四 海軍の明言回避の事情
        陸軍も海軍も明言を待つ

 この危機に際して及川海相一派が探つた方針は、前記三国同盟の当時と全然同一の筋であつた。人変らず、事態いよいよ急である。昭和十六年十月十二日の荻窪会議は和戦を決する重大会議であり、近衛は一に海軍の援護に依つて戦争を避けたいと願つた。ところが其の日の朝早く、及川海相は岡軍務局長を近衛邸に遣わし、
 「海軍は交渉(註。進行中の日米交渉)の破裂を欲しない。すなわち戦争は出来るだけ回避したい。しかし、海軍としては表面に出してこれを言うことは出来ない。今日の会議においては海軍大臣から、和戦の決は首相に一任するとのべるから、そのようにお含みおき願いたい」
と事前に申入れを行つている。そうして午後の五相会議において海相は次の通り発言した。
 「海軍は和戦の決を総理に一任したい。和で行くならば何処までも和で行く。すなわち多少の譲歩をしても、交渉をあくまで成立させる建前で進むべきである。交渉半ばにして、交渉を二、三カ月してから、これではいけないからサア戦争だといわれては海軍は困る。戦争をやるなら、いまここで決めなければならない。最後の時が来ている。戦争をやらないというなら、あくまで交渉を成り立たせる建前で進んでもらいたい」
 これは勿論速記ではないが「近衛公手記」、永野軍令部総長の話によつても内容に間違いはない。
 静かにこの文面を見るとき、読者は、海相が戦争を欲せず、なんとかして日米交渉を成立させたい意図をもつて発言していることが読めるであろう。そうして何故にモウ一歩、いや半歩でも踏み込んで「交渉をあくまで成立させるべきだ」「対米戦争は回避すべきだ」と明言するだけの勇気がなかつたのかを疑うであろう。一方に近衛首相は日米交渉を成立させたい、対米戦争は回避したい、という願望で胸が一杯なのだが、それをみずから発言裁断する勇気がない。かれが大所高所から右の裁断をくだすべき第一人者の地位にあつて、これをなしえなかつたのは、最高の責任を問われる理窟であるが、同時に、それだけの勇気を、この公卿近衛家の血の中に求めることは事実上無理であつた。そこで、近衛が唯だ一つの頼りとするのは「海軍」であつた。「あくまでも対米交渉を推進し、少しは譲歩しても成立させるがいい」と明言してもらいたいのだ。日米交渉の成立條件の一つには中国本土からの撤兵があるが、泥沼深く踏み入れた足を洗うには、これが潮時であるという意見が、陸軍部内の一部にも行われていたのだから、日米交渉の成立は一石二鳥の外交であつた。その基盤を海軍の発言に希求したが、海軍はついに言明を避け続けたのである。
 いな、海軍の対米戦争への「ノー」の一言を期待していたのは一人近衛首相だけではない。実は、問題の陸軍までがこれを心ひそかに待望していた事情がある。東條英機今は亡く、その人から真実の一言を聞くことをえない以上、証言としてこれを断定する手段はないが、陸軍といえども、対米戦争を容易に踏み切れなかつたことは事実である。東條が近衛に対し「海相はなぜハッキリと対米戦争を欲しないと明言してくれないのか」と言い、また武藤軍務局長が海軍の真意を訊しに行つたのも、単なるゼスチュアだけではなく、そこに、最後解決の一つの道を捜していたものと解しうるのだ。
 すなわち対ソ戦争ということなら、陸軍が主兵の責を荷うから、踏み切るかどうか自分で決めることが出来るが(事実は踏み切れなかつたと思うが)、米英という世界の二大海軍国、なかんずく、アメリカを敵に回す戦争は海軍の戦争であり、その勝敗の算は陸軍には判らない。現に、その頃(十六年夏)、筆者に対して「海軍はアメリカと戦つて本当に勝てる見込みがあるのか」と真剣に導ねた陸軍将校が二人まであつた。その一人は松村中将(当時大佐)であつた。《注:「導ねた」は底本のまま。》
