―― 壺坂寺谷間御利益の場 ―― 

本舞台、一面の平舞台、上手大滝のある岩組、上下岩組の張物(はりもの)にて見切り、所々に松杉の立木、下手へはすに滝壺より流れの水布、丸木橋掛けあり、すべて壺坂谷間の体。山おろしにて納まる。

 ト山幕を切って落とす。大薩摩がかりの浄瑠璃になる。
 〽頃は如月中空(なかぞら)や、早や明け近き雲間より、さっと輝く光明に、つれて聞こゆる音楽の、音も妙(たえ)なる其の中に、いとも気高き上臈の、姿を仮りに観世音、出現あるぞ有難き、
 ト真中に沢市、岩の陰にお里悶絶して居る。杖草履など傍に有り、文句の止まり、どろどろにて滝壺の中より仕掛にて神童現われる。
 〽微妙(みみょう)の御声うららかに、
神童 いかに沢市承れ。汝前生(ぜんしょう)の業(ごう)滅せずして盲目(めしい)となり、しかも両人ながら今日に迫りし命なれども、妻が貞節、二つには日頃信心の功徳により、寿命を延ばし与うべし。この上はいよいよ信心渇仰(かっこう)して、三十三所を順礼なし、仏恩報謝なし奉れ。コリャお里お里、沢市沢市。
 〽宣う御声諸共に、かき消す如く失せ給えば、早や晨朝(しんちょう)の鐘の声、四方に響きて明け行く空、ほのぼの暗き谷間には、夢ともわかず沢市は、むっくと起きて、
 ト此の内神童仕掛にて滝の中へ消える。沢市気附きしこなしにて目を明き、辺りを見廻し、ほっと思入。
 〽松の露がうるおいしか、ふっと気の附く女房お里、
 トこれにてお里気のつくこなし、沢市を見て、
お里 ヤヤお前は沢市殿じゃござんせぬか。オオ沢市殿じゃ沢市殿じゃ。お前は目が明いたじゃないか。
 ト沢市あたりを見、手などを見ることあって、
沢市 ヤヤコリャほんに目が明いた目が明いた。
お里 これというのも観音様の皆御利益。
両人 有難うござります。
 ト両人手を合わせ顔を見合い、沢市はお里の顔を不審そうに見て、
沢市 一体こなたはどなたじゃえ。
お里 エエ何をいわしゃんす。私を忘れるという事があるものかいな。私ゃお前の女房里でござんす。
沢市 エエわしの女房じゃ。ドレ立って見せい。(ト色色あって)これはお初にお目にかかりました。
お里 何を言わしゃんす。
沢市 それに付いても不思議なは、どうしてここへ。
お里 まア聞いて下さんせ。その折お前に別れてから、帰る途中の胸さわぎ、合点行かずと引き返し、御本堂へ来てみれば、お前の身投げ藻抜けの殻、夫に別れ何楽しみと、跡に続いてこの谷へ、
沢市 そなたもわしへの貞節に、この谷間に身を投げてか。
お里 あいなア。
沢市 エエ忝い、今に初めぬそなたの貞心、忘れは置かぬ、嬉しいぞや。
お里 エエ何を言わしゃんす。女房に何の礼言うことが。
沢市 しかしこの目が明いたのも、これも偏えに観音様の、
お里 重ね重ねの皆御利益、
両人 エエ忝い。
 〽勇み立ったる川端に、思わず写る水鏡。
 ト沢市土橋を渡りながら川中を見てびっくり、
沢市 アレあそこに化け物が居る。
お里 何を言わしゃんす。化け物などが居てよいものか。
 トお里橋の上を見て、捨ぜりふあって、
アモシありゃお前の姿が水に写ったのじゃわいな。
沢市 ドレ。オオ。
 ト又橋の上より覗き見て、
 〽初めて見たる我が姿、悦びあうぞ道理なり。
 ト沢市我が姿を写しよくよく見て、両人嬉しきこなしにて、互いに辞儀をするおかしみあって、お里杖を拾い取り、
お里 これも皆御利益ゆえ、これより直ぐに御礼参りに、
沢市 杖を納むる新玉(あらたま)の、誠に目出度う候いける。
 〽年立ち返る如くにて、水も漏らさぬ夫婦が命も助かりけるは、誠に目出度う候いける。
 トこの内沢市嬉しきこなし、杖を持ちよろしくあって、
サア嬶、行こうか。
 ト両人つかつかと花道へ行く。この時どろどろにて後ろへ観音の姿再び現われる。
 〽尊かりける。
 ト両人下(した)に居て手を合わせる。この時谷間へ日の出、鳥笛、三重にて。


 ト幕外、沢市嬉しきこなし、鳴物にて向うへ入る。跡シャギリ。