【十四】
沢市の詰問 勘太、真実を語る お里と沢市の壺阪詣 沢市の投身 伝九郎の出現)

 貞女お里は、夫沢市に知らせぬようにと、壺阪の観世音へ深更(よふけ)ひそかに参詣いたしまして、沢市の眼病平癒の祈念なすとは知らぬ沢市。或る夜(よ)、フト目を覚まして、
沢『お里。モー何時であろうナ{*1}。コレ、おさと。』
と呼べども、答うるものはない。沢市は不審に思い、
沢『お里、便所へでも行かれたか。コレ、お里……。』
 立って沢市が、手探りながら便所へ来て調べたが、お里が居らぬ。
沢『ハテナ。今頃どこへ行ったかしら……ウン、判った。俺の眼病に愛想を尽かし、密夫(みそかおとこ)と忍び会う為、俺の眠(ね)入りしを窺って抜け出したものか。イヤ。そうではあるまい。あのお里に限って、ソンナ不埒を働く女子(おなご)ではない。とは言え、色は思案の外(ほか)とやら。人並み優れた容貌美(きりょうよし)のお里の事。自分は堅固にするつもりでも、他(ひと)が見のがしては置くまい。相手は何者であろうか。』
と、沢市が、お里が居らぬに不審を打った。暁(あけ)の七ツの鐘が聞こゆると、バタバタ草履の音がして、裏口から立ち戻るお里。臥床(ふしど)へ入って枕に就く。沢市は知らぬ振りをして、翌夜(あすのよ)も眠らずにお里の挙動(そぶり)を看て居(い)ると、九ツの鐘が鳴るとソッと寝床より出(い)で、沢市の寐息を窺い、甲斐甲斐しく支度をして裏手から忍び出る。
 沢市は此の容子を窺い、
沢『ウン。今夜も出かけて行(ゆ)くが、いよいよ密夫(みっぷ)に忍び合う為であろう。悪(にく)い奴はお里め。』
と、取りのぼせた。ヒョロヒョロと立ち上がって跡を追わんとしたが、俄盲目(めくら)の悲しさ。台所の上流(うわなが)しへ躓いて、バッタリ仆れる。其の間にお里は出て行ってしまう。
沢『帰ったならば、取って押さえて白状させてくれよう。』
と、待って居(い)る。
 とは心づかぬお里は、七ツの鐘が鳴ると帰って来る{*2}。沢市は眠りもやらず、床の上へ坐して、腕こまねいて考えて居ります。
沢『お里か。』
呼ばれて、
さと『沢市さん。目が覚めておいでか。』
沢『イヤ。今夜ばかり目が覚めて居(い)るのではない。昨夜(ゆうべ)も九ツから寝ずに居た……ちょっとお里。此処へ来てくれ。』
さと『何ぞ用があるかえ。』
沢『用事が無(の)うて何で呼ぶものか。時にお里。お前は毎ばんどこへ行(ゆ)くのじゃ。サ、其の行(ゆ)く先を言え。』
さと『ハイ。あの。』
と言ったものの、行(ゆ)く先を明かせば沢市の不審は晴れるであろう。しかし、東陽寺の海全和尚の言われるには、必ず此の事を言うてはならぬ。沢市に話せば心配する。又、お前の信実を有難く思えば、コレ、沢市に思いを掛けるようなもの。人に礼を言われるような事があっては陰徳とは言えないと、くれぐれも申されて居(い)るから、お里は暫く考えて居りました。
さと『沢市さん。其の事は問うて下さるナ。モー少したつと、妾(わたし)が毎晩家を空ける事も、お前に合点が参りまする。モー暫くの間、どうぞ此の事を質(と)うて下さるナ。』
沢『イヤ。質(き)かずには居(お)られん。夫婦の間に秘事(かくしごと)があるか。サ、どこへ毎晩お前が行(ゆ)くか、其の事を話して、俺(わし)の疑いを晴らしてくれ。』
さと『それではお前、何ぞ妾(わたし)が女子(おなご)の道に欠けた事でもあると思うておいでか。』
沢『女子(おなご)の道に欠けた事じゃないか。夫の眠(ね)入りを窺って、ソット寝間を抜け出すは、後ろ暗い事をして居(お)るに相違ないか。イヤ、お里。俺の盲目(めくら)に愛想を尽かし、他に男をもつというは、更々無理とは思わん。定めし厭になったであろう。しかし、今コヽデお前に見捨てられては、俄盲目(めくら)の沢市が、どうして此の世を送る事が出来よう。まことに男らしくない事を言うようじゃが、今暫く面倒を見てくれ。お前が俺(わし)に愛想を尽かした事は必ず無理とは思わぬ。俺(わし)も永い事お前を始め、先達て死なれた江戸屋の親分に苦労させ、アノ高木の横恋慕で、すんでにお前が肌身を汚された上に、勤め奉公にまで売られようとした時、是は俺(わし)がなまじ活(い)きて居(い)るからじゃ。俺(わし)さえなければこんな難儀もあるまいと、幾度(いくたび)死のうとしたか知れぬ。イヤ、あの時死んでしまったならば、お前にも愛想を尽かされる事もなかったであろう。イヤ、今になってコンナ事を言うも愚痴じゃ。気には入るまいが、今暫くどうぞ辛抱してくれ。』
