―― 壺坂寺観音堂の場 ―― 

本舞台、三間の高二重、岩組の蹴込み、正面下寄りに九尺の観音堂、扉格子、開閉(あけたて)、下手に手水鉢、手拭沢山掛けあり、上下杉の梢を見せ,切出しの灯入りの月、すべて壺坂寺本堂の模様。時の鐘、山おろしにて幕明く。

 〽伝え聞く、人皇(じんこう)五十代、桓武天皇奈良の都にまします時、御眼病甚だしく、この壺坂の観音へ御祈誓あり、時の方丈道喜(どうき)上人、一百七日(なぬか)の御祈願にて、忽ち御平癒あらせられ、今に至りて西国の、六番の札所とは、皆人々の知る所、実(げ)に有難き霊場なり。折しも坂の下よりも、詠歌を道の栞にて、沢市夫婦ようようと、御寺間近く詣で来て、
 ト向うより沢市お里出て花道にて、
お里 コレ沢市殿、信心は大事なれど、病いは気からというからは、お前の様にそうしおしおと、ふさいでばかり居やしゃんすと、おのずと目にも悪いぞえ。オオそうじゃ、こんな時には、日頃覚えの唄なりと唄わしゃんせいなア。
沢市 ほんにそうじゃ。わが身のいやる通りくよくよ思うは目の毒じゃ。そんなら浚(さら)えと思うてやって退(の)きょうか。然し誰も居やせぬか。
お里 何の、今頃辺りに聞くものはござんせぬ。
沢市 エエ儘よ、てんぽの皮、やって退きょう。
お里 それがよいわいの。わたしが拍子を取りましょう。一二三(ひいふうみい)。
沢市 〽憂きが情か情が憂きか、チンツチツンチツンツ露と消え行く、テチン我が身の上は、チンチチチリンツテツテンシャン。
 ト石に躓(つまず)く。
アイタタ。
お里 オオあぶない。どこも怪我はせぬか。
沢市 オオ怪我はせぬが、今躓いた拍子に、後の合(あい)の手を忘れてのけた。
両人 ハハハハハ。
 〽唄を暫しの道草に、御本堂へと登り来て、
 ト両人舞台へ来りて、
お里 コレこちの人、ここが観音様でござんすぞえ。
沢市 ア有難い有難い。そんならそなたも共々お願い申せお願い申せ。
 トこの内両人捨ぜりふにて、うがい手水を遣う事あって、本堂へ賽銭を上げて、
お里 モシこちの人、今宵こそゆっくりとこの御堂で、御詠歌を夜もすがら上げようではござんせぬか。
沢市 オオそうしましょうそうしましょう。ドレ御詠歌に、
両人 掛かりましょうか。
 〽と夫婦して唱うる詠歌の声澄みて、いとしんしんと殊勝なり。
 ト両人よろしくあって本堂へ向かい、お里腰より以前の叩鉦(たたきがね)を出し叩く。
沢市 {詠歌}〽岩を建て、水をたたえて壺坂の、
お里 〽庭の砂(いさご)も浄土なるらん。
 〽沢市お里に打ち向かい、
沢市 コレお里、叶わぬ事とは思えども、そなたの詞を力草、来る事は来ても中々に、この目が治りそうもないの。
お里 又そのような事言わしゃんす。この壺坂の観音様は、その昔高位のお方が眼病にてお悩みありしに、この観音様へ御立願(ごりゆうがん)なされしより、早速お目が明いたという事じゃわいな。
沢市 そりゃ貴人高位のお方、御利益も格別であろうが、わしの様なものに何の御利益があろうぞいの。
お里 そりゃお前の愚痴というもの。兎角信心というものは、気を長う歩みを運び心を静め、一心にお縋り申せば、何事も叶えてやろとのお慈悲じゃわいの。そんな事いう手間で、早うお唱え申しましょう
 〽力を付くれば、
沢市 いかさま、そういえばそんなもの。そんならわしは今宵から三日の間、ここで断食する程に、そなたは早う内へ行き、何かの用事を仕舞うておじゃ。
お里 オオよう言うて下さんした。それ聞いて私も嬉しゅうござんす。そんならわたしは内へ去(い)んで、用を片付け直ぐに来る程に、待遠でも暫しの間待って居て下さんせ。シタがこちの人、このお山は嶮しい山道、殊にこの御堂の左は幾何丈(いくなんじょう)ともしれぬ谷間じゃほどに、必ずどこへも往(い)て下さんすな。
沢市 何のどこへ行くものぞ。今宵から観音様と首っ引きじゃ。ハハハハ。
お里 オホホホホ。
