日本文明の曙光
法学博士 杉亨二
今日文明と云ひ開化と云ふので、世の中が何もかも盛に行はれることとなりました。其文明と云ふ光はどこから日本に入つて来たかと申せば先づ長崎を指すでありましやう。その長崎に於て私は文政十一子年に生れたもので、天保八年の飢饉と申しますが、その実六七年の二ヶ年続きで、八年は豊年でありました。その飢饉が私の八つ九つの頃でありました。あそこにも飢ゑ死んだ、此処にも倒れてゐると云ふ有様で、小供ながらも誠に恐ろしいことだと思ひました。世間では米を食することが出来ずして苦しんで居るのに、私共が米飯を食べて居るのは難有いことだと云ふので、飯の中に大根の千切を入れたのを食べさせられましたが、塩も何も入らない物であるから、再三吐き出して叱られましたので.余程厭だと思ひながらも食べましたには今も覚えて居ります。
此時大阪では貧民を救はんと志して大塩が起つて、大砲を以て金満家の倉などを破つて施しをしたと云ふ事だの、又政府では貧民を集めて河浚へをして天保山などを築き上げたとか、又水野越前守の改革で江戸を始め公領の地は厳しい取締りで、絹物は着るな、銀の簪などは奢侈なこととて差すな、又富籤、淫売、其他不行蹟なる事は総て厳重な取締りで、何事も節倹の主意でありましたが、此等の騒ぎは今日も聴覚えに覚えて居ります。
長崎の町年寄に高島四郎太夫、号を秋帆と申す、余程権威のある人がありました。一体長崎は御承知の通り貿易地で、唐船は夏船四艘、冬船六艘、都合十艘宛、毎年入港しました。蘭船は年に僅か一艘、これは旧暦の六月十五日頃に入船します。何れも貿易船でありました。それで長崎に会所と云ふもの――それは政府の会所であつて――があつてそこにて外国品の取引を致す。高島はその総裁を勤めて居りまして、長崎地役人、唐人通事、和蘭通事、遠見番だとか、鮫鑑定役だとか、薬種鑑定役などゝ云ふ役人が沢山居りまして、それ等は総て高島の支配下であつた。さう云ふ訳であるから、高島は近国の大名達から大層な扶持其他種々の贈物等ありて、唐人も蘭人も高島に懇意を求むる風でありました。であるから高島も自由に注文が出来たのでありましやう。彼は元来憂国の士で、何か国益を計りたいと申すところから彼の小銃(ゲベール)と云ふ鉄砲を和蘭へ注文して取寄せました。これが日本へ小銃の舶来した始めで、其他西洋調練なども自ら致しました。又種痘を蘭人に依頼し、蘭人も痘種を持来りしも極暑の砌故、痘種が腐敗すると見えて感染しない、又持つて参り、又持来りましたが、どうしても感染しないので、小供に種ゑて乳母を付けて渡来したいと云ふことでありましたが、什う云ふ訳か外国の婦人が渡来することは禁制だと申すことで之れも叶はず。又々蘭人が工夫して持参つたのが遂に発生の効をなした。之れが日本の種痘の始りであります。高島は実に此等の開祖とも云ふべき人であります。其後世の学術の開くるに従つて種痘も小銃も幾度の改革を経て来まして、今日では其頃の丹精を話す人も無いやうになりました{*1}。又支那の貿易にて金貨を得て、之れを毎年長崎から幾匹の馬で其金貨を江戸へ宰領も付かずに{*2}、宿場送りに送つたと申すことであります。
高島は私より三十位年長の人でありましたが、後日江戸へ来つて、彼は小石川の阿部の邸の下に、私も其時はその邸の上に住つて、至極懇意に致して居りましたが、惜い事に私は若年のことゝて金貨の高だの其他貿易に関する色々のことを聞いて置けば宜かつたのに、其気も付かずに過したのは今でも残念に思つて居ります。
