【五】
(お里、駕籠で高木の屋敷へ 伝九郎、お里を折檻 佐平次、お里を逃がす)

 伝九郎は、あくまで親切に表面(うわべ)を見せて、おさとを我が家(や)へ連れ込みました。
伝『阿母(おっか)ア、おさとさんを伴(つ)れて来た。』
かめ『オヤ、そうかえ。定めし夫婦別(ろくだんめ)が永かったろうネ。』
伝『何の。俺が傍で急き立ったので、思いの外早かったヨ。』
かめ『そうかえ。サア、おさとさん、此方(こっち)へ御出(い)でなさい。今に桜屋から迎いの駕(かご)が来るでございましょう。』
さと『今度はいろいろと御世話になりまして有難う存じます。』
かめ『何の御礼なんぞ要るものですか。誰しも困るのは同じ事。それにお前さんは、新六さんの眼病を癒(なお)したいという一心で、桜屋へ奉公する事になったのですもの。思えば気の毒な御身の上。決して私達へ御礼なぞの心配をなさいますな。それから、お前さんも新六さんの事が心配でございましょうが、妾(わたし)たちが従(つ)いて居(い)るから、後(あと)の事は御苦労なさいますナ。』
さと『何から何まで有難うございます。』
伝『オイ、阿母(おっか)ア。桜屋の迎いはまだ来ねえか。』
かめ『お昼までは来るつもりだが、どうした事だろうネ。』
伝『迎いに来るなら早い方が宜(い)いが……マア、何しろ阿母(おっか)ア、一盃酣(つ)けてくんねえ。』
 是から伝九郎が酒を飲んで、迎いに来るのを待って居(い)る。ちょうど午後四時(ななつごろ)から秋の日和ぐせか、降り出して参った雨。日が暮れると益々劇(はげ)しく、抜けるような大降雨(おおぶり)になりました。
伝『大層降って来た。モー今時分まで来なければ、明日(あした)でなければ迎いの者は来(こ)めえ。こうと知ったなら、おさとさんを今夜一晩、新六さんの所へ置いて置くのであったが。飛んだ気の毒な事をした。』
かめ『そうだったネ。何ならお前、ちょっとおさとさんを新六さんの所へ連れて行ったらどうだえ。そうして翌朝(あした)迎いに行(ゆ)くとして。』
伝『そうヨナア。』
さと『イエ{*1}。妾(わたし)はモー新六さんに別れてここへ参りましたもの。是から帰って此の上涙を流すのも辛うございますから。』
伝『成程。それもそうだ。じゃア今夜ここへ泊って、明朝(あした)迎いが来なければ、駕(かご)を仕立てて此方(こっち)から行(ゆ)くとしよう。』
〇『もし、伝九郎さんの御住居(おすまい)は此方(こちら)でございますか。江戸金さんの子分で蝮の伝九郎さんの御住居(おすまい)はエ。もし、御休みでございますか。』(ドンドン)
伝『どこから来た。』
〇『奈良の桜屋から参りました。蝮の親分の御住居(おすまい)は此方(こちら)でございますか。』
伝『蝮の親分と言う奴があるかえ。伝九郎というのは俺だ。今あけるから待って居ナ。オイ、お亀。桜屋から迎いが来た。』
かめ『大層遅く来たネ。』
伝『今あけるから待ってくれ。』
 伝九郎が立って参ってガチン……。戸をひらいた。
伝『ひどい降りだナ。』
と言いながら見ると、桐油(とうゆ)の掛かった駕(かご)を一挺門口へ下ろして、二人の舁夫(かごかき)は立って居(い)る{*2}。
伝『大層遅いじゃアねえか。モー彼是亥刻(よつ)だろう。』
〇『実は桜屋の親方が此の先の新沢(にいざわ)まで参りまして、「あんまり労(つか)れたから。」と言うので、一盃飲んで休息して居(い)る間(あいだ)に、空模様が悪くなったと思うと、降って参りました。「今に歇(や)むだろう。」と待って居ましたが、中々歇(や)みそうもございません。ソコデ迎いに参りました。どうぞ、女(たま)を連れて新沢(にいざわ)の山城屋まで御出(い)でを願います。』
伝『そうか。しかし今夜はモー遅いし、それに此の通り雨は降るし。どうだろう、明朝(あした)にしてはくれめえか。』