 これはもちろん軍部の大勢ではなかつたが、少数の思慮ある将校が、対米戦争の前途を憂えていたことは事実だ。そうして、東條といえども、無條件で戦争に突入することをためらつていたことも殆ど疑いない。ただ、時すでに戦争の病菌は国民の多数を侵していた。陸軍は自らつけた火をさらに自ら煽り、その途方もなく燃え拡がつた火の子を全身に浴びて立つていた。彼れはそれを自ら消し止めることが出来たろうか。
 軍の下剋上は余りにも有名であつたが、その勢いは、朝に銃撃を耳にしなければ夜の眠りにつけないような戦争熱の捕虜となつていた。重慶の道遠ければソ連に向うも可なり。ソ連危うければすなわち仏印の野に陣営の火を焚くといつた具合で、天のいずれにか砲口を向けなければ納らない実情であつた。この内外に燃え立つ戦争の気勢に直面して、陸軍が「平和の指導性」をとることは、思想的にも実力的にも、先ず不可能と断ずるほかはなかつた。
 ここにおいてか、陸軍の願いは、海軍に「対米戦争成算なし」と言つてもらうことであつた。海戦は陸軍の判断外のものだ。海軍が見込みなしというならば、陸軍もそれを信じ、負ける戦さを避けるのに何の不思議も責任もない。すなわち「海軍が駄目だから」という理由を大ッぴらに掲げ、その纏を振つて戦争熱の火を払うという方寸だ。この消防なら比較的容易だ。そうしてそれはまた得意の手法でもある。考えれば空恐ろしい大戦争を回避する手段として、これは頭の悪くない構想と言えた。
 が海軍は、それ故にこそ「表面に出して言うことは出来ない」という立場をとつた。満洲事変を起したのは誰だ。日華事変を拡大したのは誰だ。三国同盟を迫つたのは誰だ。仏印に進駐したのは誰だ。日米交渉を「媚態外交」と叫ばせているのは誰だ。時を得顔の学者や評論家や作家達をして、大東亜共栄圏とか、米英不倶戴天とか、国辱外交とかを書き立てさせ、散々に国民の戦争熱を煽つたのは誰だ。その責任者が、自分で点火拡大した火焔から俄かに身を隠し、今や満天から降りかかる火の子を海軍の頭上にだけ集めようというのは、責任回避も甚だしい。得意の謀略にも程がある。先ず陸軍が消防せよ、海軍ひとりが猛火をかぶるは真ッ平御免だという建前であつた。

    五 陛下も海軍に頼らる
        山本権兵衛地下に怒る

 前述のように、対外危機を招き、併せて国内の戦争熱を発火点近くに煽つた主たる責任が陸軍にあつたことは、衆評の一致する所ではあつたが、海軍の側にも責任がないとは言えなかつた。既にして統帥権干犯問題も、五・一五事件も、危局のスタート・ラインを引いたものだし、三国同盟にも自らの意思に反して危機の手伝いをしたり、十六年に入つては、血の気の多い将校達が米英討つ可しの暴論を支持した事実もあつた。しかし、その度合は勿論陸軍とは比較にならなかつた。むしろ、売名の学者先生や、一部評論家作家達の煽動文章の方が遥かに罪が重かつた。海軍の責任は、先ず意気地のなかつた政治家と程度を争うくらいの所であつたろう。しかるに、その海軍に「非戦妥協」の一切の責任を負わせるとは片手落ちも甚だしい。到底まともに引受ける訳には参らぬというのが、悧巧者の頭から抜けなかつた。
 昭和十六年の秋、軍令部の部長連が「アメリカとの戦争には成算が立たないということを、一層正直に言われたらどうですか」と奨めたのに対し、及川海相の返事は次の要旨であつた。
 「しかし、無敵艦隊を呼号していた海軍が、アメリカとは戦さが出来ないから譲歩しろとは今さら言えないではないか。弱腰の非難を海軍が一手で引受けるのは堪らんじやないか。外部にも内部にも海軍は立場を失つてしまう」