と言われて、お里は胸も張り裂けるばかり。
さと『それではいよいよ沢市さん、お前は飽く迄此の里に、男でもあると思うておいでかえ。』
沢『イヤ。お前に限ってソンナ事はあるまいと思うが、しかし夜中にソッと抜け出して、暁方(あけがた)に帰って来るは、何ぞ深い仔細があるであろう。』
さと『沢市さん。此の事は必ず言うナと、東陽寺の和尚さんに言われて居(い)るので、何事も今コヽデ妾(わたし)が話す事は出来ません。たとえお前に何と疑られようとも、身に覚えない事でござんすから、妾(わたし)は別に言い開きはいたしません。今も言う通り、モー暫く何も聞かずに置いて下さい。』
と、お里は何と沢市に質(たず)ねられても、此の事は申しません。
 其の内に夜(よ)は明ける。朝餉の支度、何かや、お里は豆々しく立ち働き、少しも沢市に辛く当たるような事はない。沢市は盲人(めくら)の慣(くせ)とて、どうか話してくれと、くどくも質(たず)ねる。お里が言わぬ。つい声高(こえだか)になって沢市の声が戸外(おもて)へ洩れる。
勘『オイ。沢市さん居(い)るかえ。』
 入って来たは、当時江戸屋の後を引き受けて、植村家の人入れ稼業をして居(い)る勘太でございます。
沢『是は勘太さんでございますか。其の後は御無沙汰いたしました。』
勘『イヤ、無沙汰はお互いだ。今お前の前を通るからちょっと寄ったが……オヤ。お里さん、お前何で泣いて居(い)るのだ。沢市さん、お前(めえ)も泣いて居(い)るではないか。ハー、判った。痴話喧嘩か。廃(よ)しねえ廃(よ)しねえ。此の世の中に何が詰まらねえと言って、夫婦喧嘩位馬鹿しいものは無(ね)エ。譬えにせエ、犬も喰わねえと言う。あんまり仲が睦(よ)すぎるもいけねえと見える。全体どうしたンだ。』
沢『御質(たず)ねでございますから御話を致しますが、実はお里が。』
勘『お里さんがどうしたのだ。』
沢『私(わし)に隠して毎夜九ツの鐘を聞くと。』
勘『首でも長くなるかえ。』
沢『イエ、そうではございません。』
勘『ウーン。』
沢『ソット寝所(ねどこ)を脱け出しまして。』
勘『オイ。沢市さん。脅かしてはいけねえ。俺は身体(からだ)は大きいが、うまれつき臆病だから。』
沢『何にも怖い話ではございません。九ツの鐘がゴーンと鳴ると。』
勘『ウーン。油でも嘗めるのか。』
沢『イエ。お里が裏口から脱け出して、暁方(あけがた)に帰って参りまする。どこへ行(ゆ)くのかと聞くと、どうしても申しません。まさかに妻(これ)に限って男を拵えるものではなし。と言って、連れ添う私(わし)に話をせねば、そう疑られても仕方があるまい。それ故、毎ばんどこへ往(ゆ)くかと質(たず)ねて居(お)った所でございます。』
勘『イヤ。沢市さん。それはお前が疑るも、一応は最もには聞こえるが、しかしお里さんも毎晩九ツの鐘を聞いて出て行って暁方(あけがた)に帰るは、お前に隠して仏様に願がけをして居(い)るのだ。イヤ、お里さんは黙って居なせエ。俺が話すから。沢市さん。実は東陽寺の和尚さんに言われて、お里さんがお前の眼を癒(なお)したい一心で、壺阪の観音様へ毎ばん夜更けてから御参詣(おまいり)に行(ゆ)くのだけれども、此の事をお前(めえ)に話せば、アノ険岨の山路(じ)を女の身として夜更けに行(ゆ)くは剣呑と、留められるは必定。それには、自分故にお里が是程までに苦労するかと、心配させては却って眼の為にもなるまいと思い、それで内々(ないない)お前(めえ)の眠入(ねい)るを待って、壺阪へ出かけるのだ{*3}。お前(めえ)が疑るから俺が何もかも打ち明けて話す。決してお里さんに限って今更お前(めえ)を捨てるような事はしない。』
