雨窓閑話
竹柏園主人
◎降つては晴れ晴れては又降る梅雨時の故か、頭の重い日である。空を蔽うて居る雨雲が晴れ渡つて、美はしい日の光を見るはいつであらう。現今の歌も亦梅雨時代というて宜い。種々の派が相競ひ相究めて、美はしいまことの歌を見るは果していつの日であらう。
◎心の花七号に、竹の里人の病床歌話が出て居る。君が年頃の重い病の床の上で、猶歌の上の談話をせらるゝは、道の為に喜ばしい事である。しかし其論の上には首肯し難い所がある。
◎『古今集のやうな歌は見るに足らぬから、古今集を摸する事は宜くあるまい』と只一言に古今集全体を非認せられたは、偏見といはねばならぬ。万葉集との甲乙優劣はさしおいて、万葉に長所ある如く古今に長所あり、古今に短所ある如く万葉にも短所がある。僕は旅行が非常に好きで、山水の景勝を跋渉した事が少くない。同じ川の流でも、信濃川利根川の河口、大井川保津川の急流、信貴山の裾を緩かに流るゝ大和川、北上川、九頭竜川、長柄川、箒川……いづれも其趣を異にして、其河には其河の特色がある。然るに、河の景勝は何川に限るといふのは、間違つた論といはねばならぬ。記紀の体は万葉で大成し、業平遍昭の時代で一変し、それを受けた古今の体、俗言平語を頻りに入れた散木集曽丹集の体、其反動で起つた千載新古今の幽玄体華麗体、同じ時代でも又趣を別にして居る山家集拾玉集の体……それから明治今日の歌に至るまでには、幾多の変遷を越え来たものである。然るに歴史的の研究をなみして、万葉のみを摸すべしといふは、未だ深く究めざるの過というて宜い。古詩ばかりを重んじて、近代の詩を知らぬ詩人が何処にあらうぞ。桂園派の歌人は、桂園一枝と古今正義とを金科玉條にして、他に幾百の家集歌論あるを知らず、只吾仏尊しで、景樹をのみえらいと思うて居る。桂園派の衰へたはそれが重な原因の一である。今の根岸派の諸君も此轍を踏まねば宜いと思ふ。もし段々と研究して行つたならば、詩歌は感情をいひ顕はすものであるに、殊更に耳遠い万葉の古言をのみ用ふる弊を悟る時が必ず来るであらうと思ふ。
◎連作の歌は、僕も数年前詠み試み、其後も作り試みて居るが、歌の一体として面白いもの、又進歩せしむべきものと思うて居る。僕の考では、一つものを前後左右から詠むも一体、恰も絵巻物の如く、塩原御嶽などの川沿の景、松島松川浦などの船上の景の、段々と移り変つて行くを詠むも一体、甲乙贈答の体に擬するも一体であると思ふ。此連作に就ては、一二月の頃伊藤君対大伴君の論戦があつた。雨中松十首をさして連作の起原といふた伊藤君の説は、例の吾仏尊しの論で取るに足らぬ。又雨中松の一体をのみ連作だといふ論も僻見である。
◎万葉の歌の言葉とか調とか形式を模する人は多い。真の万葉の真髄を捉へ得た人は少ない。長塚君の歌を、正岡君は結の句が十分に働いて居るとて覚めて居らるゝが、たゞ万葉の詞を自由に駆使し得たといふに止まつて、此歌の内容の何処に新しい所があるかと考へて見たら、どんなものであらう。
◎一方に偏せずして他の詩形をも取るが宜い。七五調の長歌もいひさまに因つては宜い。拾遺千載等にある旋頭歌の変体も詠み試みるが宜い。片歌も宜い。仏足石の体をも取るが宜い。
◎仏足石は南都薬師寺なる仏足石の傍の碑の歌で、恭仏跡を詠んだ十七首、呵嘖生死を詠んだ四首の二十一首中、二首は石が欠けて読み解き難い。其十九首を挙げれば、
御跡作る石の響は天に至り地さへ動れ父母が為に諸人の為に
三十ぢあまり二の相(かたち)八十くさとそ足れる人の踏し跡処稀にもあるかも
善き人の正目(まさめ)に見けん御跡すらを我は得見ずて厳に彫り付く玉に彫り付く
此御跡八万(やよろづ)光明(ひかり)をはなちいだし諸々すくひ渡し給はな救ひ給はな
いかなるや人にいませか磐の上を土と踏(ふみ)なし跡のけるらん尊くもあるか
