【三】
(お里、縁談を断る お里と新六の祝言 新六、鍼医沢市となる お里、新六の眼病治療を志す)

 婚姻は人一代の大礼。妻にしろ夫にしろ、撰(えら)み損じると一生の不作。「冠婚祭は人間の大礼。」と申しまして、町人でも白無垢を着るのを許されるは、階級の六ヶ敷(むずかしい)徳川時代でも、元服に婚礼葬式なぞでございます。
 西洋では三年も四年もお互いに気心を知った後(のち)に夫婦になる。一定の財産が無ければ法律で結婚を許しません。夫婦になるとすぐに旅へ参りますが、アレハ誠に宜(よ)い事で、西を見ても東を見ても知らぬ他国。自然と二人の愛情が濃(こま)やかになります。英吉利ならば日本へ遊びに行くとか、亜米利加なればパリーへでも行くとか。日本人も近頃は大分、新婚旅行をいたします。夫婦そろって欧米を見物に出掛ける。其の一段下がった処で、朝鮮から満州に遊びにゆくとか、其の一段下がった処で、夏期(なつ)ならば有馬の湯治から須磨・明石を見物して、帰りに京大阪を廻って来るとか、其の一段下がった処で箱根へ行くとか、愈々下がった処で深川富川町(ちょう)の木賃宿へ泊って、翌日(あくるひ)馬肉のカツレツを喰って帰るなぞという事がございます。
 昔時(むかし)は「親の許さぬ不義いたずら」と申して、娘でも倅でも、自由結婚をすると不義の汚名を被(き)たもの。「親の許したものを嫌うのは不孝である」なぞと申します。「十人寄れば気は十色(といろ)。」親の眼識(めがね)に叶っても、子の眼識(めがね)に叶はぬ上は、婚礼を無理にさせるという訳にはゆかない。「言い交した男にすまぬ。」と言って、婚礼の晩に逃げ出す娘なぞがある。出入りの者は手を八方にわけ、之を探すなぞという大騒ぎ。婿も義理で探しに出る。古い川柳に
   『礼々と追手の中に婿の顔』
こうなっては困ります。
 大阪屋万兵衛夫婦は娘の縁談について大層喜び、早速おさとを呼びよせ、
万『婆さん、こういう事は女の役だ。お前からおさとに話をしておくれ。』
母『おさとや。お前、モー子供ではないから、よく今妾(わたし)の言う事を聞いて返事をしておくれ。実は先刻(さっき)中川さんがお出(い)でなすって、蔵奉行の高木様の若旦那七之助様が「お前を女房(よめ)に欲しい。」と被仰(おっしゃ)るのだが、高木様は三百石お領(と)んなすって御内福ではあるし、若旦那は今年廿一、此の間祭礼にお出(い)でなすって、お前も見て知って居(い)るだろう。誠に柔(やさ)しいお方。それに御両親も柔和(やわらか)な方だから、何も辛い事はあるまいし、こんな宜(い)い縁談は又と来る気遣いもない。「葉桜になるまで知らぬむこ撰(えらみ)」という古い句があるが、男と違って女は年頃を外すと出世が出来ない。是は取り極めた方が宜(よ)かろうと思うが、お前どうお思いだエ。』
 聞かれておさとが何も言わず下俯向(したうつむ)いて考えて居ります。親父万兵衛、此の様子を見て、
万『何を考えて居(い)る。考える処はあるまい。吹けば飛ぶような町人の娘を蔵奉行の高木様から貰いに来た。それも妾(めかけ)・てかけというじゃアなし、「御新造・奥様にしよう。」と言う。こんな結構な縁談はお前一代に此の後ともあるまい。いかに「女にすたりが無い。」と言いながら、年頃をはずすと、今婆(ば)アさんの言った通り出世はできない。黙って居(い)るのは不承知か。親の言い付けを背くか。』
さと『ハイ。妾(わたし)は高木様へ参るのは不承知でございます。』
万『なに、高木へ行くのは不承知だ。それは又どういう理由(わけ)だ。若旦那が気に入らぬか。但し先方(むこう)の身分が気に入らねえか。』
さと『どういたしまして。勿体ない。』
万『それじゃア何で高木様へゆくのを「否(いや)だ。」と言うのだ。』