 勘太が一伍一什(いちぶしじゅう)を物語りましたので、始めてお里の真心を知った沢市は、今更面目次第もございません。
沢『アー。そうでございましたか。そうとは知らず、前後(あとさき)の考えもなく疑ったのは、俺(わし)が悪うございました。イヤ、お里。定めし腹が立ったであろうが、どうぞ勘弁してくれ。サア、此の上は、お前一人に任せては置かぬ。俺(わし)も今宵はともどもに、壺阪へ御参詣(おまいり)をするとしよう。』
さと『沢市さん。壺阪の道は険岨で、容易には行(ゆ)かれませぬ。』
沢『たとえどのような険岨な道であろうとも、一心籠めてお詣りにゆくのじゃ。たとえ途中で倒れても大事ない。どうぞ今宵は私(わし)を連れて往(い)ってくれ。』
さと『それなら沢市さん。妾(わたし)が案内をするによって、今宵更けて一緒にお出(い)でなさい。しかし、アノ壺阪の御山には、狼谷という深い谷があって、其処には沢山狼が居(い)るとの事。もしお前の身に凶事(へんじ)でもあったら。』
沢『イヤ。たとえ狼に喰われようとも大事ない。何事も因縁じゃ。どうぞ一緒に連れて往(い)ってくれ。』
さと『そんなら沢市さん。九ツの鐘を聞いたら出掛けましょう。』
 それを傍で聞いて居りました勘太、
勘『イヤ。お里さんが命を的に賭けて、昼間さえ人の通わぬ狼谷を越えて壺阪の観音様へ、沢市さんの眼を癒(なお)したい一心で、夜更けに一人でお詣りをするとは、実に貞女の亀鑑(かがみ)。それを聞いて沢市さんが、共々に行(ゆ)こうと言うも、最もな事だ。それじゃア今宵は二人で御山に行(ゆ)きなさるが宜(い)い。』
 勘太は別れて我が家に帰る。
 其の夜(よ)、夫婦は支度をして、九ツの鐘の鳴るのを待ちかね、沢市の手を引いて、お里が土佐町の我が家(や)を立ち出(い)でました。時しも九月十三夜。後(のち)の月と、風流人は夜もすがら酒宴を為し、此の景色を賞翫をいたします。沢市夫婦は見る影もなき今は零落(おちぶれ)。一心不乱に観世音を念じ、無理な願いだが眼を開けてもらうという。一生懸命壺阪の山にかかって参りました。
さと『沢市さん。お前も眼のあいて居た頃、是へ来た事もござんしょうが、中々道が悪い故、妾(わたし)の帯につかまってお出(い)でなさい。』
沢『イヤ。杖があれば大丈夫じゃ。しかし俄盲目(めくら)ゆえ感が悪いで、時々杖が役に立たぬ事がある。時にお里。確か今宵は九月十三夜。定めし月の光であたりの景色は一と目に見えるであろうナ。』
さと『アノ御山を一と目に見晴らして、いい景色でござんす。』
沢{*4}『そうであろう。一眼(ひとめ)でもあるならば、此の月の景色も見られるであろうが。両眼(りょうがん)とも潰れた此の身。どのようないい景色でも、見る事は出来ぬ。』
さと{*5}『又してもそんな愚痴を言うて。観音様のお罰があたってはなりません。東陽寺の和尚さんの被仰(おっしゃ)るには、少しでも慾心が出ては利益がないとやら。モーそんな事は言わぬ事。只一心に観音様をお願いなさい。』
 慰めながら、お里が沢市の手を引いて登り来る観世音の御堂前。左りは一面の谷、ゴーッと流れる水音。二人は御堂の前へ座して両手を合わせ、「南無大悲南無大悲の観世音。御利益をもちまして、一日たりとも沢市の眼の見えまするよう、御無理ながらお願いをいたします。観世音南無仏。与仏有因。与仏有縁。仏法僧縁。常楽我浄。朝念観世音。暮念観世音。念々従心起。念々不離心起。」頻りに二人が観音経を読誦して居りました。
さと『沢市さん。お前、胸を押さえて居(い)るが、又持病でも起こりましたか。』
沢『オー。どうやら持病が起こったと見えて、胸先がキヤキヤ痛んでならぬ。』
さと『それだから、此の御山に夜更けて来るのは宜(よ)くないと止めたのでござんす。たとえば御山に来ないでも、一心に御願い申したら、御利益は必ず授けて下さる観世音。目の見えぬお前が是へ来るは、身体(からだ)の為にも宜(よ)くございません。』
