こんくわい
▲狐[次第][上]「われは化(ばけ)たと思へども。われは化たと思へども。人は何とか思ふらん。
是は此所に住居(すまゐ)仕る。古狐のこつちやう。去程に。此山の彼方(あなた)に。猟師の候。我等の一門を。釣平(つりたひら)げる事にて候。何とぞして。彼が釣らぬやうにと思ひ。則彼がをぢ坊主に。白蔵主(はくぞうす)と申して御ざる程に。これに化て参つて。意見を加へ。殺生の道を思ひ止まらせうと存ずる事で御ざる。何と。白蔵主に好(よ)う似たか知らぬまでい。先づ水鏡を見ませう。(茲にて水鏡を見て。笑ふ。)あはゝ。はア。扨も扨も。似た事かな。まづ。彼が所へ急いで参らう。いや。急ぐ程に早これぢや。物も。甥子内におゐやるか。
是は此所に住居(すまゐ)仕る。古狐のこつちやう。去程に。此山の彼方(あなた)に。猟師の候。我等の一門を。釣平(つりたひら)げる事にて候。何とぞして。彼が釣らぬやうにと思ひ。則彼がをぢ坊主に。白蔵主(はくぞうす)と申して御ざる程に。これに化て参つて。意見を加へ。殺生の道を思ひ止まらせうと存ずる事で御ざる。何と。白蔵主に好(よ)う似たか知らぬまでい。先づ水鏡を見ませう。(茲にて水鏡を見て。笑ふ。)あはゝ。はア。扨も扨も。似た事かな。まづ。彼が所へ急いで参らう。いや。急ぐ程に早これぢや。物も。甥子内におゐやるか。
▲をひ「いや。をぢの御坊の声がするが。物もは誰(た)ぞ。いゑこゝな。何と思召て。御出なされたぞ。
▲きつね「さればされば。此中(うち)は久(ひさし)く逢はいで。懐かしさに参つたが。何事もおぢやらぬか。
▲をひ「然(さ)れば然(さ)れば。誠に此中は。手前取紛れまして。御見舞も申さず。無沙汰致して御ざる。まづ御息災で。芽出たうこそ御ざれ。いざ内へ這入らしやれませい。
▲きつね「おう。はや内へも這入りませう。其方(そなた)に意見の為(し)たい事が有つて。是迄参つておぢやるが。聴きやらうか。聴きやるまいか。
▲をひ「いや。をぢの御坊様の意見を。聴かぬと事が御ざらうか。何事なり共聞きませう{*1}。
▲きつね「はア。おう。嬉しい。汝(そなた)は。狐を釣りやるといふ事を聞いたが。誠かいの。
▲をひ「いやいや。左様の物を。釣つた事は御ざらぬ。
▲きつね「いやいや。な御隠しやつそ。殊に。狐などゝいふ物は。執心深い物で。其まゝあたん(仇)を為すものでおぢやる。其上狐に就(つけ)て。とつと仔細の有る事でおぢやる。事大事のことでおぢやる程に。必(かならず)必。お止(とま)りやれ。
▲をひ「何しに偽申さうぞ。左様の狐を釣ると事は。なかなか。思ひもよらぬ事で御ざる。
▲きつね「よいよい。意見の聞くまいといふ事でおぢやろ。此上からは。甥を持たとも思はぬ。ふつふつと。中違(なかたがひ)でおぢやる。然(さ)らば然らば。罷帰る。
▲をひ「申々。まづ戻らしやれい。
▲きつね「厭ていは厭ていは。
▲をひ「平(ひら)に帰らつしやれい。此上は。何を隠しませうぞ。狐を釣りまするが。をぢの御坊の御意見に任せて。ふつふつと。止まりませう。
▲きつね「確(しか)とさうでおぢやるか。
▲をひ「はて。何の嘘をいひませうぞ。
▲きつね「おゝ。嬉しい。是も其方(そなた)の為ぢやぞや。夫に就て。狐の執心深い謂(いはれ)を。語つて聞かせう。
