時代の告白としての叙事詩
姊崎正治
竹柏会の方々はいつも歌をお詠みになつて居る方でありますから、歌に縁のある事を申し上げたいと考へます。然し私などから和歌や抒情詩の事をお話しする要はないのでありますから、同じ歌でありますが方面の違つた歌{*1}、即ち叙事詩のことに就て申上げやうと思ひます。
◎申上げることは沢山ありますが{*2}、時間も後れましたから唯目録位のことを申上げて置きましやう、叙事詩と申せば申す迄もなく事柄をずつと述べた詩である、和歌などは皆人の想ひ、吾々の心持を述べるのであるが、叙事詩は人の世の事を述べるのである、例へば日本でも色々の戦記物語、殊に平家物語なんと云ふ叙事詩がある、西洋に於てもずつと古い所では希臘のホメーロ(Homeros)などもある、而して大きな叙事詩は何れの国でも大抵大きな戦争を種にして、一つの種族と他の種族とが天下分目の争ひをした戦争を土台にして、其間に現れた色々の事柄を面白く叙べて居るのが常であります、世界に叙事詩も随分多いのでありますが、私の見た所で不思議にも東西両洋に二つの叙事詩の時代があつた様に見えます、即ちそれは今から二千四百年ばかり前、西洋の紀元前六世紀の頃に希臘のホメーロの叙事詩がある、希臘の諸王が東のトロヤを攻めに行つた、其間に色々の出来事があつて、勇者アキレス(Achiles)の事業、憐れな母のヘクバ(Hecube)などこの戦争の間を縫ふて書かれて居るのがホメーロの叙事詩であります、殆ど同時代に或は少し遅れて居りますが{*3}、印度にマハーバーラタ(mahāhbhārata)と云ふ叙事詩がある、クル(Kuru)族とパンド(Pandu)族と二つの種族の間に大戦争があつた、其戦争を土台にして、その間には兄弟の愛もある、国争ひの野心、遁世行者の心事など人心の驚き、悩み、悲しみを叙べて古代印度の社会状態をも時勢の風潮をも又人心の奥をも描いて居ります、叙事詩の両方の大関は先づ此二つであらうと思ひます、丁度此時が又世界の宗教史上不思議なる時代で、東西両洋期せずして色々の大なる宗教が起つた時代であります、それから降つてもう一度叙事詩の時代があつた、それは西洋の紀元で十三世紀と大体申しませう、日本では源平から鎌倉の初めに当ります、丁度此時に日本では平安朝文明の最後から源平の盛衰興亡となり、時勢にも大変動が起つたと共に、人の心には大きな渦巻が生じました、それを種にして色々なものが出た、其先駆になりました保元平治物語などもありますが、先づ最も立派なもので叙事詩的として最も当時を能く写し出したものは平家物語である、此と同じ時代にイタリアにはダンテの神曲(Divina Comedia)が出て居ります、是は戦争を種には致しませぬが、想像又は幻で地の底の世界に這入つてそれから天上に昇り詰め、罪人の叫び悶へる地獄の底から神の浄光充ちた天上まで行つた其旅を書てある、是が其当時に於けるイタリアの時勢、信仰、煩悶、希望一切を集めた叙事詩であります、斯う云ふ叙事詩だけでなしに西洋にも同じやうに戦争を種にした叙事詩が此時代に二つ出て居ります、其一つはドイツのニーベルンゲンの歌(Nibelungennot)で丁度共頃に東方から匈奴が這入りましてドイツの土豪と随分激戦、血腥い戦争を致した、其の決戦の成り行き舞台を種にして、ドイツの古物語にある勇者や勇婦の活劇を詠じ出したのがニーベルンゲンリートで、その中にはやさしい心と恐ろしい嫉妬との混合、忠実の情と野心との紛擾などが、うぶな形の中に深刻に書かれてあります、それから少し遅れまして丁度日本に於ける平家物語と殆ど同時代に、イギリスに円卓(Round Table)の話と云ふのがあつた、此はアーサー王(King