〇『御最もでございますが、桜屋の親方の言うには、「是非今夜の内に女(たま)を見たいから、蝮によく話して連れて来てくれろ。」と被仰(おっしゃ)います。ねえ、蝮の親分。雨が降って居て、御出かけは迷惑でございましょうが、女(たま)を連れて新沢(にいざわ)まで御出(い)でを願いたいもので。エ、もし。蝮の親分。』
伝『そう蝮々と言うな。成程、昔は人に無暗(むやみ)に噛み付くので、蝮という異名(あだな)も取ったが、今では青大将のように、おとなしくなってしまった。どうも仕方がねえ。それじゃア新沢(にいざわ)まで出かけるから、少し支度をする間、待って居てくれ。』
 舁夫(かごかき)を待たして、是からおさとに此の事を言い、支度いたしました。伝九郎は蓑笠で雨を凌ぎ、おさとを介抱して駕(かご)に入れる。送り出した伝九郎の女房お亀、
かめ『それでは伝九郎さん、気を付けて行っておくれ。おさとさん、身体(からだ)を大事に。』
さと『いろいろ御厄介になりまして有難う存じます。』
かめ『若い衆さん、気を付けておくれ。』
若『ヘエ、さようなら。』
 駕(かご)に肩を入れると、ドンドン担ぎ出した。雨ははげしく、殊には暗(やみ)で、桐油(とうゆ)は下りて居(い)るし、駕(かご)の中に居(い)るおさとは、どこがどこだか方角も判りません{*3}。かねて悪人どもがしめし合わせている事とて、此の駕(かご)を高木の家(うち)へ持ち込みました。
 七之助は、「今に来るか。」と待ち兼ねて居(い)る処へ、
伝『お頼(たの)申します。』
 門を叩くから、「何事か。」と、若党の佐平次、片扉を開くと、それへ担いで参りました一挺の駕(かご)。玄関前へ下ろして、
伝『おさとを伴(つ)れてまいりました。若旦那へ宜(よろ)しく。』
左『イヤ、大きに御苦労。若旦那は最前から待って居らっしゃる。此の儘庭に持って往って貰いたい。』
伝『オイ、若い衆。庭に駕(かご)を持ち込んでくんねエ。』
 是から駕(かご)屋が庭に此の駕(かご)を入れました。
 雪洞(ぼんぼり)に灯火(あかり)を点け、それへ出ましたが、七之助に万事御機嫌取りの父の下役中川幸之助。
七『伝九郎。大きに御苦労であった。』
伝『やうやう是迄引き出して参りました。イヤ、若旦那。降りが強いので、どうも途中が困りました。それに、奈良へ連れて行(ゆ)くという話を、此方(こっち)へ持って来るので、「気(け)取られねえように。」と思いますから、恐ろしく骨が折れました。どうか駕(かご)屋へ充分酒代(さかて)を遣っておくんなさいまし。』
七『イヤ、大きに降るのに御苦労であった。是は少ないが酒代(さかだい)だ。』
駕『有難うございます。オー、熊。一両宛(ずつ)下すった。よくお礼申せ。』
熊『有難うございます。どうか又御用がございましたら、脳天熊に「ヌー虎」といえば、この高取は勿論、新沢(にいざわ)から奈良へかけて、「悪い駕(かご)屋」と評判を取った俺(わっち)たち。善(い)いお役には立ちませんが、悪い方ならいつなん時でも御用を勤めます。エー、もし。蝮の親分、有難うございます。』
伝『人聞きが悪いやイ。蝮々と言うなイ。何しろ女を早く出してくれ。』
 駕(かご)屋が桐油(とうゆ)を取って縁側へ引き出した新六の妻おさと、吃驚(びっくり)いたしました{*4}。もっとも、「新沢(にいざわ)の山城屋という旅籠屋に自分の奉公に参る桜屋の主人が来て居るから、今夜の内に連れて来てくれろ。」という駕(かご)を持っての迎い。今来て見れば、新沢(にいざわ)の山城屋で無くて、かねて「自分を女房にしたい。」と申し込んだ高木七之助の家(うち)。「是から先、いかなる憂き目を見るやらん。」と、おさとの心配は一通りならぬ事。
 伝九郎は、オドオドするおさとの手を取って、
