【十】
(七之助と中川、断罪される 沢市、療治を断念 塙保己一の事 七之助と中川の争い)
此の時に奉行の山本軍太夫は再び言葉を正し、
山『七之助に中川。其の方共も武士(さむらい)ではないか。此の期に及んで偽りを申すは、大小の手前、恥じ入らんか。昨日拙者の元へ其の方共二人見え、菓子折りの中へ金子を入れ持ち来(きた)ったが、アレは何の為だ。不都合千万。是は只今其の方共へ戻し遣わす。なお、かの節、其の方共二人が申した今迄の悪事は、川村文平残らず筆記致して、此の処に口書きが出来て居(い)る{*1}。偽りを申すナ。』
言われて七之助に中川が驚きました。郡奉行下役(したやく)川村文平、彼ら二人が持参せし菓子折りをそれへ突き出し、
川『是を受け取れ。』
愈々二人は青くなった。山本軍太夫にっこり笑い、
山『是、どうじゃ。恐れ入ったか七之助。其の方の父高木七兵衛は、大坂御蔵屋敷支配をも相勤め、家中に於いて廉潔なる者なりと、専ら評判致される立派な武士。其の家に生まれて、一婦人に迷い、悪漢を語らい貞女を苦しめる段、重々の不届き。追って委しく其の方の悪事、取り調べ遣わす。一件落着迄宅預けを申し付ける。中川幸之助。面を上げろ。其の方、七之助に諂い、悪事と知って加担したる段、不埒至極。一件落着迄。』
幸『やっぱり宅預けでございますか。』
山『イヤ。其の方は入牢(じゅろう)申し付ける{*2}。』
幸『オヤオヤ。』
山『江戸屋金兵衛。追って沙汰致す。本日は里を連れ、引き取りますよう。』
金『有難く御礼を申し上げます。』
ソコデ、高木七之助は、足軽が番をして宅預けになった。中川は入牢(じゅろう)。江戸屋は里を連れまして、帰って参りました。
金『お里さん。正直の頭(こうべ)に神やどる。人間は廻りくどいようでも、真直ぐに道を歩かなければいけない。お前の貞女がお上(かみ)に知れて、悪人の高木様に中川の二人は、今迄の悪事が破(わ)れて、哀れな態(ざま)だ。何しろ、大阪に往(い)って居(い)る沢市さんに、此の事を知らせよう。』
乾児(こぶん)の勘太に申し付けて、大阪八軒家伏見屋という旅籠屋(はたごや)に滞在をして、目の療治をして居(い)る沢市の許へ、今迄の始末を知らせる事になった。
此方(こちら)は沢市。留守中にこんな騒動が出来たとは知りません。松並了山という眼科医の治療(じりょう)を受けて居ります。処が、此の眼が性質(たち)が悪いと見えて、中々癒(なお)りません。江戸屋から従(つ)けて寄来(よこ)した長三郎という乾児(こぶん)が、
長『沢市さん。モー是、此処へ来て二月(つき)にもなるが、どうだエ。少しは眼が見えそうなもんだ。』
沢『ハイ。少しも見えません。』
長『張り合いが無(ね)エな。是でも「いくらか快(い)い。」と言うと、傍について居(い)る者も勇気がつくが、「少しも見えね。」じゃア困るナ。思いきって眼をあいて見ねエ。見えそうなもんじゃアねエか。サア、宜(い)いかエ。俺が此処へ指を出すから当てて見ねエ。しっかり目をあいて。宜(い)いかエ。』
沢『それはあなた、御無理でございます。私は皆無、見えないのでございますから。いくら目をあいた処で判りません。』
長『どうも困ったナ。』
沢『ちょっと便所に往(い)って参ります。』
長『少し待ちねエ。廊下の灯火(あかり)が消えて居(い)るから、怪我でもするといけねエ。今点(つ)けて遣る。』
沢『ハイ。盲目(めくら)でございますから、灯火(あかり)は要りません。』
長『成程そうだ。』
沢『こうなると、目明きは不自由な者でございます。』
長『イヤ、一言もねエ。』
沢市が、手探りながら厠にゆく後姿を見送って、
長『アー、気の毒なもんだ。何とかして癒(なお)してやりたい。』
と、涙を流しました。
沢市は目を癒(なお)したい。一生懸命に日々松並了山の許へ治療(じりょう)を受けに参る。いつでも長三郎が従(つ)いて参ります。
