一葉女史と当時の歌壇の回顧
佐佐木信綱
一葉女史が女歌人としてもすぐれてをつたこと、和歌が女史の小説の素地をなしたこと等は、さきに(大正元年十一月)女史が十七回忌のをりに、女史の令妹樋口邦子ぬしの嘱をうけて、自分が選んだ一葉歌集の序にしるしたことであつた。今年ははやくも二十七回忌をむかへ、女史の建碑も成つた、について{*1}、自分は女史が専ら歌に親しまれた明治二十年頃の歌壇の回顧と、当時の女史の面影に就いて語らうと思ふ。
新しい歌の未だ生れなかつた明治二十年ごろの歌人のおもなる人としては高崎正風、黒田清綱、間嶋冬道、小出粲、伊東祐命、松波資之、海上胤平、鈴木重嶺、橘道守、わが先考弘綱{*2}、女流では税所敦子、小池道子、鶴久子、中島歌子、大野定子、松の門三艸子の数氏をかぞへ得る。上記のうち、高崎、間島、小出、伊東四氏はいはゆる御歌所派で、税所{*3}、小池の二氏は宮廷の女歌人であつた。黒田氏は高崎氏と郷国及歌の師を同じうしたが、歌風其他に於いて相容れぬところがあつて、別に滝園社を興した。松波氏は、同じく桂園の流を汲みつつ、隠遁的の立場にをり、海上氏はひたすら御歌所を攻撃して一派をなしてをつた。民間歌人としては、自余の人かあつた。鈴木氏は幕末の佐渡奉行をつとめた人、翠園と号した。橘氏は守部の孫で、祖父の遺稿の刊行につとめた人、鶴氏は江戸の歌人蜂谷光世の未亡人、大野、松の門の二氏は井上文雄の門人{*4}、中嶋氏は伊東氏と同じく加藤千浪の門人であつた。これらの民間歌人は、毎月例会を催し、一月の発会{*5}、十二月の納会には互に往来した。自分は幼少ながら父の代りに{*6}、また自分の修行にとこゝかしこの会に出たので、当時の歌人や歌会についても種々見聞したが、今は一葉女史の師なる萩園中嶋氏の歌会に就いて語らう。
中嶋氏は、小石川の安藤坂が今のやうに道幅が広くならなかつた頃、坂をのぼりきらうとする右側に門があつて、毎月九日の歌会の日には、数台の車が門前に待つてをつた。坐敷の床には、真淵翁の考案に成つた人麿の画像がよくかかつてをつた。はじめは伊東氏、同氏の歿後には、小出氏が競点の点者や歌合の判者をし、時としては、三田葆光、加藤安彦、梅村宣雄氏などが合点した。披講は加藤氏が美くしい声で講じた。出席者は、もとより男子は多くなかつた。女弟子の中で自分の記憶にのこつてゐるのは、年の順にいふと、田中みの子、天野滝子(天野博士夫人)、田辺竜子(三宅花圃女史)、樋口夏子(一葉女史)、伊東夏子(田辺夫人)、鳥尾広子(日野西夫人)氏等であつた{*7}。中でも花圃女史は名門の女であり、幼くから歌に秀でてをられたので名高く、樋口{*8}、伊東の二氏は、人々が当時両夏子と呼んだ才女であつた。会の日には、一葉女史は次の間で机の前に座つて.当座の探題をこしらへたり、競点の歌のあつまつたのを清書などして、師を助けてをられ、披講のはじまる頃から席上に出て、つゝましやかに人々と話などをしてをられた面影が、今もまざまざと目に浮ぶ。
当時女歌人中では、中嶋{*9}、鶴の二氏が並べ称せられて居たが{*10}、鶴氏の会には、いはゆる下町のよい人々が多く、中嶋氏の会には、貴族もしくは中流以上の士女が多かつた。一葉女史が、さる雰囲気の中で{*11}、しかも因襲的な作風にひたりつゝ、そを打破しようとしたまことの歌、当時に於いて新しい歌といひつべき作をこの短い生涯にのこして、明治の女作家の第一人者であるとともに、明治の和歌史上にも足跡を印されたことは、偉とせねばならぬとおもふ。(談話筆記)
「心の花」第二十六巻十二号(大正11年(1922年)12月)所載
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校訂者注
1:底本のまま。
2:底本は「わが先考弘綱女流では」。脱と見て読点を補った。
3:底本は「税所小池」。読みやすくする意図で修正。
4:底本は「大野松の門二氏」。読みやすくする意図で修正。
5:底本は「一月の発会十二月の納会」。脱と見て読点を補った。
6:底本は「り」の字がカスレて不鮮明。
7:底本は「樋口夏子、(一葉女史)伊東夏子、(田辺夫人)、島尾広子、(日野西夫人)氏等」。誤植と見て読点を加除した。
8:底本は「樋口伊東二氏」。読みやすくする意図で修正。
9:底本は「中嶋鶴」。読みやすくする意図で修正。
10:底本のまま。
11:「雰」は雨冠でなく国構え。文字がテキストになく代用した。
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