【十五】
(お里の投身 伝九郎の死 観世音の顕現 沢市の開眼 盲人の笑話 大団円)
お里は伝九郎を見てびっくりいたし、思わず跡へ飛びさがるを、
伝『オイ、お里。何をそんなに驚くのだ。江戸屋が俺達の仕事に邪魔を入れたばっかりに、汝(てめえ)を金にする事も出来ず、ソコデ高木と中川をおだてあげ、江戸屋を殺して汝(てめえ)を引っさらい、浪花か兵庫へ持ち込んで、タンマリ金にしようと思い、つけつ廻しつ容子を見て居たが、沢市の眼病を癒(なお)してエと、この壺阪へ夜詣りをすると聞き、先へ廻って待って居た処へ、沢市の手を引いて汝(てめえ)が此処へ来たのが運の尽き。たとえ盲人(めくら)でも邪魔になるは沢市だが、此奴(こいつ)は谷間へ身を投げて往生してしまい、是から汝(てめえ)を俺が供(つ)れて行って、今までの貧乏に引きかえて、絹布(おかいこ)づくめで栄華をさしてやる。サア、お里。一緒に行(ゆ)け。』
さと『イエイエ。何とお前が言おうとも、沢市を殺した上は、一日たりとも生き長らえては居(お)られません。死ぬると覚悟をいたしました。どうぞ殺しておくんなさい。』
と、お里は立って谷間を望み、又もや身を投げんと致しますを、さはさせじと伝九郎が、
伝『ヤイ、お里。汝(てめえ)位、命を粗末にする奴は無(ね)エゼ。だいじに遣えば五十年ある寿命だ。そう無法に死にたがるナ。ヤイ、待てと言うのに。』
帯際を取って引き戻す。お里は一生懸命、力に任せて前へ出る。引く力と出る力。古びた帯でございますから、プッツリきれると、お里は前の谷間へ飛び込みました。
伝『アッ。しまった。飛んだ事をしてしまった。ヤイ、お里。短気な事をするじゃアねえか……と言った処が、どうする事も出来ねえ。此の谷へ落ちたからは、とても命はあるめえ。どうも仕方がねえ。宝の山へ入りながら、此の儘空手(からて)で帰(けえ)るのか。骨折り損のくたびれ儲け。こう悪い目ばかり出ちゃア仕方がねえ。残念ながら帰(けえ)るとしようか。』
伝九郎は残り惜しそうに谷を見下ろしたが、
伝『釣り落した魚だ。何となく惜しくっていけねえ。』
ガサリ、ガサリと後ろで音がする。だれか来たかと伝九郎がふりむくと、堂の横手に生い茂る熊笹を押し分けて、ノソリと出たは、駒程あるかと思われる一疋の狼。鋭き眼で伝九郎をジッとにらむ。さすがの悪党もギョッとした。
伝『シッ……畜生。うぬア何でこんな所へ出た。』
〇『汝(てめえ)を食いに来た。』
ソンナことは言わない。狼は只伝九郎をにらんで、ジリジリと一足ずつ進みまする。
伝『コヽ、コン畜生。』
と言いながら、腰にあった脇差へ手を掛け、来たらば斬らんと身構える。とたんにガサリ。後ろの熊笹を押し分けて、ノソリと出(い)ずる狼。前後へ此の猛獣を引き受けた伝九郎が、コリャ大変、逃げようとしたが、中々逃げられない。其の内に狼が谷へ向かって「オー。」と一声吠えると、どこから出て来たか、数十疋の狼。グルグルと伝九郎のまわりを取り巻いた。
伝『是は堪らねえ。』
と言う内に、パッと前から飛び付いて来る一疋。「ヤッ。」と伝九郎が脇差で払ったが、狼は頭の上を飛び越したので、空(くう)を払って伝九郎が「南無三。」と、取り直そうとした処へ、スーと飛び付いた一匹。右の腕へ咬み付いた。
伝『ウーン。』
又一匹が左の肩へ咬み付く。「キャッ。」と伝九郎が倒れる。其の内に腕へ咬み付いた一匹が、ブルブルと首を振ると、ベリベリと腕を咬み切ってしまった。
伝『ウーン。人殺しイー。』