頃は天保飢饉後のことと思ふ。私の実見したところに由ると、和蘭より別段に軍艦を仕立てゝ日本に通信を求めて長崎に上陸した。其行列は真先に国旗を持ち、左右に太鼓を打ち、真中には士官が国書を捧げ、左右にも亦士官が付添ふて長崎奉行所へ其国書を呈しに参つた。その国書は和蘭でも余程評議のあつた様子で、有名なるミルレル王は隠居して居つたりにも関らず、其席に加つて熟慮を尽したと云ふことで、此のミルレルと云ふ人はオートルロー戦争の時、僅に十九歳であつたが自ら進んで先鋒に立ち、敵弾に当つて左の肩に傷を受け、ハンカチーフでその傷を抑へながら奈翁軍を破つたと云ふ程の勇者で、和蘭でも之を名誉として居る。
此国書は日本が鎖国を解いて世界貿易の忠告を採用せられ、共に富強を計られる方が日本の為めならんとの勧告と云ふことであつた。之は和蘭は二百年来も日本に通商を致し日本にも信用もある事故、先づ和蘭より申込みたらば事平穏に済むならんとの亜米利加合衆国よりの勧めとの評議で、ところが其国書の返書には貴国とは通商はするが通信はしないと云ふ大見識であると云ふことを聴及んだ。
开の間に種々の出来ごともありましたらうが{*3}、何れも今より七十二三年も古い昔話であるから、余り詳細は記憶しない。けれども今一つ記憶に存して居ることがある。夫れは何だと申すと石炭の事であります。私が小供の時分には此石炭を五平太と申して、場末の貧民の湯屋や、道普請などに用ひた位で、その臭気は今も昔も違ひはないが極人に賎しめられた。其五平太と申すは人の名で、大村の松島近辺に石炭が沢山にあるから、その五平太と申すものが勝手に採つて船に積み中国辺の塩浜などに販売したものと思ふ。その船を五平太船と云ふ。私が十九か二十歳の頃、下関に居つて風待ちをして居つたところが{*4}、下関や兵庫と云ふ港は、一日に千艘入つて千艘出ると云ふ位で、数多の船がかゝつて居る。夫れ等の船より二三丁も離れた前の方に一艘の船が居るのを見て、彼れは何う云ふ訳で離れて居るのかと聞いたら{*5}、彼れは五平太船であると云つた。それは他の船より賎しめられて、傍にかゝることが出来ない為めであると申すことであつた。
然るに此石炭が、今日は我日本の大富源となつて居る。若しも此石炭が我国になかつたならば、汽車{*6}、汽船、軍艦、其他製造場等の運転も出来ず、世間は丸で闇であらう。此石炭は今日に於て、日本を動す位な勢力を持つて居ると思ふ。之を以て見れば、世の中は人ばかりの勢力でなく、物も亦勢力を以て居る。石炭が極賎しい処から、此大勢力を持つに至つて、斯くも貴くなつたと云ふことに就て、こんな句が出来た。
太閤も矢矧の橋に薦かぶり
石炭も出世前には五平太かな
(右の狂句は学びもせぬ者の、口より出たまゝで、寝語同様人の笑草であらう)
右申述べたる通り、長崎は西洋砲術や種痘のみならず、西洋医学、本草等種々なる文明の輸入場でありましたが、私は不幸にして十才頃より孤児になつて、長崎の感化を受けませんで、唯蘭人などを見覚え聊か和蘭のことを知りたいと思ひました。夫れから長崎遊歴の医者などに就て、少し宛アべセを学んだ位で、流浪する傍のこととて碌々成遂げることも出来ず、大村の蘭医の内に居つて、薬を切り丸薬を造る傍ら蘭字などを書き習ひ、それより大阪に出たのであるが、素より極貧のこととて、按摩をとり写本などを致し、間暇(アイマ)々々に書生に就て学んだり、聞いたりして、少しは蘭書も読みならひ、夫れから二十歳の頃、江戸へ出て学僕などを致す内、蘭医書なども読むやうになり、人にも教へて居る内、二十六歳の時ペルリーの米艦渡来に遇ふまで、凡そ十六七年間、随分艱難辛苦の境界を経ましたが、此事は私事であるから略して措きませう。