スルト、了山先生が、
長『此の御方についてお出(い)でなさるお前さんに、少しお話をしたい。』
了『何の用でございます。』
長『誠に御気の毒だが、沢市さんという御方の目は癒(なお)りません。是程療治をして験(げん)が見えなければ、金を費(つか)うだけ冗(むだ)だ。此の上は神仏の力によって平癒するようお願いなすったら宜(よ)かろう。』
長『オイ、先生。冗談言っちゃアいけねエ。今になって「療治は冗(むだ)だ。」と言う奴も無(ね)エもんだ。初手からそう言ってくれれば、金を費(つか)って此処に居やアしねエ。今聞けば「此の上は神仏に願(ねげ)エ。」とは何だ。神仏に願う位なら、此処に入費(にゅうひ)を遣って沢市を連れては来ねエ。第一、親分の前へ俺が此の儘連れては帰(けえ)れねエ。せめて一ツでも宜(い)いから見えるようにしてもらいてエ。』
了『それは御無理と申すもの。一ツ目があく位なら、両方ともあきます。』
長『あくなら両方あけてくんねエ。』
了『最初御出(い)での時には、療治をしたら届かぬ事もあるまいと思ったが、どうも性質(たち)の悪い目で、とても愚老の力には及びません。えらイお気の毒な事だが、是も前世の因縁と諦めて、国へ帰って気長に療治をなさい。』
言われて長三郎も力を落とす。当人の沢市は、モー是迄と覚悟をした。
沢『ハイ。先生。よく判りました。あなたのような御名医が療治をして癒(なお)らぬ目、国へ帰って再び療治を加えました処で、到底全快は致しません。是から国へ帰りまして、生涯按摩でこの世を終わると決心を致しました{*3}。』
了『イヤ、気の毒な事だ。兎も角、一度国へ帰ったら宜(よ)かろう。』
沢『ハイ。モー帰る決心を致しました。長三郎さん。すぐに支度をして、高取へ帰りましょう。』
長『ダガ、沢市さん。此の儘帰(けえ)るのも、親分の前へ気まりが悪い。何とか療治のしようはあるまいか。』
沢『イエ。もう先生が見放した上は、療治を加えるだけ冗(むだ)でございます。一日(じつ)も早く帰ると致しましょう。偖、松波先生。永い事御厄介になりました。それでは明日(みょうにち)高取へ帰ります。』
了『返す返すも、御気の毒な事じゃ。しかし、此の世の中には両眼で物を見る人は多くあるが、心の目で見る人は少ない。心眼と言うて、心で見れば、たとい目は見えなくとも判るもの。お前さんは顔について居(い)る目は見えなくも、心の目は確かだ。それ故、導引を修行して、立派な針医におなんなさい。近頃江戸の番町に塙検校という、えらイ盲人(めくら)がある。世を益する沢山の書物を出した。目明きの立派な人達が其の先生の許へ稽古に参るという事を聞きました。どうかお前さんも、是から心眼で物を見てもらいたい。』
と言われ、沢市も、「どうか行く行くは検校になって、江戸屋の親分を始め、お里にも安心をさせたい。モー目の事は諦めた。」と決心堅く、長三郎と二人で伏見屋に帰る。
其の夜、勘太郎が参って留守中の騒動を告げました。沢市、大いに驚き、翌早朝此処を出立をして、高取町へ帰る。勿論一日(じつ)で帰ったのではございません。
成程、松波了山先生の言った通り、心が確かでなければ、目で物を見ても判りません。精神があるから判る。其の頃の川柳に、
『九段坂目明き盲人(めくら)に道を聞き』
という悪口がございます。是は塙検校を申した事で、アノ人は、武州榛野(はんの)の出生。保己一(ほきいつ)と申します。友達と二人で江戸に出て参りまして、神田の三河町(ちょう)の裏居(うらや)住まいをして居りましたが、或る日、友達に向かって、
保『お前は是から何になるつもりだ。』
〇『俺は奉行になって、天下の為に善悪を取り調べ、冤罪(むじつ)で苦しむ者を助けてやりたい。お前は何になるつもりだ。』
保『私(わし)は是から後の世の為、書物を残して置きたい。』