 事情は正にその通りであり及川にも同情すべき点は多分にある。だが、海軍よりも国家が重い、という天秤の目盛を、この人達は見失つていた。と一行で片附けてしまつてはいささか気の毒かも知れない。「海軍の無気力の故にのみ日本はアメリカに屈服した」という昭和十六年の歴史は――当時の歴史は必ずそう書いたであろう――帝国海軍の拭うべからざる汚点として残ることを、その当局者が堪え得なかつたことは察するに余りあるからである。後年の正史は海軍の立場を公正に説明するであろうが、昭和十六年史は、軍の御用学者や幇間ジャーナリスト等によつて書かれるに決まつているから――正論は弾圧されていたから――それは海軍の無気力と対米屈従とを特筆することが容易に想像された。
 しかしながら、結果論からではなく、その汚点とは比すべくもない大きい汚点が、大日本帝国史の上に刻印される危険を想えば――対米戦争に勝算なしと知つていたのだから――海軍一省の一時の恥を忍んであえて救国の大任に赴く勇気が、勇気を本領とする海軍軍人の上に求められることは、決して不可能を強いるものではなかつたろう。いな、それほどの高い見識と、真の勇気とを求めるのが、海軍を信じていた人々の、海軍に対する尊敬の表示でさえあつたのだ。現に、二年前に、米内と山本とは燦然とそれに応えたではないか。
 戦争熱の暴風はいよいよ勢いを増して平和の戸締りは随所に倒れそうである。亡国の爆薬を満載した車は、三宅坂を半ば下りつつあつた。いかなる力も、最早やこれを制止することは不可能に見えた。
 現に天皇陛下さえ、大元帥の威をもつてしても、その猛勢を堰き止めることは出来なかつた。天皇が、対米英戦争を避けて平和的解決を祈念されたことは、戦後あらゆる記録の上に明証されるが、それが功を奏しなかつたこともまた歴然たる事実である。九月六日の御前会議の席上、陛下が明治大帝の平和の御歌「よもの海、みなはらからと思ふ世に、など波風のたちさはぐらむ」を声高く誦されて平和の方針を暗示されたその声も、軍の耳には馬耳東風、逆に議は戦争準備へと動いた。人はそこに既に「幕府」の形成されつつあるのを見る。
 ただ、「幕府」といえどもどうにもならないことが一つあつた。海戦これである。幕府は軍艦を持たなかつた。戦争中に、自分の思う所へ自由に飛行機を運ぼうというので、小さい航空母艦を設計した程の陸軍ではあつたが、アメリカとの海戦には手の出しようもないから、海軍が「ノー」と言えば退き下がるほかはなかつた。海軍が「成算なし」と言えば「敗けても構わないから戦争をやる」というほどの無謀はあえてするわけはなかつた。永野軍令部総長が「二ヵ年は戦える。それから先は判らない」と言つたので、「二年以内に大勝すればヤンキーの戦意は屈するに違いない。屈しなくても、二年後は不明というのは一つの賭博だ。戦争は元来が賭博だ。やッてしまえ」ということになつた。戦争を欲した者の結論らしい。
 永野の二年説が既に不完全であり、不徹底と評されるのだ。つまり甘すぎるというのだ。況して米国人の民族性や生産力を熟知し、二年以後の方が恐ろしい、という見通しを、陸軍に求めるのは無理というものだ。この実情においては、海軍が「ノー」という以外には、爆弾満載のトラックを三宅坂の中途で制止する術は絶無であつた。天皇も識者も、気の毒ではあるが、海軍に「ノー」と言つてもらうほかには手のつけようがなかつた。救国の一撃は願わくは霞ガ関の赤煉瓦の中から叫ばれるほかはなかつた。嘆くべし、そこから「ノー」の代りに「沈黙のイエス」が答えられたのである。
 これについて痛切に偲ばれるのは、連合艦隊の建設者山本権兵衛大将(海相四代、首相二回)の勇気である。
 明治三十三年山県内閣のとき、陸軍は厦門に出兵する允裁を得て後に山本海相に諒解を求める会議を開いた。外相官邸に、山県首相、大山参謀総長、桂陸相、青木外相あり、先ず桂陸相から出兵理由と経過との説明あるや、山本海相は断乎として反対し、論争数時間の後に次の爆弾を投下した。