扨て三百年ばかりの大平にて、江戸市中鉄砲の音も聞えぬ静謐の世の中に、俄然米艦渡来して大騒ぎとなり{*7}、夫れで江戸市中鼎の沸くが如く、諸大名は持場々々に出張を命ぜられ、家々紋処の幔幕を打廻し、的、吹洗、弓、鉄砲、鎗等を備へ、スワと云はゞ打つて出でんの勢を示し、品川辺より築地の浜は土俵を築き、大砲を構へ、昼は人馬馳せちがい、夜は篝火でなかなかの騒ぎであつた。夫れに可笑しなお話だが、山の手の大名が築地の浜まで大砲を曳出すのに、大砲は大きし砲門は小さし、それに台車は井戸車位で、之を曳出すのに大勢係り、途中泥土に支へられ、昼夜かゝつて築地芝浜辺へやうやう曳出すと云ふ位、又長沼流、甲州流などの兵学者達は、焼草を積みし船を、暗夜に乗じて黒艦に漕ぎ寄せて焼立て{*8}、其勢に乗じて船中に飛乗り、接戦ならば勝利我にありと云ひ、又富津より三浦郡の地点を定め、鉄柵を引いて黒艦を噛止めるなどの策略を出す者多く、又海岸を引上げ、彼を陸地に誘き寄せ、夜討して一戦に勝を制すると云ふなど、今にも戦争起らんとする勢であつて、実に自分も頭髪の竦つ心地がした。幕府では、和戦何れに決するか、有志の者は何れも勝手に建白を致すやうにと触れ出し、実に大騒の次第でありました。其翌年には安政二年十月の江戸大地震、又翌年には大風、又将軍真徳院が薨去になり、外は米艦の返翰受取りの為め、再び渡来の約束あり、内は将軍家薨去の大難、地震、大風等の天災打続きて、実に国家多難の時でありました。
此時老中の筆頭は、阿部伊勢守で、比内外多事のことが自ら一身に集つて来たけれども、泰然として憂ふる色なく、如何にも大量の人との評判であつた。伊勢守は中浜満次郎が桑港より、帰つて来たのを招き、自邸の書院で西洋式の太鼓を打せ、歩調を致させ、自ら再三検視したのを、私は其座にあつて傍観した。又旗本御家人等にも、武芸を奨励し、彼処では西洋調練や、此処では撃剣の仕合、其他渋谷の駒場では野戦砲の射撃演習があり{*9}、又其頃品川の台場も出来上つたので、大砲の試撃等武術日々に行はれ、士風自ら奮つた。
其後伊勢守は奏聞のことがあつて、――年は忘れたが――来春は上洛するとの内定であつた。然るにその前年の秋病の為めに卒した。その少し前に有名な松平薩摩守(世に斉彬公と称す)も逝去した。此国家多難の時に当つて、両為政者が相前後して逝去したのは、国家の不幸なりと世人の風聞であつた。次で井伊掃部守が大老として{*10}、執権の職に付きし当時、枢要の職にあつた松平信濃守、川路左衛門尉、岩瀬修理、大久保右近将監(後一翁と号す)永井玄蕃守、堀織部正等は或は屠腹し、或は退隠するなど様々であつた。
安政五年将軍温恭院亦薨去となり、紀州家より世嗣となられてから、事情は分らぬが、俄に水戸老公再三の登城、世間とりどりの世評喧しく、桜田の騒動、坂下の暴挙、又上方の動揺、七卿の脱走、次で長州征伐の事あり、近国の大名山陰山陽より押寄せ、互に戦争に及んだ。此時勝麟太郎は命を受けて、大阪に至り副将として大阪にありし、駿州沼津の城主水野出羽守に面会せしに、護衛の士を連れては如何との勧めなりしが、単身にて事足ると辞せりと、傍に侍し居りし手島精一は私に語つた。勝は直に単身敵地に入り、主命を済して帰つた。其時私は彼を訪問して、敵状は如何なる様子であつたかと聞いたところが、なかなか厳重に固めて居つて、己れに再三鉄砲を向けたが、隊長らしき者が制して、発砲はしなかつたとの事であつた。
後一時は平和に帰したが、又亜米利加合衆国と和親も済んだので、ペルリーに次で、同国公使トオンセントハルリスは江戸に入り来り、種々談判の末、合衆国と始めて通商條約を取結んだ。その條約中輸入の酒税は四割と定め、阿片は禁ぜられた{*11}。若しも阿片が禁ぜられなかつたならば、恐らくは支那の覆轍を踏みしならむ。ハルリスは日本の為め大功を奏せし人と云ふべきである。それで各国も皆此條約にならつた。併し内地では攘夷鎖港の論も次第に盛になつた。