Arthur)と云ふ王様の家来で、丁度日本で源頼光に四天王があつた如く、アーサー王には十二人の家来が附て居つて、此人等が色々の仕事をし、冒険もして歩けば悪魔の征伐をする、弱い婦人を助ける為にそこらを歩くと云ふやうな色々な物語がある、此方は非常な天下分け目の戦争と云ふやうなものではありませぬが、其間に色々な冒険譚、武勇の物語があつて当時の武士が武者修行の間に逢つた経歴心情の跡が伝はつて居る、私の考へまする所では此二つの時期が即ち世界に於ける叙事詩の二つの最も大切なる時代で、それ以外に多少は出て居りますが皆それの真似をしたか、或は又ごく拙いものであるやうに考へます。
茲で更に叙事詩の内容に立入つて見まするに、叙事詩には大抵皆天下分け目の戦争を種にしたものが多いのですが単に戦争の物語ではない、日本では戦記と申して居りますけれども、戦争の物語りが叙事詩の目的でなくて、それは単に手段又材料でありましやう、一体戦争なるものは社会の大きな変化を示すもので、それに伴つて或はそれと因果相連つて必ず人心に大きな動揺がある、天下分け目の戦ひがあり、国家や民族の興亡を賭して戦ふ様な場合には、人は真面目に、生命をかけて仕事をする、する事なす事が一つとして命がけならざるはなく、従つて心の奥底から湧き出る、即ち此の様な時勢は人の真心の最も明かに又激烈に現はれる時で、詩人の歌ふべき詩材に特に富むのは自然の勢でありましやう、そこで叙事詩の物語りは外面の事件戦争などを舞台にはしますが、その間に起つた人情を描き出す、大変動の時代に処して人心がどう云ふ工合に動揺したか、驚く者もありませうし悲しむ者もあり、悩む者もあり疑ふ者もあり悶へる者もあり、それ等の心根がどう云ふ事情の下に生じ、又どういふ工合に進んで来たか、或は悲しんだり喜んだり驚いたりして居る心根に依て如何に人が動いたか、是等を叙事詩が能くうたつて居る{*4}、其一つ一つの事を取つて来ましても一つの話になり一つの芝居にも仕得るやうなものが沢山あるのである、それ故に多くの場合には叙事詩としては全体は一つの戦争の物語であるが、此間に又色々の小物語を挿し入れたもの、英語でエピソード(episode)と申して居りますが、此の挿入れ話が実は叙事詩をうたつた人に取つては大切であつたので、戦争其ものゝ成行よりも戦争をするやうになつた時勢の大なる変遷に伴つて人の心が如何に驚いたか、如何に悲しんだかと云ふやうなことを物語るのが叙事詩の目的であつたらうと思ひます、少くとも叙事詩がその国その時代に行はれるのみでなく、後世に行はれ又は異国の人にも感動を与へるのはこの人情の奥に入つた物語にありましやう、そこで時勢の大なる変遷に驚いたり悩んだりした、人心の動揺を書たゞけで人間は満足するか、動揺苦悶のみを描いた叙事詩があれば、それは世の人に迎へられましやうか、唯驚いた、悩んだと云ふことだけならば今日の所謂る煩悶の歴史である、煩悶の歴史をうたつて世間が之を歓迎するか、又それで世人を動かし、人心に感化を及ぼし得ましやうか、何れの叙事詩もそれをうたつた人は如何なる人であるか明に伝はつて居ない場合もありますが、其叙事詩が其当時の思想を現はし人心を描出し、そうしてそれから以後続いて来る所の社会に迎へられて人心を動かして居る、ホメーロの詩に致しましても丁度こちらで琵琶法師のやうなラプソテストと申す者があつてギリシヤ全国でうたつてあるいたのです{*5}、印度のマハーバーラダーも今日に至るまで日本の琵琶法師と同じやうな者が鼓に合はせて歌ふ{*6}、ダンテの物語は色々の芝居にして中々歓迎されるものもあれば、絵にも書き彫刻に彫つたものも沢山ある、ダンテの物語がそれから以後どれだけ社会の美術に影響を及ぼしたか測り知るべからざるものである、独逸のニーべヌーゲンの話はワグネルが