 「海軍は理由不明の汽船が軍隊を積んで海上を彷徨しているのを見れば、之を海賊船と認めて撃沈することがある。これは戦時国際法に於て公認されていることを御承知願いたい」
 と――。満座沈黙。大山参謀総長は直ちに宮中に伺候して出兵の允裁取消しを願い、問題は一日で解決した。山本海相は、更に明治三十六年にも、陸軍の朝鮮出兵を真ッ向から阻止して国家の危機を救つた有名な話がある。彼れの見識と偉大なる勇気は、海軍の教科書になつていたのだ。
 これを、対米戦争決定の閣議における海相の言動に対比して読者の感慨は如何であろう。もし当時の海相に、山本権兵衛の勇気の半分でも分け与えることが出来たら、太平洋戦争は起らなかつたに相違ない。内乱に類する国内騒動は起つても亡国の嘆は避け得たに相違ない。少なくとも、領土を半分失つてしまうような跛行の日本にはならなかつたはずだ。また、山本の四分ノ一の部内統制力が当時の海軍幹部にあつたら、同じく惨劇は避け得たであろう。
 序でながら山本は勇気と併せて智謀をも備えていた。彼の勇気は猪勇とは違う。大局に着眼し、現実を見定めてそれを断行した。日露戦争前常に戒しめて言つた。天佑を頼んではならぬ。海戦は数理の上に立つものだ。まず数の優劣を綿密に計量しその上に術を考慮せよと。そうして前後九年にわたる海相時代に、戦艦六、大巡六、軽巡八、駆逐三〇を世界一流の水準で整備し、他に相当の予備艦を備え、第一艦隊を東郷、第二艦隊を上村、第三艦隊を片岡に配し、これを統合して「連合艦隊」を組織させ、それで敵の二大艦隊を各個に撃滅する基礎を作つた。故にいま連合艦隊の全滅を最も悲しむと同時に、開戦直前の優柔不断を烈火の如く憤うる者は地下の山本権兵衛でなければならない。《注:「憤うる者」は底本のまま。》

    六 斯くて自ら亡ぶ
        加藤友三郎の智勇あれば――

 連合艦隊の全滅を地下に泣く他の一人は、山本権兵衛に次いで、加藤友三郎である(海相四回、後に首相)。その間に東郷平八郎があるが、同元帥は武将の標本であり、政治には全然触れない建前を一貫し、仮りに対米戦争の是非如何と問うても、恐らくは微笑をもつて答えるのみであつたろうと思われるから、むしろ東郷が最も信頼して万事を任せていた加藤について回顧するのが適切かつ必要であろう。
 昭和十六年秋、もし加藤が任にあつたとしたら、彼れは極めて静かに「ノー」と答えた後、如何なる脅迫にも臆せず、さらに陸軍の猛者連をも説き伏せていたろうと信じられる。かつて田中義一大将(原内閣の陸相で加藤と同僚)が、加藤は明日からでも総理大臣の出来る男だと敬服していたことを想起する。ワシントン軍縮会議における加藤(首席全権)の名声については既に触れておいたが、初めアメリカの漫画記者は、徳川家達を馬鈴薯に、加藤友三郎を蝋燭にたとえて面白く描いたところ、加藤の手腕が非凡なるを実証したのを見て、費府パブリック・レッジャー紙の外信部長フレデリック・ワイル君は「加藤提督は常に危機の会議場を照らした」と書いて記者団の敬意を代弁した。
 その会議に海軍の専門委員として参加した加藤寛治、末次信正、山梨勝之進、野村吉三郎以下の錚々たる連中(山本五十六は未だ大尉だつた)は、米国原案の一〇対六比率に反対して一〇対七への修正を強力に戦つた。が、その専門委員会に於ける十回に亙る論争も遂にその効なく増率不成立と決まつた一夜、加藤寛治少将(後大将、軍令部長)は友三郎全権を訪うて「七割が得られない以上は旗を捲いて帰国すべき」ことを、海軍の総意として熱説深更に及んだ。これに対し加藤全権は、六割受諾の大局的必要を諄諄と説いて暁を迎えた。その朝全権は私に「加藤の熱心には弱らせられたヨ」と微笑したが、一方に寛治氏は「一晩中やつたが駄目だ。せめて六割五分でもと迫つたが、一分一厘も譲らン。例の沈勇(日本海海戦当の加藤評)というヤツだよ」と語つて苦笑した。