伝『おさとさん。モーこうなっては、いくらお前が驚いたって仕方が無(ね)エ。アンナ盲目(めくら)の新六を亭主にして居た処で、先の見当てのあるのじゃアなし。浴びる程薬を飲んで、眼玉が浮き出す程薬を点(さ)した処で、癒(なお)る訳のものじゃアねえ。そんな者に義理を立てるのは、お前の了見違いだ。老い朽ちた身体(からだ)ではなし、花なら之から咲こうという女。一生今が一番大事な処だ。サア、此の若旦那の言う事を聞いて、「御新造様。」「奥様。」で、此の世の中を送った方が当世だろうと思う。もし、若旦那。なんとかお前さん、言って聞かしてお遣んなさい。』
七『さと、之へ参れ。』
 引き立てられた座敷。酒肴(さけさかな)の用意をして、蝋燭の光に真昼のよう。
七『モッと傍へ来い。只今伝九郎が申した通り、いかなる因縁か、どうも拙者は其方(そち)を忘れる事は出来ぬ。ソコデ、悪い事とは知りながら、計略(はかりごと)で是迄連れて参った。アノ盲目(めくら)の新六に立てる操を此の方に立てたら、一生其方(そなた)は困るまい。安楽に世が渡れる。但し、不承知か。』
さと『冥加にあまりました仰せ、有難くは存じますが、妾(わたし)が水に溺れて死のうとした処をアノ新六さんに助けられ、其の時目に入った泥水が原(もと)で、生まれもつかぬ不具(かたわ)になりました。その大恩ある新六さんを捨てて、あなたの心に従っては、人の道が立ちません。どうぞ此の事ばかりは御用捨下さい。』
七『コレ、其方(そち)は今時の女に似合わぬ判らん事を申す奴だ。』
さと『拝借しました金子は明日(みょうにち)お返しいたします。どうぞ妾(わたし)を之から帰して下さいまし。』
 立とうとするを押さえつけた伝九郎、
伝『ヤイ、おさと。汝(てめえ)位判らねエ奴(あま)はねエ。金せエ返(けえ)しやア事が済むと思って居(い)るか。汝(てめえ)の身体(からだ)を俺が此処へ連れ出したからには、何と言うとも若旦那の思い通りにさせなければならねエ。もし、若旦那。とてもこう言うようじゃア柔らかに言った処で判りません。可哀想だが手荒い事をしなければいけねエだろうと思います。』
七『さようか。さと、愈々不承知なら、身体(からだ)で承知をさせるがどうだ。』
と言いつつ、兼ねて用意の弓の折れをそれへ取り出し、
七『中川。此の女を縛って庭へ引きずり下ろせ。』
中『それは可哀想。こんなかよわい者を其の弓の折れで打っては堪りません。総てこういう事は、気を永く持たなければ目的は達しません。連れて来るすぐ言う事をきかせようとするのが、大体無理でございます。』
七『お前が言うまでもない。此の方も好んで手荒な事を致すのではない。願わくは「おとなしく承知をさせたい。」と思い、利害を説いて聞かせるのが、先方に判らんから、ソコデ手荒な事を致そうと思った。それともお前が説得して、おさとに承知をさせるか。』
中『それはどうも受け合われません。おさとさん。モーこうなったからには仕方がない。飽く迄も剛情はって、怪我でもしてはつまるまいから、若旦那のお言葉に従ったら宜(よ)いと思う。』
さと『有難うございますが、新六に立てる操を汚す事は出来ません。』
中『それでは愈々不承知か。』
さと『ハイ。』
七『中川。早く此のおさとを縛って庭に繋げ。俺が打ってやる。』
 中川も大した悪人でございませんから、此のおさとを縛り兼ねた。
七『伝九郎。貴様縛ってくれ。』
伝『縛るのは宜(よ)うございますが、若旦那。御約束の十両、早く頂きたいもんで。是まで連れて来るのは私(わっし)がお受け合い申しましたが、あなたの言う事を肯(き)く肯(き)かぬは、私(わっし)は関係(かかりあい)はございません。どうか十両、早くお貰い申しとうございます。』
七『跡で遣わしても宜(よか)ろう。』
伝『イエ。こういう事は、とかく跡では苦情が起こるもので。どうか十両、早くお貰い申したいもので。』
七『それでは約束通り、是を持って参れ。』
