亡父の書簡
佐佐木信綱
大正三年十二月晦日の夜も更けた。二ゆかぬ年はまた一年を加へようとする。今年の一年を顧みてみると、大きくは世界には未曽有の大戦乱があつて、今なほ終結をつげぬ。自分の身を思ふと、二三の思ひ出のあとがないではないが、年の始めに志したことは何分の一も出来ないといふ憾みが深い。楣間に掲げた亡父の油画を仰ぎみても.自分の努力の足らなかつたことが悔いられる。
それにつけても.今年の暮に、鈴木栄子ぬしから亡夫の書簡を得たことは、今年の喜びのうちの一つであるから、こゝにこの事を記して、今年とる筆のとぢめとしよう。
毎年六月の三日は自分の誕生日とて、旧知の人々を招くのを習はしとして居るが、数年前の事であつた、橘糸重ぬしが亡父の書簡と短冊とを持つて来られた。
書簡は次の如き文面であつた。
昨日書差上し後やすやすと光をのこ産み参らせ候{*1}故まつ取あへず歌よみて御目にかけ候何卒御ついで加藤平岩氏へ此うた御見せいたゞき度願上参らせ候{*2}目出度かしこ
六月四日朝 弘綱
幸子さま
ことの葉の道つたへんとはかなくも
わか命さへいのらるゝかな
をの子はうまれ候へども我老たるを
歎きてかくはよみ申候
外に「妻の子うみけるに」と詞書があつて「神かけて心のうちに祈りつるしるしまさしくをのこなりけり」といふ短冊が添うて居る。
即ち伊勢国鈴鹿郡石薬師村で自分が生れた翌朝、父が、その教子たる伊勢亀山の藩医たりし橘良珉氏の夫人なる幸子刀自(糸重ぬしの母君)に送つたのである。
余は父が晩年の子であるから、父が斯く喜んで、生れたばかりのみどり児に言の葉の道を伝へようと思つたので、今更ながら養育と教育と二つの重い恩をうけた亡父の上を忍んだことであつた{*3}。当時予は此状と短冊とを糸重ぬしに乞うて、家の宝の一つとした。
然るに今年の六月三日、糸重ぬしは姉君なる鈴木栄子ぬしが持つてをられる亡父の書状を持参された。即ち、
毎々御たづねにつき小児出生之儀申上候処御肴料並昨日は御自作調法の品々いたゞき誠に嬉しがり宜御礼申上候様申聞候今日は七夜にて取上ばゝ近隣の人々祝ひ事多く候しかし延ひ候故歟百日程立ち候程大きなる児にて一入悦候信綱と名附申候猶姫君へ祝詠の事御申遣し候よし大慶仕候近々御便御座候由何とぞ良珉様へよろしく被仰上可被下候先はあらあら御礼迄めてたくかしこ
水無月九日朝 弘綱
幸子君へ御返事
といふので、予の七夜に、父が幸手刀自に命名の事を書きおくつたので、百日ほと云々とあるのは、喜びのあまりに大きく見えたのであらうとよみつゝほゝゑまれる。その日、この書簡も前のとともに家に残したいからと糸重ぬしに御頼みして置いたところ、数日前鈴木ぬしからおくられた。
これが始めに記した如き喜びを得た次第である。
夜も更けた。その書簡を前において沈思すると、来年こそは亡父に対して一層努力せねばならぬとの感が切におこつてくる。(大正三年除夜記す)
校訂者注
1・2:底本は号略仮名の「参らせ候」。
3:底本は「養育と教育と つの重い恩をうけ亡父の」。カスレと見て一字、脱と見て一字をそれぞれ補った。
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