 加藤友三郎全権も、出来るなら七割の方が望ましいと考えたことは勿論の話だが、肚の底では不可能と見通しを附けていた。会議の第一日に早くも六割を受諾する外はなかろうと私かに決めていたようだ。即ち十一月十一日夜(大正十一年)、ショーラム・ホテルで私と対談したとき、「君、今日の会場の有様は何うだ。あの拍子はアメリカ全国民の与論だね。全国民の支持を代弁したものだ。恐るべき力だ」と語つた。その時、私は彼れが受諾の余儀ないことを、遠回しに説得しているのだナと感じたことを想起する。
 顧みるに大正十年、八八艦隊のための海軍費は実に国費の三分の一に達し(陸海合せて総歳出の四八%)、以後さらに増大するので財政耐え難しと見通しを附けており、相当の犠牲を払つても米国との軍縮協定を利益とする大局観を持つていた。そこで自ら海相四代を勤めて築いた八八艦隊を自ら縮減協定し、多数の将兵を整理して海軍費を半減し、総軍事費を国費の二八%まで切り下げた。彼れの沈勇に俟たなければ出来ない芸当であつた。
 その加藤が我が海軍の存在理由を説いた「不戦海軍論」は「その存在のために外国の侵略を躊躇させればいい。大なる犠牲を払わなければ日本を侵せないだけの力で足りる。相手の軽侮を受けないのが目標である。あとは政治外交の領分である」というのであつた。要は、「相手が我が方の力を憚つて手控えし、それで平和に落ちつくのが国防の要諦だ」と主張したのである。これを現代語に翻訳すると、今の日本に八吋砲程度を備えた軍艦が二、三隻あつたら李承晩ラインなぞというものは、初めから現われる筈がなく、平和は常に保たれているといつた論法だ。
 その大局観を、当時の実情に照合すれば如何。アメリカが我が海軍の大なる存在を認識し、出来るだけ衝突を回避しようと努めた跡は歴然たるものがある、昭和十六年十一月二十日の遅きにおいてさえ(開戦十八日前)、ルーズベルト大統領は自ら次の如き妥協案を作り、ハル長官をして英蘭支の三国に開示させている。
 (イ)米国は日本に石油の輸出を再開する。
 (ロ)米国は日支間の直接会談を斡旋する。
 (ハ)日本はこれ以上海外に派兵せず、かつ米国が欧州戦争に参加するも三国同盟條約を発動しないこと。
 同案は中国の猛反対に合い、最初は賛成したチャーチル英首相も途中から中国の反対を支持するように傾いたので大統領も余儀なくこれを徹回した。そうして一応、中国を満足させるだけの強硬さを含んだハル覚書に取代え、それを試案と註して日本に送つた(日本はこの試案を最後通牒と発表した)。この間、なお米国の肚の中を読むに足るであろう。
 さらに軍令部長スターク大将は日本を牽制するための艦隊巡航案――空母一、巡洋四、駆逐若干から成る艦隊をマニラあるいはシンガポール方面に巡航させる案――を十六年二月以降二回までも拒否している。理由は日本の海軍を刺戟する不利の方が大きいというのだ。次いで英外相イーデン(現首相)から「米艦隊がハワイに駐まるのは自国の領土に居るのだから、余りにノーマルに過ぎて牽制にならない」という妙巧なる口説に対しても、同じ理由で動かなかつた。《注:「妙巧」は底本のまま。》
 加藤友三郎の「不戦海軍論」は太平洋の彼方に燦として活きていた。海軍は唯だ正直一途に、対米戦争不賛成と言えばよかつた。憐れむ可し、一言「ノー」の勇気を欠いて無謀の戦争に引摺られ、百戦功なくして遂に全滅の悲運に会う。ああ、大艦隊はもはや再び還らない。その大なる存在も、今は昔の物語と化した。昔、中国の詩人が阿房宮を嘆いた筆法をもつて結べば、
 我が連合艦隊を亡ぼしたるものは日本なり。敵国に非ざるなり。
(おわり)