 〽笑いながらに女房は、後に心は置く露の、散りて跡なき別れとも、知らでとっかわ急ぎ行く。
 トお里思入あって向うへ入り、
 〽後に沢市只一人、こらえし胸のやるせなく、かっぱと伏して泣き居たる。
沢市 コレお里嬉しいぞや嬉しいぞや。この年月の優しい介抱、又其の上に目かいの見えぬ片端のわしに、愛想もつかさず剰(あまつさ)え、大事に掛けてくれる心ざし嬉しいぞや。そうとも知らず最前疑うたはわしが誤り。堪忍してたも堪忍してたも。
 〽今別れてはいつの世に、又逢う事のあるべきか。不便のものやいじらしやと、大地にどうと身を打ち伏せ、前後不覚に歎きしが、ようように顔を上げ、
アア歎くまい歎くまい、三年が間女房が信心こらして願うても、何の利益もないものを、いつ迄生きても詮ない此の身、わしが死ぬのがそなたへ返礼、かかる霊地の土となれば、未来は助かる事もあらん。幸い今がよき人絶え、そうじゃそうじゃ。
 〽立ち上がり、乱るる心取り直し、上る段さえ四つ五つ、早や暁の鐘の声、いざ最期時急がんと、杖を力に盲目の、探り探りてようようと、こなたの岩にかきのぼれば、
 ト沢市よろめく、杖を傍(かたえ)に突き立て、きっと見得。
 〽いと物凄き谷水の、流れの音もどうどうと、響くは弥陀の迎いぞと、
 ト二重より谷を見おろし、水の音を聞く事よろしくあって、
南無阿弥陀仏。
 〽がばと飛び込む身の果ては、哀れなりける次第なり。
 ト沢市上手岩組へ飛び込む。
 〽かかる事とも露しらず、息せき道より女房が、とって返すも気はそぞろ、常に馴れたる山道も、すべり落つやら転ぶやら、ようよう登る坂の上。
 トこの内向うよりお里走り出て二重に上り、沢市が見えぬゆえ、
お里 コレこちの人こちの人。
 〽尋ね廻れど声だにも、人影さえも見えざれば、あなたへうろうろ、こなたへ走り、
沢市さんいのう沢市さんいのう。
 〽ここかしこ、木(こ)の間を洩るる月影も、すかせば何やら物ありと、立ち寄り見れば覚えの杖。
ヤア、こりゃ夫の杖草履、扨はこの谷へ、エエ。
 〽はっと驚き遥かなる、谷を見やれば照る月の、光に分かつ夫の死骸。
ヤヤア、ありゃ夫の死骸、コリャどうしょうどうしょう。
 〽のう悲しやと狂気の如く身をもだえ、飛び下りんにも翅なく、呼べど叫べどその甲斐も、答うる物は山彦の、谺より外なかりける。
エエこちの人、聞こえぬわいな聞こえぬわいな。この年月の艱難も、厭わぬわたしが辛抱は、只一筋に観音様へ願込めて、どうぞ夫の目の明きますよう、お助けなされて下されと、祈らぬ日とてもないものを、今日に限って此のしだら、どうしょうどうしょうどうしょうぞいなア。是を思えば最前に、唄わしゃんしたあの唄は、どうやら心に掛かったが、今で思えば其の時から、死ぬる覚悟であったのか。エエ知らなんだ知らなんだ。斯ういう事なら、何のまアお前を無理に連れて来ましょう。モシ沢市さん、堪忍して下さんせ。ほんに思えば此の身程はかない者があろかいな。
 〽二世と契りし我が夫(つま)に、長い別れとなる事は、神ならぬ身の浅ましや。かかる憂目は前(さき)の世の報いか、
罪か。
 〽エエ情なや。
此の世も見えぬ盲目の、
 〽闇より闇の死出の旅、誰が手引をしてくりょう。迷わしゃるのを見るようで、いとしいわいのとかきくどき、歎く涙は壺坂の、谷間の水や増さるらん。ようよう涙の顔を上げ、
アア悔やむまい悔やむまい。皆何事も前の世の定まり事、夫を先立て何楽しみに長らえん。此の世の縁は薄くとも、せめて未来は末長う、どうぞ添うて下さんせ。夫と共に死出三途(さんず)。
 〽急ぐは形見のこの杖を、渡すは此の世を去って行く、行先導き給えや、南無阿弥陀仏弥陀仏と、声諸共に谷間(たにあい)へ、落ちてはかなき身の最期、貞女の程こそ哀れなり。
 ト道具廻る。

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