こうなっては悪党も態(ざま)はない。処へ足へ咬み付く、あたまへ飛び付くというので、忽ちの内に伝九郎を、手は手、足は足と、バラバラにしてしまった。悪の報いは恐ろしいもので、狼の為に咬み殺されてしまう。
処へ、麓に当たってチラリチラリと見える火の光。獣は大層火を恐れるもので、之を見ると、狼はバラバラ四方へ逃げてしまった。
此の麓から来た者は何者だと言うに、江戸屋の勘太郎でございます。七八人の身内を伴(つ)れまして、山をドシドシ登って来る。
〇『勘太兄い。沢市さんにお里さんが此の山へ今夜は来たのですかえ。』
勘『そうヨ。沢市さんの眼を癒(なお)したいばかりに、毎晩観音様へ御詣りに来るのだ。今夜は両人(ふたり)で行(ゆ)くと聞いたが、それに此の頃狼が出て、巡礼を喰ったとか。もし両人(ふたり)の身に凶事(まちがい)があっては大変だから、ソレデ汝(てめえ)達を伴(つ)れて来たのだ。』
〇『ヘエー。狼が出ますかえ。』
勘『出るとも。狼は此の土地の名物だ。』
〇『詰まらねえ物が名物でございますねー。』
勘『汝(てめえ)達を伴(つ)れて行(ゆ)けば、沢市さん夫婦を喰うより喰いでがあるので、汝(てめえ)達の方を喰うだろうと思って。』
△『じゃア何でございますかえ。二人の代わりに俺(わっし)達が喰われに行(ゆ)くのでございますか。』
勘『そうヨ。沢市さん夫婦を喰って、一眠(ね)入りして、今頃はちょうど御茶受け時分だ。』
〇『こいつは驚いた。茶受けに喰われて堪るものか。』
勘『サア、みんな気を付けろ。ここが狼谷で、狼のより会って居(い)る所だ。松明を振って行(ゆ)け。火が消えると喰い殺されるぞ。』
〇『是は驚いた。』
むやみに松明を振り照らして、観音堂をさして参りまする。
△『勘太兄い。沢市さん夫婦は見えませんゼ。』
勘『ナニ、見えねえ。』
△『狼に喰(や)られたのじゃアございませんか。』
勘『そうかも知れねえ。』
△『イヤー、大変だ……コヽに腕が落ちて居(い)る。』
勘『どこにどこに。』
△『此処だ此処だ。』
勘『成程。腕だ。』
△『沢市さんの腕じゃアございませんか。』
勘『ハテナ。此の腕には文身(ほりもの)があるゼ。』
△『めくり骨牌(ふだ)が彫ってある。』
勘『おかしいナ。沢市さんには文身(ほりもの)はあるめえ。』
△『オヤオヤ。ここに足が一本ある。』
勘『ウン。足だ。』
〇『ここに首があるゼ。オヤ、此の面(つら)は見たような面(つら)だ。ウン、伝九郎だ。勘太兄い、伝九郎が殺(や)られたのでございますゼ。』
勘『成程。此奴(こいつ)は伝九郎に違いねえ。』
〇『どうして奴郎(やろう)がこんな所へ来たのだろう。』
勘『おおかたお里さんを引っさらおうというので、此処へ来たに違(ちげ)エねエ。しかし、悪の報いは恐ろしいもの。狼に喰われてしまった。』
〇『伝九郎は是で死んだとしても、沢市さん夫婦はどうしましたろう。』
勘『殊によったら谷へでも落ちたのではないか。』
〇『そうでしょう。伝九郎に捕まるめエと言うので、逃げ損なって谷へ落ちたかも知れません。』
勘『呼んで見ろ、呼んで見ろ。』
〇『オヽイ。沢市さんにお里さん。』
と、声を限りに大勢が呼び立てました。
お話別れて、沢市は、所詮生き甲斐の無い身体(からだ)と、谷間に投身いたしました。一時気絶をして居りますと、又も陥入(おちい)るお里。是も気絶いたしまして、夫婦ともそれに打ち倒れて居(い)る処へ、南の方より紫雲棚引き渡り、それに現れたは福徳円満なる観世音の御姿。微妙なる御声(おんこえ)を発し、
