。思慮の浅い大衆は、戦争という威勢のいい掛け声に、あたかも街頭で御輿を担ぐように囃し回つた。それを制止するような手は何一つ打たれずに一年を経過した。日米交渉のみが、その危機を解消しうる唯だ一本の親綱と考えられた。松岡外相の功名心は自分の留守中に画策された日米交渉に対して極めて冷淡な態度を示したが、陸相東條英機が積極的に交渉を支持したので、野村・ハル会談が開始された。東條が、日本は日華事変で手一パイの時に、アメリカと戦争にでもなつたら大変だという憂慮から、日米交渉に大賛意を表したことは記憶しておいていい。その東條が八月ごろから急に冷淡となり、段々とケチをつけるようになつたのは、種々の原因によるが、一つは若い将校達を統制することが出来なくなつたのが主因とされる。
 そこで日米交渉は急にむずかしくなり、その成否が直接に和戦の決定に結びつくようになつた。その危急の舞台に登場した海軍の行政責任者は、不幸にして、一年前に三国同盟に賛成した三人であつた。同盟が日米戦争を誘発する危険は未だ間接的であつたが、日米交渉の成敗は直接的であつた。事は重大以上のものであつた。日米戦争に成算がない以上、海軍当局は、それこそ生命を賭して交渉継続を主張し、対米戦争には成算がない、とハッキリ発言すべき絶対の筋合である。

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