立派な音楽に仕上げて居ります{*7}、兎に角斯の如き一代の事実をうたひたる叙事詩がありますれば其当時に迎へられるのみならず、其以後の社会の人心に影響して居る、其点が何所にあるかと云ふことを吾々は見なければならぬ、此点は私の考では叙事詩が其通り人心の悩み驚きを描き出したゞけでなしに、それに対して解決を与へて居ると云ふ点が一番大切であらう、社会が変遷をして非常に大きな変動を及ぼした場合には驚かざるを得ない、悲しまざるを得ない、併ながら単に悲しみ驚いて終るものではない、何所か落着く先が無ければならぬ、其要求に対して即ち其国民の精神をうたひ、其当時の思想信仰をうたつて、即ち煩悶と安心と両つながら一時代の大告白をした故、人類の宝となり叙事詩となつて今日に遺つて居るのであると考へられるのである、是等に就て今の一つ一つの叙事詩に就て申上げますれば余り長くなりまするが、試みに平家物語一つを取つて此方面の観察を致して見ましやう、平家物語の中の話は諸君の皆御存じの話でありますから、申上げて直ぐ御分りになるであらうと思ひます。
日本の歴史の中で色々の変化をした時代はあります、小治田の御代や大化の新政や明治の変化の如きは実に大なる変化でありました、併しながら人心の動揺を来したことの大きく且つ深かつたことは源平の時代であるだらうと思ふ、平安朝四百年の平和が続いて、大宮人の文明が如何にも燦爛たる文華を作上げて居つた、あの狭い京都の地は悉く皆堂塔伽藍か或は公卿の宮殿で埋められて、さうして大宮人は朝には桜翳して楽しみ、夕には月を眺めて歌を詠ずると云ふやうな実に太平な、花の如き文明が四百年の間続いたのである、其間には多少の動揺はあつたにしても、実に此四百年は花の如き文明の時代である、然るにこの太平は保元平治の乱で一時攪乱されて人心は驚いたのである、今までは恰も神様の御殿のやうな宮殿は火に焚かれ煙に覆はれ、御所は兵馬の衢となつた、如何にしても驚くべき変動であると思つたに違ひない{*8}、それも間もなく鎮つて、今度は主は変り平家の代にはなつたが、平家の文明、平家の政治は藤原氏の趣味を襲いで藤原氏のした仕事を其儘やつた、平家の公達は優にやさしき公達であつて、藤原氏の公卿殿上人と少しも異る所なく、詩歌管絃の道は言ふに及ばず、鎧、兜、弓矢、馬、鞍の好みに至るまで優にやさしひ優美なる公達ばかりでありました、清盛の如きも太政入道と云へば恐ろしい眼を張つて居る坊主のやうに思ひませうが中々さうでない、清盛は立派な人であつたのであります、京都の六波羅蜜寺に遺つて居る清盛の肖像を見ても立派な男である、単に男として立派であつたのみならず其の好みを見ましても、厳島に清盛が寄附した経巻がありますが、其装飾などでも如何に彼れの美術心に富んで居つたかを知るに足る、兎に角保元平治の乱に一時は驚きましたが世は平家の世盛り承安の代になつた、それより寿永の末に至る迄の平家の世と云ふものは春の花をかざして踊ると云ふやうな姿であつた、所が花の如き平家の世盛りが、三十年経たない中に、忽ちにして瞬く間に壊れて仕舞つたのである、其の大変動の第一の烽火を揚げたものは何かと言へば高倉宮の叛乱である、併しそれだけでは未だ非常に驚くべき事でもなかつたのですが、それに続いて清盛は南都の僧徒に怨みを含み、中将重衡を大将にして南都を征伐に出した、所がどうした拍子か火が大仏殿について東大寺から其あたりの堂塔伽藍を一爐に附して烏有に帰した、聖武天皇の御願で天下の力を集めて出来た大仏殿、此伽藍が栄えるならば天下は栄えん、此伽藍が衰へるなら天下は衰へんと勅願のあつた大きな三国一と言はれる堂塔伽藍も一夜の中に煙になつて、金銅の大仏像は半はとけてしまつた、是が既に天下の驚きの初めであります、平家物語の南都炎