〇『大層な目的だ。盲人(めくら)が書籍(ほん)を残したいとは面白い。それじゃアお互いにそれを目途(めあて)に稼ぎましょう。』
と申しましたが、果たして保己一(ほきいつ)は後、五百石を賜り、徳川の旗本同様な身分になって、番丁に屋敷を構え、群書類聚という書物を出しました。五百何巻という大部の物。塙検校と申して人々に尊(たっと)まれ、大学者になった。やはり妻君(さいくん)が塙の盲目(めくら)を歎きて、十五夜の月を見て、
『明月に坐頭の妻の泣く夜かな』
情愛のある俳句でございます。其の時、検校、
『花ならば探りても見ん今日の月』
流石に塙先生でございます。恐ろしい此の方は記憶の宜(い)い人で、大晦日に弟子が、
〇『先生、明年の暦を読みます。』
と、ズーと暦を読み立てる。それを聞いて残らず覚えてしまい、翌年になって、「今日は彼岸の入りだ。」とか、又は「今日から梅雨だ。」とか、ちゃんと知って居ります。実に恐れ入ったもので、此の検校と一緒に居りました者が、後に御家人の株を買って次第に立身致し、根岸肥前守と申して町奉行になった。此の事に就いては種々(いろいろ)面白い御話がありますが、此の講談に関係が無いから略します。
偖、沢市。高取町へ帰って、江戸屋金兵衛に留守中世話になった礼を述べ、其の跡で、「とても此の眼病は全快しない。」と松波了山に言われた事を物語りました。
金兵衛も、
金『アー、気の毒な事だ。お里さん。折角お前の心尽くしも水の泡。沢市さんの目はどうしても癒(なお)らないそうだ。しかし気を落とすにも及ぶめエ。生まれて盲目(めくら)の者もあるから、まだ沢市さんは中年でこういう事になったので、黒いか白いは見て知って居(い)る。せめてそれだけが儲けものだと思って、稼ぎなさるが宜(い)い。俺の懇意な処へはみんな頼んで、お前の出入りの出来るようにしてやろう。』
沢『ハイ。御親切に有難うございます。』
夫婦は、今に始めぬ事ながら、涙を流して礼を述べた。
しかるに郡奉行山本軍太夫は、段々、高木七之助・中川幸之助の罪を取り調べ、中川は食禄召し上げ、永の暇となり、高木七之助は「父の七兵衛、此の一件について家事不取り締まり。」というので、御役御免の上、閉門。七之助は追放を申し付けられました。
中川幸之助と二人、領分堺で追い払われる。あまり睨みの利いた役じゃアない。
幸『若旦那。こういう事になったのも、つまりあなたのお蔭だ。是から先、私(わし)の身をどうして下さる。』
七『お前ばかし追放になったのではない。拙者も親父の許に居(い)る事も出来ず、是から先、どうして世の中を送ろうという心配がある。お前の身なぞを構っては居(い)られん。』
幸『それは若旦那、不人情極まる。あなた、いくらか持って居(い)ましょう。何程でも拝借致したい。』
七『イヤ。こうなれば金より外に大事なものはない。金は持って居(い)るが、お前に遣る訳にはいかぬ。』
幸『是は怪しからん。廿石捨てて浪人をしたのは誰の為で。つまりあなたが沢市の女房に迷ったから、こんナ事が出来たので。是非何程か頂戴したい。』
七『イヤ、一文も遣れん。』
幸『くれなければ腕づくで取る。』
七『是は面白い。腕づくで取るなら取って見ろ。』
幸『確かに取って御覧に入れる。』
先刻役人より渡された腰の刀を引き抜いて、七之助を望んで切ってかかる。どうも、下等の奴はみんナこうでございます。七之助、之を見て、「サア、来イ。」と、是も同じく引き抜いた一刀。「アワヤ、血を見ん。」と為したる時、向うの稲叢(いなむら)の陰からヌッと出た一人。
〇『オッと。二人とも短気な事は為さいますナ。金が慾しければ入用(いりよう)だけ差し上げましょう。』
と申しましたが、是は何者であるか。ちょっと休息して申し上げます。
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