奈良朝文明の外来的要素
高楠順次郎
奈良朝の研究に就いては自分は最も趣味を持つて居る。殆ど日本の文明の根本要素は皆奈良朝に備はつて居るので、時には奈良朝で消化しなかつたものもあり、又消化して充分完成したものもあるが、兎に角その研究と云ふものは最も趣味のあるものと考へて居る。今日は段々とこの方面に向つて歴史的の研究が進んで来た。併ながら奈良朝文明の要素は実に多方面に亘つて居るので、種々の方面からして研究すべきものであると思ふ。その一分子として、自分は奈良朝がどのくらゐ外国と接触して居つたか、殊に印度とどのくらゐ関係を有して居つたかと云ふ問題に就て調査して見ようと云ふ考で、段々に進んで行つて見ると、進めば進むに随つて興味が増して来る。奈良朝の文明は一般に我々が考へる如き単調のものでは無い。
奈良朝と他の外国との関係に就ても述べたい事は色々あるが、先づ印度との関係のみに就て見てもなかなか多岐に亘つて居る。この朝に於ける印度の智識は、凡、三つの径路を通じて来て居る。先づ第一に印度、及印度に関係のある国からして日本に帰化した人の伝へた智識、第二に当時多数の留学生若くは学問僧が入唐して支那に来住して居る印度人、即、婆羅門及仏教僧、又は入竺の支那人例へば玄奘の如き人に逢ひて得たる智識、第三には印度の智識を有せる支那人、朝鮮人の我国に帰化せるものゝ伝へた智識、この三つの径路を通じて日本に伝はつたのは単に印度に関する智識のみではなくて、具体的の物件も多く、梵本、仏像、仏具、薬香、衣服、楽器その他の日用品美術品等もあつて、直接に我国技芸の進歩を助長した材料が沢山ある。この印度の智識と材料とは奈良朝文明の要素であつたに相違ないが{*1}、時代の推移するに随ひ、その事が全く忘れられてしまつた。その忘れられるには種々の理由があるが、仏教反対の史家の為に排斥せられ、自然に埋没せられたのも慥に一大理由であらうと思ふ。
奈良朝と印度との関係が至つて深かつたと云ふ記憶を喚起する為に、二三の例を挙げて見れば{*2}、(一)この朝に於て「五十音」が創作せられて居る。五十音の配列を見るに、印度の梵字の配列と同じことである{*3}。而も梵字の配合を実際に教習する時に用ゐる配列法である。尤日本に存在せざる音は省いてあり、配列後に変化した音もあらうけれど、全体に就て見れば、梵字を実際に練習したものゝ配列したのであると云ふことは明白である。五十音の字形は誰が作つたと云ふことは異説があるが、誰が作つても構はない、この配列法は梵語を実際に学習した人の案であると云ふ点は慥である。そこで此五十音図は印度の智識を表白せる奈良朝の産物の第一に置くべきものであると思はれる。尤も奈良朝の古書に五十音図の書付けたものは存在して居ない、併し梵語の音図と余り相違しないのであるから、梵語教習の行はれた時から五十音図に類したものがあつた事を想像するのは決して無理でない。空海が音図の順序を改めたと云ふ伝説から見ても五十音図を奈良朝の産物とするは全く無理ではないと思ふ。(二)従来意味の余り分らぬものとして万葉集に残つて居る歌に、「婆羅門の作りし小田を食む鴉瞼(まなぶた)腫れて幡桙(はたほこ)に居り」と云ふ高宮王の作がある。この歌の解釈は古来不明なりしと見え、代匠記には「今かうしも詠み出られたる其故を知らずとあり、万葉古義には、「歌の意は聞えたる儘にて深き旨もあらぬにや」と見えて居る。然るに現に婆羅門が奈良朝に居つたことを明かに記憶したならば、今少しは解釈の仕様もあらうが、全く忘れられて居つたのであるから、遂に不明に帰したのである。当時婆羅門僧正、姓婆羅遅、名菩提仙那(Bharadvāja Bodhisena)は奈良の大安寺に留錫して官の供給を受け{*4}、梵語を教へ、華厳の教義を鼓吹して居つたのである。神護景雲年間に書いた僧正の碑文もあり、富小川の霊山寺には僧正の墓もあり,又続日本紀に見ゆる聖武皇帝の尊号を上る奏文には、僧正菩提寺謹白とあつて{*5}、奏文の筆頭にその名を列してある。そこで婆羅門在住の事実は争ふべからざる事実である。(三)奈良朝の音楽は天竺楽に依つて大革新を来した。これは重もに婆羅門僧正と共に来朝した林邑の仏徹(Fat-triet)の功に帰するのである。