上の事と云ふ條を御覧になれば、此一事を当時の人が如何に驚いたかと云ふことは御覧になることが出来やうと思ふ、南都炎上を手始めにして天下は急ちにして乱れて、真盛の桜花が夜半の嵐に散つた如き姿、太政入道は世にも恐ろしい熱病を病んで亡くなつて仕舞つた、東の方にやつた軍勢は敗れて還る、木曽の上つて来るのをきいて忽ちにして都落ち、都を落ちたばかりでなく、福原の都にも居堪ることが出来ず{*9}、九州に落ちて行く、間もなく九州も追ひ立てられ、中国を遍歴して一年余りの間平家の人々は憂艱難をしたのである{*10}、其の揚句はどうかと言へば、是は申す必要もない、寿永四年の三月二十四日、丁度今頃の時候で、世が世であれば都で花を眺めて暮す日を、朝の卯の時を合図に壇の浦で源平国争ひの戦争が始つた、初めは勝ちさうに見えて居つたが色々の点で勢ひが不利であつて、遂に平家の一門は悉く西海の波に歿した、万乗の天子を始め奉り、一族挙つて西国で海の藻屑になつた、或少数の人は捕はれ都に送られ又は途で馘られた者もある、保元平治以来寿永の没落に至るまで三十年でありますが、此の間の変化は実に驚くべく早かつた、多数の人は子供の時から一生の間にその顛末を眼で見耳で聞いたのである、而かもそれが単に平家の三十年の代が斯の如くにして亡びたと云ふだけではなく、詰り寿永の没落は平安朝の文明の没落であつたのである、平安朝四百年のお公卿様の文明が亡び、其れに替つたものが今まで東夷と云つて居た東国武士で、天下の権勢は京都から鎌倉に移り、世の様は茲に全く一変したのであります、斯う云ふ変動でありますから其間に於ける人心の驚き、悩み、悲しみが如何に大きかつたは想像するに余りありましやう、それに加へて、文治元年に平家が亡びて暫くして七月の大地震、治承四年の大風、俄の都うつりや旧都のさびれ、或は又その前に色々の物の怪、六波羅に天狗がおどつたとか大政人道が幽霊を見たとか{*11}、色々なことを言つては人心は驚いて居る、単に天下の事に驚いて居るのみならず、斯う云ふ変遷の場合に当つて一個人の運命にあらゆる変化が起り、悲惨の事痛ましい事、恨めしい事が色々に生ずることは是亦申す迄もない、其中には夫を失つた者もあれば親に別れた子、子を失つた親、人生の驚くべき事、悲むべき事は一時にその当時の人々の身の上にかゝつたかの様にも思はれたでありましやう{*12}。
若し此の間に於ける人心の変動を一々書き出したなれば数限りなく書ける、実に深い人情の動揺が此所に現れて来るに違ひない、それを平家物語の著者は巧く採り上げたのである,それに就て一つ一つのお話を申す迄もない、名だけ申せば疾くに御存じでございませう、例へば祇王御前が嵯峨野の奥に隠れて仏御前がその跡を追ふた話、是も同様嵯峨野の奥に隠れた小督に対する高倉帝の綿々の情緒、文覚上人の発心の如き、或は俊寛の怨みに維盛の未練など、色々人情のこもつた話が此間に沢山現れて居る、或は恋であるとか意趣であるとか、或は怒りであるとか怨みであるとか、或は驚きであるとか色々の人情の動揺が此中に現れて居る、それで是等の点に就て其当時の人心を描出すと云ふことは是れ実に大きな腕前を要する点で、それがよく出来れば、則ち一時代の人情を描き出し、一世の大告白になるのでありますが、平家物語は、この一代の告白をよく一篇の叙事詩に編み上げました{*13}。