―― お里の口説き:壺阪観音への夜詣を告白 ――
(里)コレ、沢市さん。
ト、胸倉を取る。
(沢)何じゃぞい。
(里)コレ。言う事と言わぬ事がござんす。私に限ってその様な大それた事、何でしよう。忍び男の、隠し男のと、あたいやらしい。聞きとうはない。それとも何ぞ証拠があるか。この身にとって覚えのない事。お前、何を言わしゃんす。
(沢)偉そうに言うな、言うな。
(里)エエ、情けない。沢市さん。ソリャ何を言わしゃんす。小さい時に御伯父さんが死なしゃんしてから、私の内へ引きとって、一ツ所に育てられ、三ツ違いの兄さんと、言うて暮すその内に、情けなやこなさんは、七ツの時に疱瘡で、生まれも付かぬ目くらとなり、家督も継がれず父さんが、従弟同士を夫婦にして、子供が出来たら家督をさせんと、お前とこうして夫婦になり、貧苦に迫れど何のその、一旦定めた沢市さん。
上「たとへ火の中水の底。
(里)未来までも夫婦じゃと、思うばかりかコレもうし。お前の眼を直さんと、この壺阪の観音様へ、明けの七ツの鐘を聞き、そっと抜け出てただ一人。
上「山路いとはず三年越し、切なる願に御利生の、無いとはいかなる報いぞや。
(里)勿体ないが観音様を、お恨み申して居る位。私の心も知りもせで、外に男のあるなぞと、今のお前の一言が、私しゃ悔しい悔しいわいナァ。
上「くどき立てたる貞節の、心の誠顕れて、初めて聞きし妻の誠。今更何と沢市が詫びる詞も涙声。
―― 夫婦の和解。壺阪詣へ出立 ――
(沢)アァ。コレ、女房ども。何にも言わぬ。堪忍してたも。誤った。誤ったわいのう。モゥそうとは知らず、片輪の癖に愚痴ばかり。コレ、こらえてくれ、この通りじゃ。この通りじゃ。
ト、手を合わして拝む。
上「堪えてたもとばかりにて、手を合わしたる詫び涙。袖や袂を絞りける。
(里)何じゃいナァ。現在つれそう女房に、誤る事があるものか。お前が心が晴れさえすれば、それで私は本望じゃ。そんなら疑い晴れたかえ。
(沢)晴れたとも、晴れたとも。日本晴れがしたような。
(里)それで私も落ち着いた。しかしお前の目が直れば、庄屋の跡目の出来るというもの。信心して御利益を、頂くより外はなし。私と共々観音様を、お祈り申して下さんせ。
(沢)イヤモゥ、そう言うてたもる程面目ないが、それ程迄に信心してたもっても、おれがこの眼は治りはせぬわいのう。
(里)イヤイヤ、そうではござんせぬ。二人が祈り申したら、大慈大悲のお力にて。
(沢)枯れたる木にも花咲くたとえ。
(里)深き恵みも壺阪の。
(沢)庭の砂も極楽浄土。
(里)やがて花咲く盲目の。
(両人)どうぞ花が咲かせたいナァ。
上「現世を祈る妻よりも、未来を頼む沢市が、心の内ぞ哀れなり。
(沢)そんなら私も今から心を改め、観音様へお縋り申そうとしよう。
(里)どうぞそうして下さんせ。暮六ツには眼九郎が。
(沢)エエ。
(里)イヤ、暗うならぬ内にお山に行って、共々にお縋り申してこようわいナァ。
(沢)お里。支度しや。
(里)アィアィ。
上「言うに嬉しく女房が、身拵えさえそこそこに、いたわり渡す杖さえも、細き心の汲み兼ねて、誓いは深き壺阪の。
ト、沢市お里、表へ出て、花道へ行こうとする。
(里)アァ。向うに見えるは眼九郎。一筋道故アタうるさい。一寸耳を貸して下さんせ。
上「互いに囁きうなづいて、小蔭へこそは身を忍ぶ。
ト、下手へ隠れる。
上「折からここへ畦道伝い、約束違えず眼九郎。
ト、拵えの相方になり、沢市早替り。
―― 眼九郎、騙されたと知り、お里を逆恨み ――
眼九郎出て来たり。
(眼)アァ、待ちかねた暮六ツ。有難いわ、有難いわ。何だか心嬉しく顔を見られる様な気がするわえ。定めてお里坊も待って居よう。
ト、門口へ来る。
(眼)どうだ。ド盲らがいやがらねェばよいが。ナンダ、門口を明けて。真暗だナァ、話せる。今の若い奴ゃ如才は無いわ{*5}。門口を明けとくなんテ有難エナァ。しかし真暗で灯も点けず。ハァ、分かった。初めはツンツンして居たが、おれがズット強面にやって、「ウン」と言うて見りゃ、恥かしという思い入れで、火を消すなんテ話せるナァ。盲目はまだ帰らぬと見えるテ。
ト、捜りながら内へ這入る。
(眼)里坊。おさやん。さァチャン。
ト、言いながら、烟草盆に跪くなどの件よろしく、暖簾口へ這入る。
二役早替り。沢市お里と手を引かれて、下手より出る。
上「御寺をさして急ぎ行く。
ト、向うへ走り這入る。
又二役。眼九郎にて、暖簾口より出て。
(眼)お里坊。おさやん。アァ、分かった。扨はドめくらと言い合わせ、観音山でも出掛けやがったか。ムゥ、忌々しい奴じゃ。
ト、再び暖簾口へ這入り、出刃庖丁を持ち来たり。
(眼)そうじゃ、そうじゃ。
上「跡へ慕うて。
ト、家体に飾りある棚仕かけにて、落つるが木の頭。
(眼)ムム。鼠か。
ト、向うへ這入る。拍子。幕。
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