伝『有難うございます。』
七『其の代わり、此奴(こやつ)を打ち据えるに就いて腕を貸せ。』
伝『それは若旦那いけません。是迄連れて来た骨折りが只今の十両。是から先、鬼になっておさとを責める、其の給金はいくら下さいますか。今の内、極めて置いて頂きてエ。』
七『此奴(こいつ)、中々狡猾な奴だナ。五両遣わす。』
伝『それでは前金に……。』
七『とかく貴様は前金前金と申す。』
伝『どうも前金で無いと、こういう事は仕事がしにくうございます。』
七『サア、五両。持って参れ。』
伝『確かに受け取りました。中川さん、縄を貸しておくんなさい。縄が無ければ下緒(さげお)で宜(よ)うございます。』
平打ちの下緒(さげお)でおさとの小手を縛(いまし)め、
伝『女(あま)、下りろ。』
と、縁側から庭に下ろして、正面の赤松の根方(ねかた)へ繋ぎ、弓の折れを持った伝九郎、
伝『ヤイ、おさと。世の中に汝(てめえ)くれエ判(わか)アねエ女はねエ。アノ盲目(めくら)の新六がどれ程大事なんだ。いよいよ汝(てめえ)が若旦那の言う事をきかなければ、汝(てめえ)の身体(からだ)から承知をさせるがどうだ。但し飽く迄不承知か。』
 おさとは降り出す雨の中に縛(いまし)められ、鬼のような伝九郎が「身体(からだ)から聞く。」との事。身も世もあられぬ思い。
さと『伝九郎さん。今迄お前さんを親切のお方と思って居たのが過(あやま)り。欺(だま)して是迄連れて来るとは情けない。』
伝『何を愚図愚図言やアがる。蝮という異名(あだな)を取った伝九郎。慈悲や情けが微塵もあれば、此の土地で嫌われちゃア居ねエ。又よく考えて見ろ。茶屋奉公を二年する約束で、十五両と纏まった金を貸す奴がどこにある。汝(てめえ)が何にも知らねエから、此の悪計(わるだくみ)にかかったのだ。サア、俺が汝(てめえ)の身体(からだ)に弓を当てるから、堪えるなら堪えて見ろ。痛い思いをしねエ内に、若旦那のお心に従ったが宜(よ)かろう。「貞女両夫に見(まみ)えず。」とは五百年前も前の話だ。サア、どうだ。是でも不承知か。』
 弓の折れを持って、おさとの背筋をピシリーピシリーと、其の痛さは五臓に浸(し)み渡るばかり。
さと『サア、殺せ。たとえ死んでも操を汚してなるものか。』
伝『何、殺せ。たって汝(てめえ)が「死にてエ。」と言うなら、俺が殺してやろう。サア、どうだ。是でもか。』
と、又打ち据える。衣類(きもの)は切れて髪はおどろに乱れ、美しい顔だけに、目がすわって参りますと、其の物凄き事。
伝『どうだ、是でもか。』
と、又打ち据える。
 打ち処が悪かったと見えて、「ウーン。」と一声。絶息(きぜつ)いたしました。
 之を見て居た高木七之助、
七『伝九郎、手荒いゾ。責めてくれとは頼んだが、殺してくれとは頼まんぞ。』
伝『つい力が入り過ぎまして、とんだ事をしましたが、しかし死んだのじゃアございません。気絶をいたしました。気付けがございますなら、早速飲ませます。』
七『之に熊の胆(い)がある。』
伝『それで宜(よ)うございましょう。』
 盃へ熊の胆(い)を溶解(と)いて、おさとへ飲ませました。フッと気が付いたが、息が通うのみで、まるで自分は夢を見て居(い)るよう。恍惚(うっとり)として居ります。
伝『若旦那。之から上責めますと、殺してしまいます。』
七『さようか。それでは物置へでも入れて置け。佐平次、此の女を物置へ入れて置け。』
 若党の佐平次がそれへ出て参りまして、
左『こりゃア可哀想な事をなさいました。若旦那様。大旦那様に此の事が知れましては、あなたばかりではございません、私もどんな御尤(とが)めを受けるか知れません。どうぞ助けて遣って下さいまし。』
七『彼是申すな。物置へ繋いで置け。』
 佐平次、よんどころなくおさとを抱いて、蔵の傍にある物置へ連れて参りました。下に筵を敷いてそれへ寝かし、「アー、気の毒な事だ。」と涙を流した佐平次が、再び庭に帰って参りまして、