時は小笠原隠岐守、阿部備後守等執政の頃であつた。横浜等の鎖港談判頻りに天来した。幕府では池田某を使節として、仏蘭西政府(奈翁三世の時)に遣し、鎖港の談判に及んだのは、一時の方便であるとの風聞、案の如く鎖港の事ならず、却て條約中酒税は四割なりしが、僅か五分に減じられ、談判に失敗したと云ふことである。
其頃外国公使等が止宿して居た、品川辺の寺に浪士の夜討や、それから数十人で、党を組んで豪家に押入り、又市中取締の巡羅兵が、芝の薩摩の上屋敷へ多くの浪士集り居るとのことにて、攻寄せ発砲するなどの騒ぎで{*12}、市民は日夜恐々として寝食に安じなかつた。
夫れから下関を通る亜米利加軍艦、ワイオーミンと云ふのを下関砲台から発砲し、次で英吉利西、仏蘭西の軍艦を発砲し、終りに和蘭の軍艦と砲戦して、四ヶ国の軍艦が横浜に集り、次で再び下関へ押寄せ、蒸気船を砲撃しられ{*13}、台場を破壊され、遂に幕府は四ヶ国に対して、三百万弗の償金を出したと聞いた{*14}。又生麦の時横浜に各国の守兵が合して、薩摩の島津勢を追駆けるとの騒ぎであつたが、阿部備後守は単騎横浜に馳せて談判に及び、之を中止せしめたとの風聞であつた。それより英吉利西の軍艦鹿児島に押寄せ、談判調はず遂に互に砲戦したと云ふことだ。それから再び英吉利西の軍艦横浜に入港した。右等の事は皆横浜の外字新聞に記載された。
夫れから上方よりは、鎖港の談判が余程切迫したのか、触書に『江戸市中半鐘を打鳴らし候節は、速に市中の者共立退くべし』との事で、市中の者共は、近郷近在の懇意なる者を頼寄りて立退くなど、其騒動は一方でなかつた。
慶応二年将軍昭徳院薨去せられ、慶喜公その世を襲がれ、上洛して京都にあつた。時に国事益々多難{*15}、遂に大政奉還、慶応四年正月早々急変して、鳥羽の大事起り、慶喜公急に江戸に帰り『我命に反くものは我に刃を加ふるに等し』と云ふ触書などを出したと覚ふ。それから上野山内凌雲院に蟄居、恭順、謹慎して命を俟れた。主君此の如くなれば家臣は素より皆門を閉じて恐懼謹慎し、家禄は悉く廃せられ、江戸市中右往左往云ふに云はれぬ騒ぎであつた。
私は開成所(今の高等商業学校のある所)の教授であつたから西洋の事を知らうとして、ベッケルと云ふ世界歴史大部の十冊物を残らず、通読して居つた。仏蘭西大転覆の第二冊を、両度も復読した時分であるから、国事の変動は実に恐るべきものと、つくづく感じて居つた頃で、幕府も未だ十年位は維持が出来るであらうと思ふたに、世の変遷の意想外に急変なるに驚いた。恰も堅牢なる大厦高楼が風波の為め、一時に転覆されたやうな心地がした。
江戸市中の有様は、嘗て歴史中に見たる無政府の状態で、白日強盗往行、実に戦々兢々とは斯の如きものと感じた。それでこれはと思ふたから、その頃東台に来て居た、多武の峰の竹林坊に面会して、上野の宮様の御威光を以つて、江戸市中御取締のことを懇願に及んだこともあつたが、事はならなかつた。又官軍の先鋒として、一は東海道より品川に、一は中山道より板橋に着するとの騒ぎ、此大都会が如何になるべきかと苦慮して、私は竊に駒込近傍の名主を集め『諸氏、此変動の有様を如何に思ふか』と問ひしに、名主共も三百年来安堵して居つた厚恩に酬ゆる為めに、何とに恩謝の事を致したいと思ひしも、如何にすれば宜いかその術を知らない{*16}。『さらば主君始め江戸市中が謹慎して居る様子を認め、寛大の御所置を嘆願に及んでは如何に』と相談したところが、『御諭しの通り至極は尤もの事』なりと感じ、下町山の手の名主に奔走して、其主意を説き、市中の名主数百人、南の方は品川に、北の方は板橋に、羽織、袴、草履がけで謹慎して願書を呈した{*17}。
夫れはそれとして、数万の旗本御家人の内には、先祖代々の恩儀に酬いんとする慷慨志士があつた為めに、なかなか制し切れず、遂に彰義隊なるものが起り、上野山内に立籠つて乱をなしたが、日ならずして治り、又奥羽各藩及び函館も降伏した。