沢『そうであろうが、お前一人に任せては置けん。就いてはお里。ちょっと家(うち)へ帰って、合薬(あいぐすり)を取って来てはくれまいか。アレは奇妙に私(わし)の病には利く。ちょっと往(い)って来てもらいたい。』
さと『沢市さん。薬を取って来るは雑作もないが、お前を一人此処へ残して……。』
沢{*6}『イヤイヤ。一人で此処に居ても、何の気遣いがあるものか。私(わし)が一人で観音様を願って居(い)る故、ちょっと薬を取って来てくれ。此の上悪くなっては、御山の事ではあるし、薬を売る処も無い故、一と走り往(い)って来てもらいたい。』
さと『それでは沢市さん。急いで往(い)って参ります。寂しかろうが、待って居て下さい。』
 甲斐甲斐しくも、お里が小褄を取って、山を下って行(ゆ)く。
 跡に沢市只一人。
沢『お里。ちょっと待ってくれ。お里。』
〇『お里……。』
沢『誰じゃア、お里を呼ぶは。是お里……。』
〇『お里……。』
沢『誰じゃ、呼ぶのは……。ウー。木精(こだま)か。イヤ。自分の声が他(ひと)に聞こえるのも、やっぱり心の迷いじゃ。お里。胸が痛いと偽って、お前を家(うち)に帰したは、俺(わし)が此処で死ぬ覚悟じゃ。いかに観世音は無量広大なる慈悲があるとも、何で沢市の眼が癒(なお)るものか。なまじなま中、私(わし)が此の世に居(い)ると、お前に苦労をかける。此の沢市が世に居ずば、まだ老い朽ちた身ではなし、花ならば今を盛りのお前の年、立派に再縁が出来て、再び元の身分になれるであろう。決して怨んでくれるナ。……南無観世音菩薩、御利益をもちまして、跡に残りましたるお里が立身出世を致しますよう、お願い申します。南無大悲南無大悲の観世音。』
 両手を合わせて沢市が、未来を観世音に願い、手探りながら堂の横手に参ると、聞こゆるは谷川の水音。
沢『お里。俺は今此処で死ぬがナ、どうぞ汝(そち)は命永らえて、再び花咲く春を迎えてくれ。南無阿弥陀仏。弥陀仏{*7}。』
と言うより早く、身を躍らして谷間へ飛び込みました。
 かくとは知らぬお里。我が家(や)に帰って合薬(あいぐすり)を持ち、再び取って返す壺阪山。来たって見るとコハいかに。沢市の姿が見えません。
さと『沢市さん。どこへ御出(い)でなされた。薬を持って参りました。沢市さん。どこへ御出(い)でなすった。』
と言いつつ、横手の方(かた)へ参りまして、見る気もなく見下ろす谷。十三夜の月は木(こ)の間を洩れて、淡き光は谷間を照らす。びっくりしたお里、
沢『イヤー。沢市さん。短気にも此の谷へ身を投じたか。薬を取りに家(うち)へ帰したは、死ぬる覚悟でありましたか。お前を殺して此のお里、どう生き永らえて居(い)られましょう。夫婦は二世と未来は共に一蓮托生。南無阿弥陀仏。』
と、念仏を唱えて、お里がアワヤ谷間に入らんとした時、
〇『オー。お里危(あぶ)ねエ。短気な事をするナ。死にゃア汝(てめえ)、命が無くなるんだ。そんナ野暮な事をするナ。』
さと『死なねばならぬもの。どうぞ見逃して下さいまし。』
〇『待て待て。沢市は殺しても宜(い)いが、汝(てめえ)の身体(からだ)は小判の音がするから、迂闊にやア殺せねエ。』
さと『そういうお前は。』
〇『俺だ。』
 かぶった手拭いを取る。見交わす顔と顔。
さと『お前は伝九郎さん。』
伝『お里。久しぶりだなア。』
 本釣鐘がコンと鳴る。芝居なら大喝采の処。跡は次席で。

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校訂者注
 1:底本は「モー何時(なんどき)であろうチ」。読みやすくする意図で修正。
 2:底本は「七ツの鐘(かね) 鳴(なる)と」。カスレを一字補った。
 3:底本は「夫(それ)で両々(ない(かな二字の繰返し記号))お前(めえ)の」。誤植と見て訂正。
 4:底本は「然(さ)うであらふ」。一字とカギ括弧の欠と見て、ともに補った。
 5:底本は「沢『又しても」。誤植と見て訂正。
 6:底本は「〇『イヤイヤ」。誤植と見て訂正。
 7:底本は「弥陀仏(みだぶつ)と。』言(い)ふより早(はや)く」。誤植と見て訂正。