観『善哉(ぜんざい)善哉。汝沢市。前世の宿業によって盲目となりつれど、其方(そち)の妻里なる者の貞節により、再び天地日月を拝する事の相成るよう、利益を与え得さす。夢疑う事なかれ。』
と、右の御手に持たれたる蓮華を取って、沢市の頭(かしら)を撫で、尚お里の身体(からだ)を両三度撫でられました。其の時、夢より覚めたる如く我に復(かえ)りし沢市が、見上げる向うにありありと見えるは観世音の御姿。
〇『オーッ。南無観世音菩薩。何とぞ此の沢市を安養極楽浄土に導き玉え。』
と言いながら、フト気が付いたは、どうやら眼が見えるよう。傍を見るとお里が倒れて居ります。久しく盲目(めくら)で居(い)た沢市、現在是が妻のお里とは知らぬ。
沢『女中。気を確かにもちなさい。』
言いつつ引き起こして介抱をする内に、お里が気が付いた。
さと『お前さんは沢市さん。嬉しや、眼が明きましたか。それは宜(い)いが、此処は極楽か地獄か。』
沢『イヤ。お前はお里であったか。実は、お前に永う苦労をかけとうもないと思い、持病と偽り薬を取りに遣った其の跡で、此の谷間に身を投げて一時気絶をして居たが、有難や、観音様の御利益で、命助かるのみならず、此の通り眼も明らかになりました。此処は地獄でもなく極楽でもなく、壺阪山の谷間に相違ない。』
さと『偖は、観音様の御利益で、お前の眼があきましたか。お前の薬を持って是(たに)へ引っ返して来ると、伝九郎に出逢い、それをよけようとして、思わず谷間に落ちました。身に一ヶ所の怪我も無く、眼があいたお前の姿を見る事の出来たのも、皆観音様の御利益でございます。アー、有難い。観世音。南無仏。与仏有因(よぶつういん)。与仏有因。仏法僧縁。常楽我浄。朝念観世音。暮念観世音。念々従心起。念々不離心起。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。』
と、夫婦は一心不乱に観音経を読誦する。
その内に夜(よ)はほのぼのと明け渡る。
さと『サア、沢市さん。道を求めて山に上がらなければなりません。妾(わたし)と一緒に出(い)でなさい。』
と、沢市の手をとり、此処が出口か、彼処(あすこ)が山へ登る道かと、探しながら谷川に添うて参ります。流れに映る沢市の姿。
沢『お里、誰やら後ろで見て居(い)るようだ。』
さと『どこに。』
とふり返りましたが、誰もおりません。
さと『誰も居りません。』
沢『イヤ。そうでない。後ろから覗いて居(い)ると見えて、水に映ったは大坊主。殊によったら此の御堂に居(い)る御出家様ではないか。』
さと『どれ。』
と、水を眺めて
さと『沢市さん。何をお前冗談を言うのです。此の水に映って居(い)るのはお前の姿ではないか。』
沢『何じゃ、俺だ。ウーン。此の汚(むさ)い坊主は俺(わし)か。まだ新六と呼ばれる頃は、こんな醜(むさ)い容貌(かおかたち)ではなかったが。大層醜(まず)い男になった。それでもよう愛想を尽かさんで、俺(わし)の今まで面倒をよくお前は見てくれた。』
さと『何を言っておいでなさる。サア、此方(こちら)へ。』
と、蔦蔓に縋り、ようやく登って参った観音堂の前。
さと『沢市さん。是が御堂でございます。』
沢『ア-、有難い。』
と、再び御堂にむかって礼拝いたす。途端にガヤガヤ聞こえる人声。
〇『勘太兄イ。彼処(あすこ)に居(い)る二人は沢市さんにお里さんじゃアございませんか。』
勘『沢市さんに違(ちげ)エねエ。オイ、お里さん。無事か。』
言われてお里が見ると、江戸屋の勘太。
さと『是は勘太さんでございますか。』
