姉のことども
樋口邦子
姉は無器用で御座いまして中島先生のところへ御稽古にあがつて居た時も、普通の女らしい身だしなみのお化粧は当時の方々は皆御自分でなさつたものですが、姉は頭髪がさがつてゐましてもかきあげることさへ出来なかつたので、それが一番自分に苦労であつたさうで御座います。
ひどい近眼でしたから、どなたの御顔も本当に知つてゐることはなかつたので御座います。で大概は御様子で察してゐまして、これはどなたどなたといふ位の按配で、はつきりはしてをりませんでした。あの日記を御らんになつて半井桃水様が御美しいゆゑに、姉の意中の人であつた如く言つてゐる方が御座いますが、それが御美しいゆゑ云々と仰有つても本当に御美しいかどうかを見る目はなかつたやうで御座います。
姉に一番感心なのは、親孝行と勉強家であつたことであると思つて居ます。大した素養もなく、どういふ風に先生に就いてどうといふ様なこともなく、賃仕事の傍ら筆をとつたことが皆様に褒めて頂くやうになつたのだと私は思つて居ります。
日記が出来ましてから皆様のことが書いてあるので大変済まないことも御座いますがあれは私から御詫を申上げねばならないのですが、申上ることもできずに困つてをります。中島先生のことまでいろいろとかいてありますが、あれは他の方々から伺つてかいたと申せ、何だか具合がわるく、弁解する訳でも御座いませんが、実際ほんとうにさう思つて居つたかどうか、側に居ながら私には疑はしく思はれるので御座います。
極く幼い折、未だ中島先生にあがりませんうちに、御父様時代に佐々木先生に上つたことがありますので、それは松永正愛と申す親類が御座いまして、そこに裁縫の稽古にまゐつてをりましたが、松永が弘綱先生の御弟子であつたもので、そこへ信綱先生なども御いでになり、親しく御目にかゝつて、御話を御伺ひしたとやうにいつて居りました。
話は前に戻りますが、生れて三つぐらゐ迄は非常に御しやべりでした。片言を云ふ頃にもきつばりしたことを言ひ、当時丁度読売新聞ができましたので、兄たちがそれをよむのをまねて声色をつかふのはまるで大人の新聞をよむやうであつたと、皆が驚いた程で御座いました。
六つのとき本郷小学校へあがり、半年位で兄達が他校へ転じたので、自分も近くの私立の吉川小学校へはいりました。はじめ小学読本(あのアジア人種欧羅巴人種のついてゐるのです)を読みましたが、ぢきおぼえてしまふので、では漢書をよませようといふので、七つ八つからできるだけ教へてくれました。それもよくおぼえましたとのこと。尤もそれも意味がわかつておぼえたのではなく、口真似でおぼえたのであらうと思ひます。
続けて十才までは普通小学校へまゐり.それが家の移ると共に下谷の青海小学校(私立)へあがりました。そこに奥州の方で姉を大変に贔屓して下さつた先生がありまして、其方が陰になり日向になつて、姉を専門に学ばせるやうに御勧めにいらつしやつたことも御座いました。本人も切りに続けたがつたのですが{*1}、あの全集の終りにもありますやうに、母があまり喜ばぬ為止めました。それまでがいはゞ正式教育をうけたので、其以後は殆んど独学でした。学校をやめたのは十二の時です。それから家事の手伝がてら和田重雄といふ八丁堀に住む父の知人で歌人のもとへ入門し、其後中島先生へあがりましたので、それからは殆ど堅いものは習はなかつたのです。それに其時分の中島さんの御稽古といふものは、源氏の御講釈や詠草の点取ぐらゐであまり充分とはいへませんでした。
「たけくらべ」は、下谷竜泉寺町に居りますとき腹案はあつたのですが書き上げたのは本郷丸山福山町の家で御座います。竜泉寺町では小さい荒物屋、駄菓子屋などをして居りましたので、あの辺の子供がよく集つてまゐりました。その所業見聞に、丁度八月の祭をあしらつて、書いたものです。名の付け方は違ひますが、皆あの時自分の実際目にうつつたものがあれだけあつたのです。みどり(ヽヽヽ)にした娘は姉の気に入りで、来てゐる客のうちでも一番と考へて眺めてゐたものでした。蓮華寺の信如、親と気の合はない子供、あゝいつた様な性格の子供は確かにありました。今も何だかあそこいらへ行つてこの人達の先がきいてみたいのですが、大分場所なども変つてしまひましたので、一寸調べにくいのですが、然しどうも先が見たい気がしますのです。