是等の話が後世に伝はつて、さうして其一つ一つを度々芝居にしても其他の詩に致しましても、人はいつまでもそれを悦んで迎へるのは、是等の人情を如何に巧みに描出したかと云ふことを示すに足る、小供方でも熊谷敦盛の絵の姿を御存じない方はあるまいと思ふが、熊谷蓮生坊の心の趣きを描出して見れば是れ一つだけで一つの芝居になる、要するに平家物語は平家の滅亡に際して動揺を来した一代の人心特には京都と西半分の日本人の精神を捕へ、深い同情の筆に現はし、源平国争ひの戦を経にして緯に人情の深さを書き残したものであります、そこで一歩を進めて考へて見まするに、只動揺、煩悶、悲嘆のみが人心の告白でない{*14}、動いた心を静め、悶へた情を慰め、悲んだ涙を拭ふ落ちつく先の帰着点がなければ人は満足しない、平家の滅亡、平安の衰落で驚いた人心もどこかに帰着を求め、一族一身の不運で悲嘆の心境の暗に陥つた人もどこかに光明を得たに違ひない、こゝが平家物語のみならず、総て叙事詩を見る場合に肝要の点であります、平家物語りはこの方面からもやはり一代の信仰を告白して、それで又多くの人に迎へられ、後世に感化を及ぼしたのであります、歴史をいへば長くなりますが、一言で申さば平安朝の仏教は儀式の宗教であつたのですが、それに対して平安の半頃以後に段々信心念仏の教が起つた、我々人間は幾ら遁れやうとしても深い罪を犯して居る、さう云ふ極重悪人でも阿弥陀如来の名を称へれば極楽へ行ける、信心は理窟でもなければ儀式を営むのでもない、上は天子より下は百姓に至るまで、老若男女貴賤を問はず、智恵の有る無しに拘らず、罪の浅深に嫌ひなく、皆共に念仏に依て浄土に往生すると云ふ、此信仰が段々人心に深く入染めた、平家物語は即ち此所に土台を取つて一つの解釈を与へて居るのである、此の信仰の力は先程申上げました重衡の身の上一つにも明に現れて居る、重衡は南都を征伐する為に心ならずも遂に大仏殿を始め堂塔伽藍を焼き尽した、此罪は実に怖しい、自分に考へて見ても数百年来日本国中の尊崇を集めて居つた堂搭伽藍を焚き沢山の僧徒を焼き殺したと云ふことは、如何に自分の功名の為であつたとは言へ、父親の言付けであつたとは言へ、考へて見れば恐しい事である、其時の人の信仰でいへば、此はどうしても極重い罪、地獄の業である、今日でも斯う云ふ例はありましやう、或る病院の看護婦が誤つて火を出して病人に死んだ人が出来た場合に、どうしてその罪を償はうかと、自分自からが其火の中へ飛込まうとしたと云ふ話を聞て居りますが、重衡のは之の大きなものである、聖武天皇の建てさせ給ひし大伽藍を焚き沢山の僧徒を殺した、其罪は地獄に落ちる、それがどうして肋かるかといふと今迄の仏教ではどうしても助かりつこはない{*15}、そこで日頃信仰する法然上人を頼んだ、法然上人は念仏を弘め、「極重悪人無他方便、唯称弥陀得生極楽」の教を伝へ、弥陀の悲願に資りすがつて安楽国に生まれるのを勤め{*16}、上は天子より下百姓に至るまで色々の人、沢山の天下の人心の帰依を集めて、時の人からは黒谷の上人と言はれて居つた、重衡はこの人の教によつて安慰を得、自分の罪は深いながらに、それをも救ふ慈悲のあるのを信じたのであります、是は平家物語に通常の本では戒門の事と云ふ條になつて、重衡が一ノ谷から京都に連れられて.それから関東に行く前に一度法然上人に会つて教を聞き、尚ほ後生菩提の回向を上人に頼んで関東に下向をしました、後に重衡は南都の僧徒の手に渡つて無残なる最後を遂げた、木津河原で死する時に、仏像に対して、西に向ひ合掌礼拝して安心して死に就て居る、今迄の仏教では殆ど罪人を救ふ道は無かつたが、此時に罪人をも救ふと云ふ仏教が現れて居る、其他平家物語の中で多恨の一生に悲惨の死を遂げた人は沢山ありますが多くは阿弥陀仏に願つて居る、三位通盛の北の方、小宰相は一の谷で通盛が討死をした後に熟々船の中で考へて、自分の身はどうしても亡きものにしなければならぬと決心して船の上に出て見た、夜中で海は漫々としてどちらを西とも東とも分らぬ、見れば月は入り掛けて居る、月の入る西の山の端を見て、其方の空を極楽と思つて、西方に向つて合掌礼拝して入水した、或は