ますらをの進み先だち踏める跡を見つゝ忍ばんたゞにあふまでにまさにあふまでに
益良夫の踏おける跡は磐の上に今も残れり見つゝ忍べと長く忍ペと
此御跡を尋ね求めて善き人のいます国には我もまゐでんもろもろをゐて
釈迦の御跡磐にうつし置きゆき巡り敬ひまつり我世はをへん此世はをへむ
薬師(くすりし)は常のもあれど客人(まろひと)の今の薬師(くすりし)たふとかりけりめだしかりけり
此御跡をまはりまつれば跡主の玉のよそほひ思ほゆるかも見る如もあるか
大御跡を見にくる人のいにし方千代の罪さへほろぶとぞ云ふのぞくとぞ聞く
釈迦の御跡磐にうつし置き敬ひて後の仏にゆづりまつらむさゝげまうさむ
是の世はうつりさるともとことはにさのこり居ませ後の世の為又の世の為
さきはひのあつきともがらまゐたりて正目(まさめ)に見けん跡のともしさ嬉しくもあるか
をぢなきや我に劣れる人を多み渡さん為とうつしまつれり仕へまつれり
人の身は得がたくあれば法の田のよすがとなれりつとめもろもろすゝめもろもろ
四つの蛇五つの薀(もの)のあつまれるきななき身をば厭ひすつべしはなれすつべし
雷(いかづち)の光の如き是(これ)の身は死(しに)の王(おほきみ)つねにたぐへりおづべからずや
此内にも二体あつて、「父母が為に諸人の為に」「渡し給はな救ひ給はな」とやうにくり返したのと「踏し跡処まれにもあるかも」「常にたぐへりおづべからずや」とやうに別に一句の多いのとがある。釈迦、薬師、法の田、死の王、四の蛇など詞のつかひざまにも面白いのがある。
◎まだ梅雨が止まない。心がしめじめとする{*1}。今日は月こそ違へ亡父の忌日で、何となく以前の事が思ひ出される。僕が幼少の頃、祖父母の墓詣に父に伴はれて行くと、其帰り途に必ず竹藪のかげの墓のもとでお辞義をせいと云ひ付けられる。子供心によくは別らなかつたが{*2}、此墓は我石薬師村から出られたえらい学者の眠つて居られる所で、汝も成長せば此学者の如きすぐれ人とならねばならぬと諭された。それは萱生由章先生の墓であつた。先生は我伊勢国唯一の地理学者で、伊勢に関する著書が頗ぶる多い。只地誌学にのみ専らであつた故、本居翁荒木田翁谷川翁の如き名は世に著はれなかつたが、沢山な著書の中で、三国地誌(伊勢伊賀志摩)伊勢賦などは、伊勢の地誌にいたく益を与へて居る。伊勢賦は、郡毎の地勢山川故跡其他を七五調に連ねたもので、今の鉄道唱歌の如く、歌としての価値は零であるけれども、児童に暗誦させるに便よい。又僕が旅行を好む癖は恐らく父の癖をうけ継いだもので、父は諸国をあまねく遊歴せられた。僕も常に父の供をして歩いた。野山に行けば木草鳥獣の名を一つ一つ詳しく教へられた。僕が動植物に対する知識は皆父のお庇によつて得たのである{*3}。又苦しい山坂にかゝると、連歌やら連句やらをする為に足の労れを覚えなかつた。今日聊か歌らしい歌をよみ得るやうになつたのも、皆幼少の時から教へられた父の恩恵である。初めて母の手を離れて旅行をしたのは、六才の秋であつた。山田へ行つて両宮を参拝し、足代翁の寛居塾の跡をも尋ねた。又父は常に足代翁の恩をおもひ、僕等兄弟に向つて、絶ず篤実な翁の学風を説き聴かされた。亡父の教訓と足代翁の人格とは、僕に非常の感激を与へた。僕等の事業は不朽である。一時のものではない。今の歌壇を見るに、根岸派の諸君は真面目に研究してをらるゝは誠に喜ばしい。其他は浮草なすたゞよへる、でなければ所謂高襟派策士的などで、一時の耳目を眩惑せしむるものゝみである。さういふ手段は好ましくない。僕はどうか真面目に歌といふものを研究したい。それで議論よりは研究の結果を実行にあらはしたく思ふ。十言の議論をする間に一首の歌をよみたいと思うてゐる。
(七月廿五日門下生筆記)
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