世は明治聖代となりましたが、私の考へでは西南の乱治つてから、封制の遺風茲に一変したと思ふ{*18}。明治元年より西南の役まで十年、又憲法発布まで十三年、日清戦争の終り廿八年まで、又三十八年の日露戦争まで、大抵十年毎に変動が起るやうに思ふ{*19}。子供も十歳になれば少しは用をなし、職工、学者、商人等総べて業をなす者は、大抵十年の年期を経なければ、其職業の趣味を解することが出来ないやうに思ふ。さすれば十年と云ふものは、人間の進歩に必要なものと私は思ふ。
今日我日本の総ての発達も、益々進んで終局する所を知らない。嘗て私は西洋の地図を好み、我日本の位置を見て世界の勝地に位すと思ひ、西洋帰りの友人などに議論をしたが、友人の云ふには、君は西洋就中、英吉利西の盛なるを見ないから云ふのだと駁したが、我国には東に亜米利加あり、南に濠太利あり、西に支那、印度、欧羅巴あり、之れ我国の位置の勝れるところなりと論戦した。その頃の航海には帆船、偶々火輪船があつた。然るに今日は造船の業大に改まり、日を期して諸方に航海するやうになつた。其進歩此上如何なる発展を見るべきか、総ての航海は西より東に向ふの勢をなせども、爾後は東より西に向ふの勢を示すかも知るべからず{*20}。私が地理書を見し五十余年前、和蘭の新聞を見し頃、パナマ開鑿の説があつた。其後この開鑿の事起りしも、数年ならずして失敗した。然るに合衆国大統領ルーズベルト氏が数億万の費を惜まず、大に工を起してパナマ開鑿に着手し、愈成就すと聞く。之れに依つてアトランチツクとバルチツク{*21}、太平洋と太西洋{*22}、世界二大海上の交通愈開くるに到らば、欧羅巴、亜米利加共に支那に着目するものなれば、我日本に出入する船舶は頻々として盛になるべく、其他種々の学説、技芸及び風俗等も共に入り来るべし。これ我国人の彼を知り、我を知つて、我が百般の文物事業等之れと競争し、之れと均衡して宜しく我国勢を拡張すべき、大機会が到来するであらう。
「心の花」第十八巻七号(大正3年(1914年)7月)所載
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校訂者注
1:底本は「なりました又支那の」。脱と見て句点を補った。
2:底本のまま。
3:「开」は底本では「開」の旁であり、「其」の異体字と思われる。
4:底本は「して居つたところが下関と」。脱と見て読点を補った。
5:底本は「聞いたら彼れは」。脱と見て読点を補った。
6:底本は「汽車汽船」。脱と見て読点を補った。
7:底本は「大騒ぎとなり。夫れて江戸市中」。誤植と見て訂正。
8:底本は「焼立て其勢に乗じて」。脱と見て読点を補った。
9:底本は「射撃演習があり。又其頃」。誤植と見て訂正。
10:底本は「伊井掃部守」。誤植と見て訂正。
11:底本は「禁せられた」。誤植と見て濁点を補った。
12:底本は「などの騒ぎて」。誤植と見て濁点を補った。
13:底本のまま。
14:底本は「聞いた、又生麦の」。誤植と見て訂正。
15:底本は「多難遂に」。脱と見て読点を補った。
16:底本は「思ひしも如何にすれば」。脱と見て読点を補った。
17:底本は「袴草履がけで」。脱と見て読点を補った。
18:底本は「したと思ふ、明治元年」。誤植と見て訂正。
19:底本は「思ふ、子供も」。誤植と見て訂正。
20:底本は「知るべからず、私が」。誤植と見て訂正。
21:底本は「アトランチフク」。誤植と見て訂正。
22:底本のまま。
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