[語り]。抑(そもそも)狐と申すは。皆神(しん)にておはします。天竺にては。斑足太子の塚の神。大唐にては。幽王の后と現じ。我朝(わがてう)にては。稲荷五社の大明神にておはします。昔鳥羽院の御代の時。清涼殿にて。御歌合の御会(ごくわい)のありし時。ゑいその如くなる大風(おほかぜ)吹き来り。御前なる。四十二の灯火(ともしび)。一度にはらはらばつと吹き消しければ。東西俄に暗うなる。御門(みかど)不思議に思召。博士を召し占はせられ玉へば。安部の泰成参り申上るは。是は変化(へんげ)のものなり。祷(いの)らせいとありければ。承ると申。四方に四面の檀をかざり{*2}。五色(しき)の幣(ぬさ)をたて。祷らせらるゝ。玉藻の前はこれを見て。御前に堪兼(たまりかね)。御幣(ごへい)を一本おつとり。下野国那須野の原へ落て行く。疎略(おろそか)にしては叶はじと。上総介。三浦介に仰付けらるゝ。其後(のち)両人御請(おんうけ)を申。那須野の原へ下着す。四方を取巻き。百疋の犬を入れ。遠見撿見(けんみ)を立て。呼ばゝる。遠見申やう。胴は七尋(ひろ)。尾は九尋の狐にてありしが。囲(まはり)八丁おもてへ見ゆると。なう。おそろしい事の。其時三浦の大助(おほすけ)がひやうと射る。次の矢を上総の介がひやうと射た。彼(か)の狐を。終に射止(とめ)た其執心が大石(たいせき)となつて。空を翔(かく)る翼。地を走る獣(けだもの){*3}。人間を取ること数を知らず。斯様の恐しき獣などを。わごりよ達賤(いやし)き分にて。釣り括る事。勿体無い事。かまいて思ひ止らしませ。
[語り]。抑(そもそも)狐と申すは。皆神(しん)にておはします。天竺にては。斑足太子の塚の神。大唐にては。幽王の后と現じ。我朝(わがてう)にては。稲荷五社の大明神にておはします。昔鳥羽院の御代の時。清涼殿にて。御歌合の御会(ごくわい)のありし時。ゑいその如くなる大風(おほかぜ)吹き来り。御前なる。四十二の灯火(ともしび)。一度にはらはらばつと吹き消しければ。東西俄に暗うなる。御門(みかど)不思議に思召。博士を召し占はせられ玉へば。安部の泰成参り申上るは。是は変化(へんげ)のものなり。祷(いの)らせいとありければ。承ると申。四方に四面の檀をかざり{*2}。五色(しき)の幣(ぬさ)をたて。祷らせらるゝ。玉藻の前はこれを見て。御前に堪兼(たまりかね)。御幣(ごへい)を一本おつとり。下野国那須野の原へ落て行く。疎略(おろそか)にしては叶はじと。上総介。三浦介に仰付けらるゝ。其後(のち)両人御請(おんうけ)を申。那須野の原へ下着す。四方を取巻き。百疋の犬を入れ。遠見撿見(けんみ)を立て。呼ばゝる。遠見申やう。胴は七尋(ひろ)。尾は九尋の狐にてありしが。囲(まはり)八丁おもてへ見ゆると。なう。おそろしい事の。其時三浦の大助(おほすけ)がひやうと射る。次の矢を上総の介がひやうと射た。彼(か)の狐を。終に射止(とめ)た其執心が大石(たいせき)となつて。空を翔(かく)る翼。地を走る獣(けだもの){*3}。人間を取ること数を知らず。斯様の恐しき獣などを。わごりよ達賤(いやし)き分にて。釣り括る事。勿体無い事。かまいて思ひ止らしませ。
▲をひ「はて扨。狐と申ものは。執心深ひもので御ざりまする。愈(いよいよ)止りませう。
▲きつね「おうおう。嬉しうおぢやる。其狐を釣る物を。少(ちつと)見たいの。
▲をひ「易い事。御目にかけませう。之で御ざりまする。(狐の罠を見せる)
▲きつね「はい。こゝな人は。此尊(たつとい)出家の鼻の先へ。穢(むさい)物を突着(つきつ)きやる。其竹の先なは何ぞ。
▲をひ「之は鼠の油揚で御ざる。此かざ(香)を嗅(かぎ)ますると。狐どのが。食ひにかゝられまする所を。此罠でひつしめて。皮をひつたくりまするが。甚(いかう)気味の好いもので御ざる。