仏徹の輸入した音楽は林邑八楽と云つて当時印度の文明を其儘伝へた林邑即瞻波(Champā)からして印度楽を伝へたのである。其中には印度のリグ吠陀(ベーダ)及アタルヷ、吠陀(ベーダ)の神話を音楽にした抜頭(パツトウ)(Pedu)還城楽の如きものがある、今尚宮中に行はれて居る。(四)奈良朝の仏教は印度其儘で、支那でも例の少い実際的仏教が行はれて居つた。例へば、路傍に樹を植ゑて通行の人の為にする、近来は路傍の樹は色々研究して果物の生るものはいかぬと云ふ様な説があるが、昔は通行の人を助ける為に果物の生る、蔭の多い様な樹を選んだ、熱い時は蔭で助かり、飢渇せるものは果物で養はれる、その上に春は花を見て楽しみを得ると云ふ様なことを目的として一般に樹木を植ゑ、又路傍に休息所を設け、且慈善的接待所を設けて通行人に施しをする。組織的に設けたものでは敬田院ありて宗教を助け、悲田院ありて貧民に施し、施薬院があつて貧民に薬品を与へ、施療院があつて難病の療治を司る、又従つて山野を開拓し、渠溝を通じて大に農業を興し{*6}、橋梁道路を作りて交通を便にし、義井を穿ちて日用に便にする等、その他斎会、講会の制に至るまで、何れの方面に向つても仏教の慈善主義、社会改良主義を実行したことは、印度阿育王朝の盛時にも譲らぬ有様である。この理想的仏教文明は前後唯この時代に於て之を見るのみである。
以上四件は慥に印度との関係を認むべきものであるが、この外奈良朝には波斯の人李密医と云ふ医者らしい人も居る{*7}。平安朝にも神秀と云ふ波斯僧が居る。又中央亜細亜の胡(窣利又は粟特と云つてSogdianaのことである)の人で如宝と云ふ人がある。是は延暦帝に灌頂を授けた戒師である。それから崑崙の島、即馬来半島から来た崑崙人軍法力が居る。唐招提寺の弥勒及二脇士の像は法力の作である。林邑(瞻波、占城、今の安南チヤム種族の住する所)の仏徹、善聴等の人が居つた。中にも平安朝ではあるが珍らしい人は、延暦十八年に綿(Vadara)の種を持つて来た印度人で、随身の物具を売つて路傍に休息所を建てゝ窮人を救済し、常に一絃琴を弾じて居つたと云ふことである。これは奈良朝ではないが、こゝに之を附して置く。
奈良朝で最も注意すべきは当時のものに多くの波斯伝来の物具文様の存在して居ることである{*8}。正倉院中の波斯原素の如きは特殊の研究を要するものである。其外我々の耳に慣れて居る絵の具の密陀僧(ミツダソウ)の如き酸化亜鉛の類なるは明了であるが、是亦波斯の薬品で、ムルダーセン(Murda-seng歿陀繒とも書す)と云ふものである。当時大食国(アラビヤ)波斯(ペルシヤ)国、印度国馬来諸島との交通は誠に盛んなものであった。鑑真東征伝には当時広東の港中には黒蛮白蛮の貿易船が林立して居つたとある。この諸外国の貿易が行はれて居つて見れば、支那より輸入したものに、波斯品の多いのは自然の勢である。若し無しとすれば怪むべきである。
以上述べた様な事実に依つて見ると、奈良朝と云ふものは我々が一般に考ふる如き単純なるものでない。何もかも悉く支那から採り、朝鮮から採つたと云ふ風なものではない。諸外国の原素がその文明を経緯して居るである。この奈良朝の評判が支那に伝はり、外国人の支那に在留して居るものがその評判を聞いて日本に渡つた。即、奈良朝の盛名が四方の人を引付けたのである。
「心の花」第十九巻三号(大正4年(1915年)3月)所載
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校訂者注
1:底本は「相違ないが時代の」。脱と見て読点を補った。
2:底本は「挙げて見れば(一)」。脱と見て読点を補った。
3:底本は「同じことである而も」。脱と見て句点を補った。
4:底本は「奈良の大安守に留錫して」。誤植と見て訂正。
5:底本「寺」の上には手書きの縦線が書き込まれ、左下に手書き文字(判読不能)がある。
6:底本は「農業を興し橋梁道路を」。脱と見て読点を補った。
7:底本のまま。
8:底本は行頭を一字分下げておらず、誤りと見て下げた。
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