「別れ途」の傘屋の吉公も、ちやんとあり、姉のすきなタイプでした。お京といふのはこしらへものかと存じます。何にいたせ、さう世間に出たのではなく、見たり聞いたりしたことも尠いので、直接見聞したもののみからあの人物を出してゐるのです。
姉は歌はほんとうにすきで、いま別府にいらつしやる田辺夏子様は、同年で、中島門の姉弟子で御座いましたが、その方とはお親しくしました。その夏子様と一所に、もつともつと研究して、もつともつと深い所まで行きたいと思つてゐたのでしたが、いろいろのことに追はれて自分の思ふ様のことはできなかつたのであらうと存じます。「短いもので最も自身の心をこめられるものは歌である」と考へてゐました。少しでも、間があると、歌の本や物語ものをよんでゐました。物語では源氏。殊に源氏ではあの雨夜の品定めが、姉の最も好きなもので御座いました。小学校の時分、青海学校の先生が歌を一寸よんでゐたやうで、其影響ではじめたらしく、当時「筆」といふ題でよんだのに
ほそけれど人の杖とも柱とも思はれにけり
筆のいのち毛
といふのがあります。其時分から幾らかよむでをりましたが、極幼稚なものをかいてをつたやうに存じます。然し規則だつたテニヲハなどにかまはず、ロから出るもの即ち歌であるといつて随分勝手によんでゐたやうです。今のやうな自由な歌がよめる時代にをつて、自由によめましたら、もつと好い歌もできたらうと思ひますが、どうで御座いませうか。又貧しいので、手習のつもりか、短冊は大抵裏表に書いて御座います。
すきなもの嫌ひなものなどいふものはなかつた人でして、人に逆らふなんてことは殆どなかつた人でございます。いやな時には自分が泣いてしまへばすむといつてをりました。で、普段どういふ人であつたかといはれると困るので、それほど際(きわ)のない人であつたのです。それともはたから見たらばどう見えたのか知れませんが、家の者にはさうは思へませんでした。癖といつても別になかつたやうですが、唯、姉は子供の時からよく鼻が出さうな気がして、絶えず鼻の処に手を合ててゐたのが癖とでもいへませうか。食物も小食で、又苦しい時でも苦しい顔をみせず、まあ耐忍カがつよかつたとでも申しませうか。それに自分で何でもせねばならぬといふことを強く感じてゐたらしく、もし親が先に目でもさまして働いてゐれば申訳なかつたといふ方でした。善いこともできませんでしたが、善いことはやらねばならぬと考へてゐたらしいのです。自分が生意気といはれてはならぬ、差出てはならぬといふことを生涯つとめてゐたやうに思はれます。大変えらい方でもわるいことがあつては何もならぬ故、自分は悪いことはないやうにと努めてをつたので御座いませう。
原稿を書きます様になりましてからは、家内も母と姉と私の三人でございますし、お稽古にいらつしやる方も週に一度乃至二度で御座いましたから、割合に暇があつたのです。が、それ迄はすゝぎや賃仕事は一生懸命にしましたが、人の半分しかできませんでした。それは目が近くて、並の人の三倍もかゝる為もありましたでせうが、自分でも自分の不得手なことは知つてゐたやうで御座います。
山梨の甲陽新報へ「経づくゑ」が出たのは、私どもでお世話して居りました方か大学の選科を出て、あそこの記者になられた為、何か原稿をといふので送りましたのです。ところが出るか出るかと思つても中々でない。出た新聞が来ました時は大喜びで御座いました。そんなことで喜んだ位でしたかと高島さんは仰有いましたが、姉にとつては自分の書いたものが活版になることはどんなに驚きであつたでせう。後々皆様がほめて下さる。それを拝見する度に恐ろしいやうに思つてゐました。たとへ今はほめられても今後のことをおもふと恐ろしいと思つたのでせう。斎藤緑雨さんがおいでになつてから、殊更恐れを持つたやうでした。も少し大胆になれは余程よかつたので御座いませうが、何分世間馴れぬし、又自分がカおよばぬとて大変心配して居りました。も少し世のことがよくわかる様になつてから書いたらば、もつと楽にかけたのではないかと今おもつてもそれだけ残念です。最近皆様の立派なのが出るのを見ましても生きてゐて勉強してゐたらばとも思ひますが、一方からいへば、かやうな時代の変化を、あゝいふ偏屈な頭で小さく考へてゐましたらば、今まで到底生きてゐられやうとも思へません。あれこれどつちがどうと一概にはいへまいかと思ふので御座います。(文責在記者)
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