さと『それなら阿父(おとっ)さん、お話を申します。妾(わたし)が高木様へ参るのを否(いや)だと申しますのは、去年の八月、アノ出水(でみず)の時、既に死のうとした処を新六さんに助けられ、妾(わたし)は危うい命を取りとめましたが、お気の毒なのは新六さん。アノ時濁った水が目に入って、それから此の方眼病にかかり、当時では物の黒白(あいろ)も判らぬとの事。其の元は妾(わたし)でございます。「どうか生涯の夫とするは、新六さんより他には無い。」と、覚悟いたして居ります。眼の不自由なアノ方の傍に従(つ)いて、命を助けられた御恩報じ。末永く御世話をしたいと思います。アノ去年の出水(でみず)に新六さんが助けて下すった時に、阿父(おとっ)さんは何と被仰(おっしゃ)いました{*1}。「十五までは俺の子であったが、今度の出水(でみず)からは新六さんのお影で、お前は此の世の中に居られるのだ。」と被仰(おっしゃ)いましたろう。其の恩人の新六さんの御介抱をして、一生終わりたいのが妾(わたし)のお願い。どうぞ此の縁談は断って下さいまし。』
 キッパリ言われて大阪屋万兵衛、妻のおなをと顔を見合わせたが、
万『ウーン。それで此の縁談を断るのか。』
さと『ハイ。』
 此の時に万兵衛が思わずホロホロと涙を流し、
万『イヤ、お里。それが真実なら、お前は大層なものだ。親に勝る子というものは世間に少ないものだ。けれどもお前は親に立ちまさった立派な人間。命を助けてくれた恩人が盲目(めくら)になったら、其の人を介抱をして生涯を終わりたいとは美しい心懸け。お前の心にくらべると、此の万兵衛の胆肝(きもたま)は雪と墨ほど違う。実にお前に恥ずかしい{*2}。「向うは三百石領(りょう)の蔵奉行の御子息。お前を縁付(かたづ)けて置けば、何かにつけて利益があるだろう。」と、町人のさむしい了見から、此の縁談をまとめようとして。イヤ、恐れ入った。早速中川さんがお出(い)でになり次第、断るとしよう。是が、高木様より御身分のある処へ縁付(かたづ)く為に断ったら悪かろうが、水飲み百姓の、しかも盲目(めくら)の新六の処へ縁付(かたづ)けると言うのだから、慾に眼が眩(くら)んでした事とは先方でも思うまい。イヤ、泣くな、泣くな。親恥ずかしい立派な心。婆さん、どうもお前と俺の子にしちゃア、ちっと出来すぎた娘(こ)が出来た。』
母『すべて子というものはネ、女親の了見に似るものだと言うから、結局(つまり)妾(わたし)が心立てが善(い)いから、こういう娘が出来ました。』
万『此の婆ア、すぐに自慢を言いやアがる。畑がよくッたって、種が悪ければ仕方がない。俺の種なぞは、農商務省試験済、特別製の種だ。何しても、娘は大層な心懸けだ。それに就いて、新六の伯父さんを招(よ)んで、一ツ相談をして見なければならない。』
 とんだ事から縁談が纏まるもの。「若鮎やつらぬ柳にはねてゆき」という句がございます。世の中の事、とかく反対に出たがるもの。すぐに新六の伯父の源兵衛を招(よ)んで、縁談を申し込む。源兵衛は、「夢ではないか。」と驚いた。すぐに此の事を新六に告げまして、「善は急げ。」九月の十五日を以て婚礼当日と定めた。
 こういう事とは知らず、中一日過(た)って、吉左右(きっそう)を聞きに参った中川幸之助。
幸{*3}『万兵衛。娘は不承知はあるまいナ。先方も大層お喜びなすって、御病気であった若旦那が、すぐに床を離れて飯を喰うというような勢いになった。どうだ。娘は何と申した。定めし喜んだろう。』
万『処が誠にお気の毒様。』
幸『何がお気の毒さまだ。』
万『娘も定めし喜ぶ事と存じまして、あなたがお帰りになって間もなく、だんだん話しました処、「どうか此の縁談は断ってもらいたい。」と申します。本来「親類に苦情があります。」とか「御籤(おみくじ)が悪い。」とか言って、お断り申すんでございますが、そんな古い事を言った処で仕方がございません。肝心な娘が不承知では、とても此の縁談は纏まりません。お断りを申します。』
幸『是は驚いた。他に驚く事はないが、一竿子(いっかんし)に五両、損をしてしまった。』
万『それはお気の毒さま。』
幸『何で断る。只「厭だ。」と言うのではあるまい。「こういう訳だから断る。」という、確かな処を申して貰いたい。』
万『ヘエ。』
幸『又当人が厭と申しても、親の威光で纏められぬ事はあるまい。』
万『イエ、私は娘のモー親ではございません。』
幸『なに――、おさとの貴様は親ではないとは、それはどういう訳だ。』
