―― 沢市の口説き:谷底に投身 ――
上「跡に沢市伸び上がり、かっぱと伏して歎きしが。
(沢)コレ、嬉しいぞや女房ども。この年月の介抱。その上、貧苦に迫るも厭いなく、只の一度も愛想もつかさず{*7}。あまつさえ、目かいの見えぬこの身をば、大事にかけてたもる志。それとも知らずいろいろの疑い立て。コレ、堪忍してたも、堪忍してたも。今別れては、いつの世に又逢う事の有るべきか。
上「不便の者や、いじらしや。
ト、大地へどうと身を打ち伏し、前後正体歎きしが、ヤヤあって涙を払い。
(沢)アァ、歎くまい、歎くまい。三歳が間女房が、信心して願うても{*8}、何の利益もないものを、いつ迄生きても詮ないこの身。世の諺にも言う通り、退けば長者が二人の譬え。私が死ぬのがそなたへ返礼。生命存(ながら)えていづれへなりと、宜(よ)き縁付きしてたもや{*9}。ムム、最前聞けば、アノ坂を登りて右へ行けば、幾何丈と知れぬ谷間との事。これ屈強の最期所。かかる霊地の土と成るが、未来は助かる事も有らん。ムム、幸いに夜は更けたり。人なき中に。オォ、そうじゃ、そうじゃ。
上「立ち上がり、乱るる心取り直し、登る段さえ四ツ五ツ、早暁の鐘の声。イザ最期。時急がんと、杖を力に盲目の、探り探りてようようと、こなたの岩によじ登り。
(沢)南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
上「ト、諸共に、がばと飛び込む身の果ては、無残なりける次第なり。
ト、沢市、岩へ登り手を合わせて飛び込む。仕掛けにて小鳥を飛ばす。
ト、二役早替り。眼九郎、岩蔭より出て、この体を見て。
(眼)ざま見やがれ。
ト、再び小隠れする。
―― お里の口説き:夫の後を追い投身を決意 ――
上「こうとは知らず女房が、取ってかえすも気はそぞろ。ようようここに坂の上。
ト、向うよりお里出て来たり。
(里)サァサァ、沢市さん。ようようにして来ましたわいナァ。何じゃやら胸騒ぎがする。モシ、こちの人、こちの人。
上「尋ね廻れど見えざれば。
(里)えろう待ち遠にござんしょう。サァ、これから二人で夜とともに断食して。モシ、こちの人。どこへ行かしゃんした。危ないぞえ。コレ、沢市さん、沢市さん。
上「ト、ここかしこ木の間に月影に、すかせば何か物ありと、立ち寄り見れば覚えの杖。
(里)ハテ、不思議。沢市さんはどこへ行かしゃんしたやら。かいくれ返事もしやしゃんせず。殊に杖は。ここに杖の有るのは。
上「ハッと驚き遥かなる、谷間見やれば照る月の、光に見えたる夫の死骸。
ト、摺硝子の月を出す。お里、松に絡みし蔦蔓を持って谷間を見下ろす。
(里)ハァー。
上「狂気の如く身をもだえ、飛び入らんにも翅なく、呼べど叫べどその甲斐も、谺より外なかりける。
(里)コレ、こちの人。胴欲じゃ、胴欲じゃ。エエ、何じゃいナァ。お前を殺す程なれば、雨の夜雪の夜霜の夜も、厭わず私が信心も、その目を直そうばっかりじゃ。最前内へ行く時も、どうやら心にかかった故、とって返せばこのしだら。スリャ胴欲じゃ、胴欲じゃ。胴欲じゃわいナァ。これと知ったらお前を勧め、何のお山へ連れてこよう。コレ、沢市さん。
上「ほんに思えばこの身程、はかないものが、エエあろかいナァ。二世と契りし我が夫に、長の別れとなる事は、神ならぬ身の浅ましや。
(里)かかる憂き目は先の世の。
上「報いか。
(里)罪か。
上「情けなや。
(里)この世も見えぬ盲目の闇から闇へ死出の旅。誰が手引きしてくりょぞいナァ。
上「迷わしゃんすを見るようで、愛しいわいなとかき口説き、流す涙は壺阪の、谷間の水や増さるらん。ようように顔を上げ。
(里)とても添われぬこの身の因果。せめて夫の杖を筐に、アノ世へ道連れ。導引たまえ観世音。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
―― 眼九郎、お里を襲う ――
上「既にこうよと見えたる後より出る眼九郎。見てびっくり{*10}。
ト、岩蔭より眼九郎出る。お里、びっくり思い入れ。
(里)ヤァ、お前は眼九郎さん。
(眼)眼九郎さんじゃネェヤ。大方こういう事だろうと、先へ廻って待って居れば、ドめくらは谷へ飛び込む。こうしたらモゥ誰に遠慮も無いじゃないか。
(里)エエ、いやらしい。それ処じゃござんせぬ。放して下さんせ。
(眼)何じゃ、それどころじゃない{*11}。ムム、そんなら最前言うたは偽りか。
(里)エエ、知らぬわいナァ。
(眼)モゥこうなったら百年目。可愛さ余って憎さの譬え。覚悟しろ。
上「モゥこれ迄と眼九郎、切ってかかればこなたも早速、抜けつくぐりつ一生懸命。
ト、西念仏になり。よろしく立ち廻り。ドト眼九郎、お里の胸倉を取る。見得。
―― 観世音の霊験:眼九郎の死。お里の投身 ――
上「既に危うく見えける折から、不思議や。光明の輝く内、眼九郎の五体しびれて、たじたじたじ。よろめく隙に女房は{*12}、遥かの谷へ飛び込んだり。こなたは猶も仏罰の、悪の報いは七転八倒。虚空を掴んで死したるは、心地よくこそ。
ト、この文句の通り、山の後ろより色花火を焚く。眼九郎、五体しびれたる思い入れにてお里を放すと、お里、杖を持って谷へ飛び込む。松の仕懸にて、眼九郎を釣り上げる。ドト眼九郎、持ちたる出刃包丁で自分に腹へ突き立てる。ドト落ちるが上瑠璃切り。木頭にて幕。跡、繋ぎ。
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