左『若旦那さま。物置へしっかり繋いで置きました。』
七『さようか。是へ来て一杯飲め。』
左『イエ。私は御酒を頂戴いたしません。御免を蒙って、部屋で寐(やす)みとう存じます。』
七『それでは早く寐ろ寐ろ。伝九郎、是へ上がれ。サア、一杯飲むから。』
と、七之助は伝九郎に中川を相手に、自暴(やけ)酒を飲み始めました。
 物置に居(お)りましたおさとが、暫く経つと正気に復(かえ)った{*5}。四辺(あたり)を見たが如法の暗夜。殊には物置の内に居りますので、一寸先も判らず。表はいや増しに降る雨。風が加わってドッという音。秋の末とてバラバラバラ。落葉が折々物置の戸に当たります。おさとはつらづら思うよう、「悪人の毒手にかかり、かかる憂き目を見るも前世の宿縁。兎ても角ても無い命。なまじ生きて居(い)れば、此の上の憂き目を見るに相違なし。一思いに此処で死のう。」と決心した。立ち上がらんとしたが、身体(からだ)は利かず。小手は縛められ、死ぬる事も出来ず。ホロホロ涙を流して、「どうしたもの。」と思案の折、
〇『おさとさん。気が付いたかエ。』
 ソッと戸を開いて入って来た一人。「又も憂き目に逢う事か。」と、おさとは闇を透かし眺むれば、
〇『おさとさん、心配の者ではない。私は此処の若党の佐平次だ。イヤ、若旦那の不心得、さっきから聞いて、私は意見をしようと思うが、「なまじ意見をして、此の上お前が責められるような事があってはならない。」と思って、黙って居りました。実は今日、「夕方から客がある。」と言うので、誰が来るかと思って居たら、お前さんであった。先達(せんだ)っても亡くなられたお前さんの阿父さん、万兵衛殿とは永い御懇意{*6}。其の娘のお前がこんなひどい目にあって居(い)るを、何で見て居(い)る事が出来ましょう。定めし新六さんが心配をして居(い)るだろうから、鬼どもが酔い倒れて居(い)るのが幸い。今の内逃げなさい。』
と言いながら、縛めを解き放し、身内の疵を介抱する。
 親切な佐平次に会ったは「地獄で仏」。おさとは嬉し涙にくれ、
さと『御親切に有難うございます。此の御恩は死んでも忘れはいたしません。』
左『何の礼に及びましょう。本来私が送って上げたいが、若旦那が目を覚まして、私(わし)が居ないと面倒だ。お前がせめて十町も逃げ延びる間(あいだ)、何とか若旦那を胡摩化して、追手のかからぬようにするから、今の内早くお逃げなさい。』
さと『有難う存じます。』
 「それでは。」と立ち上がったが、一と足出ては倒れ、二た足出ては倒れ、それを佐平次が介抱して、竹の杖を与え、竹笠をおさとに渡し、裏手よりそっと引き出しました。
左『途中気を付けて往(ゆ)きなさいヨ。是から五六町下(して)へ往(ゆ)くと、江戸金の住居(すまい)がある。アレは御城内の人入れで、侠客達師(だてし)と言われて居(い)る、男の仲の男。其処へ逃げて行(ゆ)きなさい。』
さと『ハイ。』
左『江戸金の家(うち)を知って居なさるか……「ウン、知って居(い)る。」そうか。サア、早く往(ゆ)きなサイ。』

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校訂者注
 1:底本は「エイ」。誤植と見て訂正。
 2~4:底本は「桐油(とゆう)の掛(かか)つた駕(かご)」。少し後ろに「桐油(とゆう)は下(おり)て居(ゐ)るし」、「駕屋(かごや)が桐油(とうゆ)を取(とつ)て縁側(えんがわ)へ」とある。読みやすくする意図で後者をとり、前二者を修正した。
 5:底本は「物置(ものおき)に居(を)りしまたおさとが」。誤植と見て訂正。
 6:底本は「先達(さきだつ)も亡(なくな)られたお前(まへ)さんの」。読みやすくする意図で修正。