壇の浦で平家の一門が最期を遂げます時にも{*16}、二位禅尼は安徳天皇を抱き奉つて言つて居る、あの波の上日の入る西に極楽がある、東に向つて太神宮に御暇乞を遊ばせ、さうして西に向つて西方浄土の来迎にあづからんと誓はせおはしまして御念仏を遊ばせ、とかう言つて一門と共に海に投じた、其外斯う云ふ例を集めて見ますれば沢山ありませう、此時代の人が悲しんだ者もあり驚いた者もあり悩んだ者もあるが、皆悉くその最後には浄土に向つて居る、今迄の一生は夢の如くである、罪を犯したにしても又悲みもあつたが此等は総て大慈の光明の中に霧と消え落ち着く先は西方の浄土であると信じた、是が平家の最期の時の人心の趣く所であつた、もつと前にも小松内大臣が既に此信仰を持つて居られたのである、御存じの通り小松内大臣は自分の堂に十二光仏の像を据へて、さうして毎夜礼拝する、其時の今様は
心の闇の深きをば 灯明の火こそ照らすなれ
弥陀の悲願を頼む身の 照さぬ隈も無かりけり
この今様を謡つて礼拝をせられたと云ふことであります、小松内大臣のこの信仰が矢張り当時多数の人の信仰であつて、それを平家物語の著者は十分に書き表はして居るのである。平家物語は一つの信仰告白であるといつても過ぎては居まいと思ひます、即ち平家物語の一番初めは、祇園精舎の鐘の声が世の無常を示すといふに始まつて、強き者も遂に亡び猛き者もいつ迄も続かないと云ふことを平家の滅亡に依て示さうとしたのである、
けふも亦暮れぬと鐘の音すなり
命尽きぬと驚かすかは
と云ふあの心持である、当時の人々が未曽有の大変動を経て来た後の心根には何事に対しても無常の悲観があつて、一代人心の心持ちは諸行無常と云ふ一語に帰する、それで平家物語は祇園精舎の鐘の声で始まつて最後には建礼門院の六道輪廻で結むで居る、建礼門院は太政入道の娘で、早くに入内をして天子の妃となり忽ちにして国母となつた、安徳天皇の母上である、此時代に於て建礼門院は何事として心に叶はないことは無い、百官百僚に侍かれ、まるで天上忉利の生活をして居られたのである、それが忽ちにして有為転変、一門の没落と共に西海の波に漂ひ、或時には兵粮が尽きて飢に苦んだこともあり{*17}、或時には水の無い為に渇いて苦しんだこともある、考へて見れば餓鬼道の如きものである、或は又戦争をして昼は海辺の松林を通る白鷺を源氏の旗かと思ひ、夜になれば水禽の羽音に驚く、此間は仏教で謂ふ修羅道に当る、それから又一門は海に投じ或者は敵に擒はれた、建礼門院御自身も不幸にして東夷の手に捕はれ、荒くれ男に連れられて都に上つたのは畜生道の如きものである、是等のことを考へて見れば建礼門院の一生は実に人生のあらゆる変化、上は天上から下は地獄まで、色々の経験、六道の輪廻を一生の中に経た方である、此一人の人物を捕へて来れば、平家没落の時代の人生は総て其の中に含んで居ると申して宜いやうな有様である、それ故に平家物語の著者は此建礼門院の人物を最後の結論として、建礼門院をして此六道輪廻の話を語らせ{*18}、又その信心安慰のある所を語らしめてをる、建礼門院は覚めるにつけ眠るにつけ忘れられぬは先帝の面影{*19}、茲に一門の人々の亡霊のあとをのみ思ふ、併ながら亡き人を返すすべはなく、滅びた世を元に戻す術も無い、世は源氏の世になつて到底之を如何にしても旧に復す術は無い、頼む所は現在でなくして唯未来である、未来世に是等の人と共に楽しい浄土に住はなければならぬ、そのためには先帝を始め奉り一門の亡き人々の亡霊の為に菩提を吊はなければならぬとて、其の菩提回向の一生を小原の奥の寂光院で過されたのが建礼門院の一生で{*20}、隠棲三十五年の後に念仏の声と共に一期の命を終り{*21}、往生の素懐を遂げられた、此が即ち平家滅亡の結論であり、又当時の人心の帰着であつて、即ち平家物語の終りになつて居ります、