勘『お前方が夕べ此の山へ御籠りをすると言うは知って居たが、他人(ひと)の話で聞くに、近頃は狼が出て、昼間でも参詣人を悩ますとの事。眼の見えねえ沢市さんに女のお前が万一の事があってはならねエと、身内を連れて此の山へ夕べから遣って来たが、お前方二人の姿が見えねエ。偖は狼に噛まれたるかと、あっちこっちを探して居(い)る内に、コ-見なさい。伝九郎が狼に喰い殺されて、身体(からだ)は別れ別れになってしまった。』
言われて二人が見れば、彼方(あなた)に手、此方(こなた)に足と、見るも無惨な有様。
さと『是も観音様の罰でございましょう。実は夕べ、此の伝九郎さんに捕らえられ、是からどのような憂き目を見ようかと思い、いっその事、沢市さんの跡を慕い、死出三途の道伴(づ)れと、谷間に身を投げましたが、観音様の御利益、沢市さんも眼があき、死んだ妾(わたし)も蘇生をしまして。』
勘『エーッ。沢市さんの眼があいた。』
此の時沢市、勘太を見て、
沢『あなたはどちらの方(かた)でございます。』
勘『オイオイ。沢市さん。俺を忘れる奴もねエもんだ。俺は江戸屋の跡を継いだ勘太郎だ。』
沢『ハアー。勘太郎と被仰(おっしゃ)ると、よく私共にお出(い)でになる、江戸屋さんの一乾児(こぶん)勘太さんでございますか。』
勘『そうヨ。』
沢『見ると聞くとは大きな違い。お言葉の様子では立派な方と思いましたが、眼があいてお顔を見れば、イヤハヤつまらん男でございます。』
勘『冗談じゃアねえ沢市さん。人を馬鹿にしなさんナ。何しろ山を下(くだ)んねエ。』
是から勘太が先立って、沢市夫婦を連れて土佐町に帰って参りました。
打てば響けで、此の事が評判になった。
〇『どうだエ。壺阪の観音様は大層な御利益があるじゃアねえか。沢市さんの眼があいたとヨ。』
△『それというも、お里さんの貞女からだ。何でも女房(かかあ)はアーいう女を持たなければいけねエ。何とお里さんは心立てばかりじゃアねエ。美しいじゃアねエか。』
〇『いかにも美人だ。アーいう女が女房(かかあ)になるんなら、俺は盲目(めくら)になっても宜(い)い。』
暢気な奴があったもので、サア沢市の眼があいた当座は誠に不自由で、眼があいて不自由というのはおかしな話でございますが、永い事見えない内にフト眼があいたのですから、途中で知った者に会っても、声を聞かない内は判りません。
〇『沢市さん。どこへ往(ゆ)くネ。』
沢『ハイ。どなたでございます。』
と言いながら、眼を閉じて首を曲げて考える。
〇『マア、眼があいたそうだが結構だ。』
其の声を聞いて、バッチリ眼を開き、
〇『お隣の源兵衛さんでございますか。』
是は俄に眼あきになった盲人(めくら)にはありそうな事。
盲人(めくら)に就いては、巧まずして可笑しい事がございます。是は浅草の鳥越に居りました山瀬という針医さんでございましたが、或る夜(よ)洗湯(せんとう)に参りまして、帰って来るといきなり女房の胸元(むなぐら)をつかえて、
山{*1}『ヤイ、汝(てめえ)は太(ふて)エ女(あま)だ。よくも有夫姦(まおとこ)をして居(い)るな。サア、白状しろ。相手は誰だ。』
女『何を言って居(い)るのだヨ。いつ妾(わたし)がそんな事をしたエ。有夫姦(まおとこ)をしたと言うからには、証拠を見て言うんだろう。どんな証拠があるか、出して見せておくれ。』
山『イヤ。今湯屋で、俺が入って居(い)るとは知らず、近所の方が集まって、「アノ山瀬は可哀想だ。女房(かかあ)が有夫姦(まおとこ)をして居(い)る。」と言わしゃった。サア、相手は誰だか言え。』
