同 下之巻
谷底の場

役名
  一 座頭沢市    一 女房お里
  一 伯父太右衛門  一 五人組
  一 仕出し大ぜい  一 観世音
            竹本連中

 道具出来次第、風音にて幕あく。
 ト、一面浅黄幕。向うよりいろいろの順礼出て、舞台上手へ通り越す。床の上瑠璃にて切って落とす。
 造り物。上手、莫大なる高二重の巌窟。後ろ、山又山の遠見。日覆より松の釣枝。巌窟の下、細き谷川あり。上下とも真物の樹木を植える。すべて観音山谷底の体。ここに沢市お里、斃れ居る。谺の相方にて浅黄落ちる。

―― 観世音の顕現と霊験 ――

上「頃は二月。中にさっと吹きくる春風と、共に顕われ女臈の、姿をかりた観世音。
 ト、上手、窟の白布を捲ける。
 ト、楽の合方。色花火を焚く。
 ト、観世音、好みの拵えにて、観世音出て来たり{*12}。
(観)いかに沢市。承れ。汝、前生の業により盲目と成りたり。しかも両人、日に迫る命なれども、妻の貞心又は日頃念ずる功徳にて、寿命を延ばし与うべし。この上は、いよいよ信心渇仰して、霊地を順拝なすべし。沢市、沢市。お里、お里。
 ト、色花火を使い、観世音消え失せる。
上「宣う声と諸共に、かき消すごとく成りにける。ほのぼの暗き谷間には、夢とも分かぬ二人とも、むっくと起きて。
 ト、二人とも気の付く思い入れ。

―― 沢市の開眼:夫婦の対面と歓喜 ――

(沢)私は最前山の上より飛び込んだは知って居るが、どうして生きて居るかしらん。また最前から我の名を呼ばしゃったは誰であろう。ハテナァ。
上「不審晴れねば一人言、声聞き付けて女房お里。
(里)ハテ、今のはたしか夫の声。夢ともなしに聞いたるは、モシヤ夫か。オォ。お前はこちの人。沢市殿じゃ、沢市殿じゃ、沢市殿じゃ、沢市殿じゃ。ようマァ無事で居て下さんした。
(沢)ヘー、沢市、沢市と言わしゃるのはどなたじゃえ。
(里)アレマァ、現在連れ添う女房を、忘れると言う事が有るものかいナァ。
(沢)ヘエン、アノ、お前が私の女房かえ。
(里)アィ。私ゃお前の女房の、コレ、里じゃわいナァ。
(沢)コレはお初にお目にかかります。
(里)オォ、こちの人。お前は目が明いたじゃないか。オォ、見えるかえ。
(沢)エエ、アノ、ほんに眼が明いてある{*13}。オォ、眼が明いた、眼が明いた、眼が明いた、眼が明いた。眼が明いた、嬉しや、嬉しや。忝い。
上「忝しと沢市が、傍の流れに水鏡。始めて見たる我が姿。悦び涙に時移る。
 ト、沢市、流れへ姿を映す事、いろいろ有る。
(沢)時に、お里や。それに付きても不思議な事。まさしく私は谷へ落ち、死んだと思うて何にも知らぬその内に、観音様がお出でなされ、前生からの事細々と御知らせ。そして我が身はどうしてここへ。
(里)サイナァ、聞いて下さんせ。お山から内へ帰り、取り片付けて居る内に、なんとやら胸騒ぎがする故、とって返せばお前は谷へ落ちて居やしゃんす故、わたしも倶にと死ぬ心で飛び込んだ。跡は夢うつつとなしにお前の声。不思議に明いたお前の目。二人の体に怪我のないは、お縋り申した観音様の。
(沢)お蔭エエ。
(両人)有難うござります。
 ト、両人山へ向いて拝む。

―― 大団円 ――

上「仏の影と夫婦が悦び、折から伯父の太右衛門。
 ト、誂えの合方にて、向うより伯父はじめ、五人組仕出しの、片輪御利益にて平癒の思い入れにて、ついて出て来る。
(太)オォ、そこに居るのはお里じゃないか。
(里)オォ、お前はととさん。悦んで下さんせ。沢市さんの目があいて、二人達者じゃで居るわいナァ。
(沢)そしてあなたは。
(里)これは私のととさんじゃわいナァ。
(沢)イヤハヤ、お初にお目にかかります。
 ト、鶏笛鳴く。
(伯)鶴も羽を延ばす東雲に。
(沢)初めて拝む日の光。
(里)心を納むる新玉の。
(沢)誠に目出度う。
上「候えける。年立ち返る心地して、夫婦が命も助かりける。目も明らかに開きけるは、誠に目出度う候いける。
 ト、沢市、振りある。
(伯)それならこれよりすぐに御礼参り。
(里)サァ、こちの人。行きましょう。
 ト、沢市、やはり目の明きながら、盲目の思い入れにて杖をつく。
(里)目が開いたら杖はいらぬわいナァ。
 ト、又楽になり。正面へ再び観世音顕われる。
(皆々)有難うござります。
上「有難かりける。
 ト、段切引張の見得にて。拍子。幕。(終)

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校訂者注
 12:底本は「出る来たり」。
 13:底本は「眼が有てある」。