平家物語一つを取つて見ましても斯の如くで其外のものも皆同様で、叙事詩の価値は一時代の非常なる大きな変動を捕へ、さうしてそれに依て当時の人心を描出す点にある、当時の人心の動揺を描くだけでなしに何等かの解釈を与へて居る{*22}、こゝに叙事詩の力があり、叙事詩が人心を動かす力も、又それに人生の解釈を指し示す感化の力もやはりこゝにあらうと考へるのであります。
尚ほ最後に平家物語に就てちよつと附け加へて置きたいのは、平家物語は一方に於ては源平の盛衰を土台にして之を表面にして、其間に起つた天下人心の動揺を描いて居る、所が之に謂はゞ裏書をしたやうな物がある、それは即ち平家物語に現れた人々に安心を与へ、其時代の信仰の中心となつた人即ち法然上人である、法然上人の入滅は丁度平家の歿落後十七年を経て居りまするが{*23}、其伝記は上人の滅後百年ばかりの時、一番初めの平家物語の出来ましたよりは五六十年の後に出来て居ります、それは勅修御伝と申して後二條天皇の勅命に依て出来た、其四十八巻は平家物語の裏書である、平家物語は表で勅修御伝は裏書になつて居る、此方を御覧になつても法然上人を中心にして、重衡は勿論熊谷蓮生坊や重盛の孫である勢観坊、鎌倉では二位尼始め、宇都宮三郎とか甘糟太郎とか云ふ色々な人々、又武士ばかりでなく其当時随分多かつた山伏であるとか或は又非常な悪賊、人を殺したり何かした賊も法然上人の所へ集り、関白兼実なども皆法然上人に頼つて安心を得て居る、勅修御伝四十八巻は平家物語十二巻の裏書をして同じ決着を示して居るものであります、尚ほ此二つの関係は文章の上、材料の点もありますがそれは略します、兎に角平家物語は日本の叙事詩で一番大切なもので、此平家物語の本当の深い所を御了解になる為には、其当時の時勢と当時の人心の赴いた所、信仰等を研究して見なければならぬ、其研究の為には法然上人を共に考へて見なければならぬのでありまする、若し平家物語を御読みになつて尚ほ深くその裏になつて居る所を見やうと云ふ方がありますれば、願くは此勅修御伝をも御覧になることを希望致します。
(佃速記事務所員速記)
「心の花」第十四巻五号(明治43年(1910年)5月)所載
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校訂者注
1:底本は「同じ歌でありますますが」。誤植と見て訂正。
2:「◎」は代用で、底本は「〇の中に右方向に90°回転させたS」。
3:底本は「居りますか」。誤植と見て濁点を補った。
4:底本は「叙事詩か能く」。誤植と見て濁点を補った。
5:底本は「申す者かあつて」。誤植と見て濁点を補った。
6・7:底本のまま。
8:底本は「驚くへき変動」。誤植と見て濁点を補った。
9~11:底本のまま。
12:底本は「思はれたでありまやう」。脱と見て一字補った。
13:底本は「編げ上げました」。誤植と見て訂正。
14:底本は「悲嘆のみか人心の」。誤植と見て濁点を補った。
15:底本は「今迄の仏教で どうしても」。カスレと見て一字補った。
16:底本は「檀の浦で」。誤植と見て訂正。
17:底本のまま。
18:底本は「話しを語らさせ」。衍字と見て二字削除。
19:底本は「先帝の面影茲に」。脱と見て読点を補った。
20:底本は「建礼院の一生で」。脱と見て一字補った。
21:底本は「隠捿三十五年」。誤植と見て訂正。
22:底本は「描くたけでなしに」。誤植と見て濁点を補った。
23:底本は「居りまするか」。誤植と見て濁点を補った。
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