女『お前もよっぽどあわて者だネ。世間の噂を証拠にして有夫姦(まおとこ)呼ばわりをするとは。お前も男だ、定めし証拠の無い事は言うまいから、証拠を見せておくれ。どんな証拠をお前は握って居(い)るエ。サア、妾(わたし)の様子におかしい処を見たかエ。』
山『俺は眼が見えねエから見ねエ。』
女『ソレ御覧。証拠を見付けもしない癖に、他人(ひと)の噂を真実(ほんとう)にして、有夫姦(まおとこ)呼ばわりをする奴があるかイ。証拠があるなら見せておくれ。』
と、亭主を盲目(めくら)と侮って、証拠を見せろ。証拠を見せろと詰めかける。
山『宜(よ)しッ。きっと俺が証拠を……嗅ぎ出すからそう思え。』
ソコデ先生考えた。大和国高取にある壺阪の観世音は、盲人沢市を眼あきにしたという事がある。どうか俺も観音様の御利益で眼をあけてもらって、女房の不始末を取って押さえて遣ろうと、是から浅草の観音様へ日参いたしました。之を聞いた女房が驚いた。姦夫(まおとこ)をそっと呼んで、相談の上、是も浅草の観音様へ、御利益をもちまして、亭主の眼のあきませんようにと、願をかけました。亭主の方では眼をあけてくれ、女房の方は眼をあけてくれるナ、是には観音様もすこぶる困った。彼方(あちら)立てれば此方(こちら)が立たず、九尺二間に戸が一枚。なまじ眼あきで気を揉むよりも、いっそ盲目(めくら)がましだろうと、都々逸で山瀬に意見をしたが、中々きき入れない。是非三七廿一日までに眼をあけてくれ。日限(ひぎり)で談判した。
愈々廿一日の満願当日。御堂に参って、山瀬が頻りに祈念して居(い)る隣に、姦夫(まおとこ)と二人で女房(かみさん)がお詣りをして居りました。
女『ちょいと金さん。大変だヨ。』
金『何だ何だ。』
女『家(うち)の夫(ひと)が来て居(い)るヨ。』
金『そうか。見付けられちゃア大変だ。』
女『何を言って居(い)るんだヨ。盲目(めくら)じゃアねエか。』
金『違(ちげ)エねエ。』
女『此の上は、眼のあかないように二人で御願い申そう。』
一生懸命に願って居ります。山瀬も一心不乱。
山『御利益をもちまして今日中に目をあけて下さい。恐れ入りますが、是非あけて頂きたい。お願いでございます。あけて下さい。あけて下さい。モーお寝(やす)みでございますか。』
いろんな事を言って居(い)る{*2}。スルト観世音の利益は無量広大。パチンと音がして、山瀬の目がパッとあいた。
山『アー、有難い。目があいた。』
と言いながら、隣に居(い)る女房に姦夫(まおとこ)の二人を見て、
山『よその夫婦は頼もしい』
――是はやはり、不意に目があいたのでございますから、現在傍に女房が居ても判りません。
しかるに高取の城主植村出羽守忠長公、お里の貞節を聞こし召され、沢市共々城中に御召しに相成りました。二人は恐る恐る広間に出まして扣(ひか)えて居ります。暫く経つと、御近習を従えさせられ、それへ立ち出(い)でた出羽守様。
殿『其の方共が土佐町に罷り居(お)る沢市及び里と申すか。此の度、壺阪の観世音の利益により、沢市の眼病平癒いたしたる由。さようか。』
御質(たず)ねになった。何とお答えをして宜(よ)いか。田舎者の二人、かような処へ出たのは今日が始めて。オドオドして居りました。出羽守公、之を御覧ぜられ、
殿『イヤ。苦しゅうなイ。即答いたせ。』
傍らから御近習が、
近『有難い仰せだ。直(じき)に御答え申し上げろ。』
其の時、お里。
さと『仰せの如く、東陽寺の和尚様にお諭しを受け、壺阪寺の観世音を信じましたる処、其の御利益をもって沢市の目があきましてございます。』