万『実は去年の出水(でみず)に既におさとが死ぬ処を、此の土佐町の下(しも)に居ります百姓の新六が助けました。其の者がおさとを助けた時に、濁り水が眼に入って、それから後(のち)眼病となり、トウトウ只今では盲目(めくら)になりました。其の節私が「十五までは俺が育てたが、是から先世の中に居(い)られるのは、新六さんのお影だ。」と申しましたから、おさとはモー私の子ではございません。娘も「自分を助ける為に盲目(めくら)になった新六を、其の儘にはして置けぬ。アノ人の女房になって、生涯介抱したい。」と申します。どうか高木様へ御立腹の無いよう、宜(よろ)しくお断りを願います。』
幸『全くか。』
万『何しに偽りを申しましょう。』
幸『随分貴様の娘は変わって居(い)るな。』
万『どうも仕方がございません。』
幸『コレ、万兵衛。断るに都合が悪いから、そんな口実を設けて、一旦此処をだまして、娘を金満家(かねもち)の処へ、妾(めかけ)奉公にでも出すのでは無いか{*4}。もしそういう事があると、其の分にはすて置かんぞ。』
万『決して偽りではございません。昨日結納が済みまして、明日十五日が吉日(きちにち)でございますから、おさとを遣わす事になりました。誠にお気の毒さま。さようなら。』
幸『コレコレ、「さようなら。」は此方(こちら)で申す言葉だ。どうも困ったナ、是は。こうと判って居(お)れば、最初に手金を取るんじゃアなかったが、どうも仕方がない。デワ、先方には何とか申して置こう。』
と中川幸之助、失望して高木七兵衛の処へ参りました。
 「今日はいよいよ纏まる。」と思うから、七之助は父の前に母と二人で控え、父七兵衛も身体(からだ)も快(よ)くなりましたから、「中川が来たら一口飲ませて先方の返事を聞こう。」と、酒肴(さけさかな)を取り揃えて待って居る。
女『中川さんがお出(い)ででございます。』
父『是は是は中川。大きに太儀であった。倅もナ、是(これ)へ疾(と)くに参って、お前の帰りを待って居った。ハア、何は無くとも今日は芽出度い日だ{*5}。一口飲んでもらいたい。』
幸『有難い事で。』
とは言ったが、どうも此の事を言い出すのが気まりが悪い。「大丈夫、大丈夫。」と最初受け合ったのだ。今更「先方が不承知。」とは言えない。といって、秘(かく)して置く訳にはゆかず、頻りに考えて居ります。
 七兵衛親子は知らぬから、
父『何と申したナ、先方は。』
幸『どうも利害を知らぬ奴は仕方の無いもので、町人は困りますナ。』
父『何と申した。』
幸『イヤ、お話するも馬鹿馬鹿しい。実は十中の八九と申し上げたいが、十の物なら十二まで大丈夫だと思った此の縁談が、破談になりました。』
 之を聞くと、一番驚いたのは七之助。「ウーン。」と呻吟(うな)り始めた。七兵衛も些か意外の思いをして、
父『何故破談に相成った。拙者の身分が気に入らぬか。但し倅が気に入らぬか。』
幸『イヤ、それが馬鹿々々しい話で、去年の出水(でみず)の時、水に溺れておさとが死なんとした時に、新六という百姓が助けました。それが、其の節濁水が目に入って盲目(めくら)になりました。「自分故盲目(めくら)になった新六故、同じ人の妻になるなら其の人の妻になりたい。」と、こう申して居(い)るそうで、何と馬鹿な女ではございませんか。「名を取るより徳を取れ。」の今日(こんにち)、生涯連れ添う夫に盲目(めくら)を撰(えら)むとは、何事でしょう。アノ女は馬鹿ですナ。呆れて物が言えません。しかし破談になった言い訳を私がするようですが、アンナ馬鹿な女はおよしなさい。実に何とも言うべき言葉もございません。呆れた奴で。』
父『ウーン。感心な者だナ。そう聞く上は、尚更倅の嫁にほしい。えらい者だ。』
幸『ちっともえらくはございません。馬鹿女で。』
父『イヤ、そうでない。年頃な娘が当家を嫌って、命の恩人であるから盲目の新六を生涯の夫に定めるとは、見上げた心懸け。七之助、此の縁談は言わぬ昔時(むかし)と呆(あきら)めろ。実に万兵衛は良い子をもって幸福(しあわせ)だ。イヤ、中川。いろいろ世話になって忝い。』
 礼を言うて、之から御馳走をいたしました。流石に高木七兵衛は、おさとの志に感心して大層之を賞(ほ)めた。失望したのは七之助。己が盲目(めくら)に見かえられたのだから、口惜(くや)しくって寝ても眠(ね)られない。
