―― お里、眼九郎から迫られ、承知と偽り逃れる ――

(里)アァ、眼九郎さん。とんだ処で御心配かけ、私は嬉しうござんす。
(眼)イン、僅かの金じゃ。そんなに言う事はない。コレ、ここに金はどっしりとある。お前の心一ツで、この金はお前にやるのだ。
(里)有難うござります。
(眼)時にお里坊や。そんなにお前、嬉しいか。
(里)アィ。
(眼)お前、そんなに嬉しけりゃ、おれにも一寸嬉しがらせてくんねえか。
(里)エエ。
(眼)何もそんなに驚く事はネェ。無理とは言え、たった一ぺん、おめへ、おれとさえ黙って居らりゃ、誰も知るものはありゃしねえじゃネェか。
(里)ササ、その深切は有難いが、お前の知れる通り、沢市という亭主のある体。どうぞこればかりはゆるして下さんせ。
(眼)何、ゆるしてくれろとか。コレコレ、お里坊や。このせち辛い世の中に、大枚五両という金、何の目的があって貸すものか。お前に望みが有るからサァ。どうか一遍だけ「ウン」と言うて、聞いてくんねえ。
(里)御志は嬉しいが、こればかりは。
(眼)たって嫌と言うなら、今の五両の金、かやしてくれるか。
(里)サァ、それは。
(眼)そんなら言う事聞いてくれるか。
(里)サァ。
(眼)サァ。
(両人)サァサァ。
(眼)コレ、お里坊。古い奴じゃがコレ、色よい返事を聞かしてくんネェ。
(里)成程、お前の深心は嬉しいけれど。
(眼)その「けれど」がいかんがナァ。
(里)そこじゃわいナァ。
(眼)どこじゃわいナァ。
(里)サァもう、しようがなけれど、沢市さんという亭主のある体故、ここに居ては村の衆の思惑もあれば、どうぞ連れて退いて下さんせ。
(眼)そんならお前、承知してくれるか。有難い有難い。
(里)しかし、今と言うては何なれど、どうか今晩の暮六ツまでに、そこら片付けて置く程に、そのころにそっと迎いに来て下さんせ。
(眼)ムム。そう極まったら、何しろ有難い。それじゃ、お里坊。
 ト、表へ出てまたふり返り。
(眼)コレ、お里坊。暮方にやってきて「けれど」などは真ッ平だぜ。もし横にかぶりを振りなさると、チィ足が高いぜ。
 ト、門口を〆め、尻を捲り。
(眼)アァ。早う日が暮れればいいが。
 ト、やはり前の合方にて向うへ這入る。
(里)ドレ。ままでも焚いて置きましょう。
 ト、床の上瑠璃になる。
上「お里は納戸へ入りにける。
 ト、お里、奥へ這入り。

―― 沢市、登場 ――

上「住めば住むなる世の中の、よしあし引きの大和路や、壺阪の片辺り土佐町に、沢市と言う座頭あり。生まれ付きたる正直に、琴の稽古や三味線の、糸より細き身代も、薄き烟もいとなみの、杖を力に沢市が。
 ト、下座の独吟になり。
唄「浮草や、思案の外の誘う水。恋か浮世か、浮世か恋か。ちょっと聞きたい松の風。
 ト、向うより沢市。好みの拵えにて出て来たり。花道よき処に留まり。
(沢)春ながら肌まだ寒し梅林と、誰やらが句であった。お師匠のお蔭で毎日稽古に行くが、さて気苦労なものじゃ。今日はえろう遅うなった。お里も待って居よう。早う去んで休みましょう。
 ト、本舞台へ来たり。

―― 夫婦の会話 ――

(沢)お里。今戻ったぞや。
上「いひつつ這入る夫の声。聞くよりお里は納戸を立ち出て。
(里)オォ、沢市さん。帰らさんしたか。今日はえろう遅うなったナァ。
(沢)サァ、わが身も知って居やる、アノ砂糖屋の娘さん{*3}。親御たちのお好みで新曲をはじめたが、えらい覚えの悪ィので、ツィ遅うなりました。
(里)オォ、そう言う事ならよけれども、あまり帰りが遅い故、モシ間違いでもありはせぬかと、きつう案じて居ましたわいナァ。
(沢)して、留守に誰も来やせぬかや。
(里)アァ、誰も別に。オォ、私の父さんが、五人組の衆が見えて、お前の事をいろいろ話し帰った跡へ、大家様米屋様薪屋様が見えて、「今日はなんでも勘定をせねば、家財を売取にする」と言うてせりにかけ、持って行こうとなされし時、丁度眼九郎さんが内へ来合わして居て、五両という金を借って、ようようそれで済んだわいナァ。
(沢)そんならアノ、悪いと浮評のある眼九郎に。
(里)アィ。
(沢)悪ィ奴に借ったナァ。
(里)サァ。私も借るまいとは思うたれど、せっぱにつまって、依ってそのお金を借ったわいナァ。
(沢)マァ、よいわ。マァどうともならうかい。
(里)ホンにそうで御座んす。とかくに物は案じるより産むが安いという事もあり、腹を大きうもって居て。アァ、ホンに腹と言へばお前、ままはどうでござんす。
(沢)オォ、そう言えば、きつう腹がすいた。一寸膳を持て来てたも。
(里)オォ。そうで有ろうと思うて、ままも焚いて置きました。ツィ拵えて来ますゆえ、すこし待って居やしゃんせ。
(沢)アィ。早う持て来てたも。
(里)ドレ、拵えて来ましょうわいナァ。
上「膳拵えと立ちて行く、跡に沢市茫然と、思案も胸もこうこうと、響く七ツの鐘の声。

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校訂者注
 3:底本は「我身も知て」。