殿『さようか。是と申すも、其の方の貞節なる志を観世音菩薩が感じ入ったものと見える。コリャ、沢市。妻とは申せ、里の貞節なる志を忘るるナ。』
沢『イエ。忘れる処ではございません。自分の女房ながら主人のように思います。言わば私の為には命の親とも申すべき者。』
殿『天地日月を再び見るように相成ったも、皆是里の真心から出た事じゃ。就いては里の志に愛で、沢市一代三人扶持を得させる。』
イヤ、二人の喜びました事。其の日は御馳走になりまして立ち帰る。間もなく植村家より金に米を届けて参りました。
早速此の事を東陽寺の住職海全に話した。和尚、大層喜びまして、
海『是皆お里殿の貞操から出来た事だ。誠に喜ばしい。此の上とも夫婦仲よくくらして、友白髪の八千代までも添い遂げるが宜(い)い。』
と言われ、ここで沢市も目があいて見れば、按摩をするにも及びませんから、親類どもへ相談の上、元の名の新六となって、百姓に相成りました。
お里は夜更ける迄、賃機(ちんはた)を織り、糸を繰り、沢市の新六は、星を頂いて田畑(でんばた)へ出(い)で、星を頂いて帰る。一生懸命稼ぎました。稼ぐに追いつく貧乏なし。五六年の間にメッキリ身代(しんしょう)を興し、田畑(でんばた)の二三町ももち、立派な百姓になりました。
お里は夜更ける迄、賃機(ちんはた)を織り、糸を繰り、沢市の新六は、星を頂いて田畑(でんばた)へ出(い)で、星を頂いて帰る。一生懸命稼ぎました。稼ぐに追いつく貧乏なし。五六年の間にメッキリ身代(しんしょう)を興し、田畑(でんばた)の二三町ももち、立派な百姓になりました。
江戸屋勘太郎は親分金兵衛の跡を継いで、植村家の人入れをいたし、是も大層評判が宜しい。所謂義侠心のある人とて、沢市夫婦の面倒を見たのが、植村家のお聞きに達し、永く出入りをする事になりました。
気の毒なのは大阪蔵屋敷の取締りをいたしました、高木七兵衛。忰七之助の不心得より、御役御免・閉門になって居りました。それを、沢市の親族並びにお里の二人が気の毒に思いまして、植村隼人という御家老にすがって、閉門御免(ゆる)しの儀を出羽守様に願った。ソコデ高木七兵衛、閉門御免に相成りました。是、仇(あだ)は直を以て報じろとやら。俗に申す、仇(あだ)は恩で復(かえ)す。実に沢市夫婦の殊勝なる志、賞すべき事でございます。
気の毒なのは大阪蔵屋敷の取締りをいたしました、高木七兵衛。忰七之助の不心得より、御役御免・閉門になって居りました。それを、沢市の親族並びにお里の二人が気の毒に思いまして、植村隼人という御家老にすがって、閉門御免(ゆる)しの儀を出羽守様に願った。ソコデ高木七兵衛、閉門御免に相成りました。是、仇(あだ)は直を以て報じろとやら。俗に申す、仇(あだ)は恩で復(かえ)す。実に沢市夫婦の殊勝なる志、賞すべき事でございます。
偖、当講談も、永らく御迷惑をかけましたが、是を以てあらかじめ結局といたしまするが、当国華堂は頗る勉強家でございまして、種々斬新なる材料を選択いたして、名人上手に口演を依頼し、続々出版いたします。何卒御愛読を願います。羊頭を掲げて狗肉を売るとやら、おおぎょうな広告をいたしまして、中身の粗末なる物を差し上げるが当時流行でございますが、なるべくお為になるような品を差し上げるように心懸けて居ります。どうぞ以来とも御見すてなく、御愛読を願います。(大尾)
新講談 壺阪霊験記(沢市お里の実伝) 終
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