 スルと此方(こちら)は大阪屋万兵衛。九月十五日に立派な支度で娘のおさとを新六の元へ遣わしました。時におさとが十六、新六が十九。伯父の源兵衛は大層喜んで、「過ぎさった新六の両親新兵衛夫婦が生きて居たら、さぞ喜ぶ事だろう。それについて、芽出度いには違いないが、新六が盲目(めくら)になったのが気の毒だ。婚礼の当夜、今宵を晴(はれ)と着飾った美しいおさとの姿を、見る事も出来ないとは実に不愍な者だ。」と思うと、先立つものは涙のみ。
 若夫婦は頗る仲睦まじく、新六は盲目の事でございますから、鋤鍬を取って百姓は出来ない{*6}。高取に三田村春庵という鍼医がございまして、是が植村家へ出入(はい)って、名人と言われた者。其の人に従(つ)いて新六、揉療治なぞを学び、傍ら生田流の琴を学びました。琴の方は自分が好きで習ったので、鍼術(しんじゅつ)は三年目にようよう師匠から免(ゆる)しを受けました。デ、今では土佐町で鍼医となる。此の間に伯父の源兵衛が病死をし、引き続いておさとの実家・大阪屋万兵衛が相場で損をして、身代を潰す。之を気病(きやみ)にして冥途の客。続いて母も没しました。
 サア、おさとが困ったは、今までは不足(たらぬ)処は実家から貰ったが、こうなると夫新六、当時鍼医の沢市。此の人の稼ぎと僅かな田地の上(あが)り高で生活(くらし)を立てなければならぬ。それも実家が分散をする時、沢市所持の田地も売って、残るは僅かなもの。小作に任して置いては、思うように収入(みいり)がございませんから、おさとが自ら鋤鍬を取って田に出るような始末。しかし、是を辛いとも思わず、一心不乱に稼いで居ります。
さと『沢市さん、お帰りかエ。』
沢『今帰って来た。モー何時(どき)だろう』
さと『モー日が暮れましたヨ。』
沢『アーそうか。秋の日は短いなア。』
と言いながら、ホロリと涙を流した。
さと『沢市さん。お前さん、何で涙を流しなさる。』
沢『イヤ、涙じゃアない。』
さと『確かに妾(わたし)は涙と見た。世には嬉し涙という事があるが、今の身分で嬉し涙の出る訳はない。何でお前さん、涙を流したか。妾(わたし)に話して下さい。』
沢『おさと。それじゃあ言うが、「お前は高取から土佐町へかけて分限と言われた大坂屋の娘。それが私のような盲目(めくら)の元へ嫁付(かたづ)いて、慣れぬ百姓業(わざ)をし、人は物見遊山に行く時も、俺のような不具者(かたわもの)の面倒を見て、こんなはかない生活(くらし)をして居(い)るか。」と思うと、実に気の毒になって涙が出る。』
さと『何の沢市さん、そんな事に遠慮は無い。お前の眼の見えないのは、妾(わたし)は承知で来たのだから、悲しい事も辛い事もありません。そんな事を思って身体(からだ)を悪くするといけないから、気をしっかりもっておくんなさい。それにお前さんの眼も、生まれつきの盲目(めくら)ではないのだから、名医にかかって手当をしたら、元の通りになる事もございましょう。』
沢『イヤ、其の事でお前にちょっと話そうと思ったが、大阪の八軒家(はちけんや)に、松並良山という大層な眼医者があるそうだ。其の人にかかって眼の開いた者が二三人あると、今日療治に往った伊勢屋の旦那が話をなすった。どうか其処へ往(い)って療治をして見たいと思うが、先に立つのは金だ。アー。貧は諸道の妨げ。』
と言いつつ、ゴロリと横になって手枕をした沢市。泣き顔をおさとに見せじと、手拭を顔に当てる。夫の言葉を聞く度に、胸に釘を刺されるような心持ち。貞節なおさとが、何とかして金を都合をいたして、沢市の眼を癒(なお)さん、と思う処へつけ込む悪党ども。ここにおさとが大難にかかるというは、次席に申し上げます。

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校訂者注
 1:底本は「時(とき)に附父(おとつ)さんは」。誤字誤植と見て訂正。
 2:底本は「実(じつ)にお前(まへ) 恥(はづか)しひ」。カスレ一字を補った。
 3:底本は「万『万兵衛(まんべゑ)、」。誤植と見て訂正。
 4:底本は「一旦(いつたん)此処(こゝ)をだたまして」。「た」は衍字と見て消去。
 5:底本は「ハア何(なに)は無(な)くども」。誤植と見て訂正。
 6:底本は「頗(すこぶ)る仲睦(なかむつま)しく」。読みやすくする意図で修正。