同 中之巻
観音山の場

役名
  一 座頭沢市   一 女房お里
  一 悪漢眼九郎
           竹本連中
以上

 本舞台、一面の莫大なる岩山。花。追付際より昇りかけあり。三段にうねり坂道の拵え。岩鼻に六地蔵よろしく。頂上、崖を拵え、誂え。仕懸の松よろしく。下手、谷間のこころ掻。雑木真木を薄暗きまで植え込み、日覆より松の釣枝。谷底より摺硝子の月の出る出懸あり。すべて壺阪観音山の体よろしく。
 床の上瑠璃にて幕あく。

―― 沢市お里の道行 ――

上「追って行く、伝え聞く壺阪の観世音は、人皇五十代桓武天皇、奈良の都にまします時、御眼病甚だしく、この壺阪の尊像へ、時の方丈道喜上人、一百七日の御祈祷にて、忽ち平癒あらせられ、今に至って西国の六番の札所とは、皆人の見るところ。実に有難き聖地なり。
 ト、バタになり、向うより前幕の眼九郎。尻端折り、出刃包丁を腰に差し、走り来たり、観音山へ昇り、思い入れ有りて岩蔭に小隠れする。
上「折しも坂の下よりも、詠歌をたより夫婦づれ。
 ト、二役早変わり。沢市、お里に杖にて引かれながら出て来る。花道よき処に留まり。
(里)こちの人、危ないぞえ。コレいナァ。こちの人。その様に口も利かず、ふさいでばかりいやしゃんすと、病は気からと言う故、うきうきとなさんせい。
(沢)何もふさいで居るではないが、道々考えても、とてもおれの目は治らぬわいのう。
(里)エエ、何を言わしゃんす。こういう時はわっさりと、歌でも歌うて気晴らしに、苦労を忘れなさんせいナァ。
(沢)ムム、そうじゃのう。わが身が言ぃやる通り、くよくよ思うは眼の毒じゃ。そんならアノ、さらえと思うてやってのけょう。しかし、誰も見て居やせぬかや。
(里)誰が居るものでいナァ。
(沢)エエ、ままよ。
歌「憂いが情けか、情けが憂いか。チンツチチンツチツンツ。露と消え行く。テチン、我が身の上は。チンチチチリンツテチリテントンシャン。
 ト、跪く。
(沢)オット、しょう。
(里)アァ、危ない。
(沢)しもうた。今けつまづいて、跡の合いの手皆忘れた。
(両人)ハハハハハ。
上「歌をしばしの道草に、御堂へこそは登りける。
 ト、両人、坂を昇り、頂上へ来る。
(沢)サァサァ、ようよう御堂へ来たわいナァ。サァ、御詠歌を上げて下さんせ。
上「と、両人が鉦取り出し、跪き。
 ト、お里、風呂敷包より鉦を出し。沢市、叩きながら。
(沢)詠歌「岩を建て、水をたたえて壺阪の、庭もいさごも浄土ならん。
上「唱うる声も澄み渡り、いとしんしんと愁傷なり{*6}。

―― 沢市の愚痴、お里の励まし ――

(沢)コレ、お里。叶わぬ事とは思えども、そなたの詞に随うて、来る事は来ても中々に、この眼は治りそうなことは、ないわいのう。
(里)エエ、この人わいのう、又その様な気の弱い事ばかり言わしゃんすな。この観音様はその昔、桓武天皇様が奈良の都にまします時、御目を煩いなされた由。その折、この観音様へ、一百七日の御祈祷に、忽ちその目が直ったとの事は、世上の人の知るところじゃわいナァ。
(沢)ソリャ、天子様じゃによって、お位も貴し、我々のようなものには御利益はないわいナァ。
(里)エエ、モゥ何を言わしゃんす。たとえ天子様じゃと言うたとて、虫けらの様なわれわれでも、あなたに隔てはないわいナァ。とかく信心というものは、気を長う歩みを運び、只一心にお縋り申せば、何事も叶えてやるとの御祈言じゃわいのう。

―― 沢市、断食と偽り、お里を家へ帰す ――

(沢)ホンに言ぃやればその通り。そんなら私は今宵から、三日間ここに断食する程に、そなたは早う内へ行て、何かどの用事をし廻しておじゃ。治るとも治らぬとも、この三日間が運定めじゃ。
(里)オォ、どうぞして下さんせ。今夜から断食なら、内も片付けゆっくりと、私もお願い申そう程に、これから帰ッて取り散らしたものを片付けてこよう程に、暫く待っていやしゃんせ。ホンに言うて置かねばならぬのは、右の方へ行くと、幾何丈とも知れぬ谷間故、必ずともにかンまへて、怪我なぞして下さんすな。
(沢)オォ、何処へも行こうぞ。今夜から観音様と首ッ引きじゃ。ハハハハ。
(里)ハハハハ。ドレ、行てこうか。
上「跡に心を置く露の、散りてはかなき別れとは、知らでとつかは。
(沢)こちの人。行て来るぞえ。
(里)早う戻ってたも。
(沢)アィアィ
上「急ぎ行く。
 ト、お里、向うへ走って這入る。

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校訂者注
 6:底本は「傷愁なり」。