▲きつね「こゝな人は。未(まだ)其つれをいふかの。其縄を捨てゝわたい。
▲をひ「畏つた。捨ませう。
▲きつね「いや。愚僧がこれに居る内に。前な河へ流しておぢやれ。気味の悪い物気味の悪い物。
▲をひ「畏つた。いやいや。何と云はれても。狐を釣り止(や)む事はなるまい。まづ此処もとに罠を張て置きませう。申々。最前の罠を。河へ流しまして御ざる。
▲きつね「おうおう。一だん一だん。意見の聴かれて。嬉しうおぢやる。何なりとも用の事が有らば。寺へいふてわたい。銭でも米でも。用にたちませう。
▲をひ「辱なう御ざりまする{*4}。御無心申までゝ御座らう。
▲きつね「然(さ)らば然らば。も。斯う帰りまする。
▲をひ「はて。御茶でもまゐりませいで。
▲きつね「又頓(やがて)参りませう。然らば。
▲をひ「よう御ざりました。
▲きつね「おうおう。扨も扨も。人間と云ふものはあどないものぢや。をぢ坊主に化けて意見をしたれば。まんまと騙されて御ざる。此上は天下は我物ぢや。小歌節でいのう。
[踊節]。いのやれふるつかへ。あしなかを。つまだてゝ{*5}。
(こゝにて罠を見付(みつけ)て胆(きも)をつぶして)はい。はつ。扨も扨も。人間といふものは。賢いものぢや。身共が戻る道中(みちなか)に。まんまと張つて置いた。様子を見ませう。いゑ。旨臭(うまくさ)や旨臭や。一口食はうか。や。此鼠は。親祖父(おほぢ)の敵(かたき)ぢや。一撃々(ひとうちう)つて食はう。
[節]。[ハル]うたれてねずみ。音(ね)をぞなく。我には晴るゝ胸のけぶり。こん[ハル]くわいの涙。[下]なるぞ。悲しき。くわい。
(中入)(鼓座(つゞみざ)へとび入る)
[踊節]。いのやれふるつかへ。あしなかを。つまだてゝ{*5}。
(こゝにて罠を見付(みつけ)て胆(きも)をつぶして)はい。はつ。扨も扨も。人間といふものは。賢いものぢや。身共が戻る道中(みちなか)に。まんまと張つて置いた。様子を見ませう。いゑ。旨臭(うまくさ)や旨臭や。一口食はうか。や。此鼠は。親祖父(おほぢ)の敵(かたき)ぢや。一撃々(ひとうちう)つて食はう。
[節]。[ハル]うたれてねずみ。音(ね)をぞなく。我には晴るゝ胸のけぶり。こん[ハル]くわいの涙。[下]なるぞ。悲しき。くわい。
(中入)(鼓座(つゞみざ)へとび入る)
▲をひ「をぢ坊主の意見を。聴かうとは申たが。狐を釣らずには居る事はなるまい。罠を張つて。狐を釣りませう。(舞台のまんなか。向うの方(かた)に罠を張る)
▲きつね(出(いづ)る)「くわい。
(はし懸り。又は鼓座よりも出る。舞台のさきへ這ふて出で。罠を見て其後(のち)。人の居るか居ぬかを思ふて見廻し。てこにて立(たつ)て。腹鼓。種々(いろいろ)の曲をして。罠のうへを飛越し。手足にていろひ飛びかへり。又は横飛{*6}。色々の曲。口伝あり。其後罠に掛つてなく。)
くわいくわい。
(はし懸り。又は鼓座よりも出る。舞台のさきへ這ふて出で。罠を見て其後(のち)。人の居るか居ぬかを思ふて見廻し。てこにて立(たつ)て。腹鼓。種々(いろいろ)の曲をして。罠のうへを飛越し。手足にていろひ飛びかへり。又は横飛{*6}。色々の曲。口伝あり。其後罠に掛つてなく。)
くわいくわい。
▲をひ「さ。掛つたわ。
▲きつね「くわいくわいくわい。
▲をひ「どつこい。やるまいぞ。
▲きつね「くわいくわい。
▲をひ「どこへどこへ。
▲きつね「くわいくわい。
校訂者注
1:底本に句点はない。
2:底本のまま。
3:底本は「地を走り獣」。
4:底本は「辱なう御ざりますれ」。
5・6:底本に句点はない。
コメント