悪坊(あくぼう)
▲僧「罷出たるは。西近江から。東近江まで。所用あつて参りまする。愚僧で御座る。左様に御座れば。日和の好いに傘(からかさ)を担(かた)げたは。不思議に思召さう。出家に傘は似合(にやう)た物さうに御ざる。先づ徐(そろ)々参らう。
▲悪坊「なうなう御坊。何方(どれ)から何方へ行かします。
▲僧「いや。私が事で御ざるか。
▲悪坊「中々。
▲僧「いや。西近江から東近江へ参ります。
▲悪坊「某(それがし)も参る程に。同道申さう。
▲僧「いや。御前(おまへ)を見ますれば。お侍さうに御ざる。身共は坊主の義で御座れば。似合ぬ連で御ざる程に。先づ某は先へ参りませう。
▲悪坊「確(しか)として道連になるまいといふ事でおぢやるか。
▲僧「いや。左様では御ざりませぬ。似合ぬやうに御ざるにより。斯様(かやう)に申す。
▲悪坊「いやいや。其儀でおぢやるならば。出家侍といふて。いかにも親しうせいで叶はぬものでおぢやる程に。どうぢやあらうと儘よ{*1}。同道申さう。
▲僧「其儀で御ざりませうならば。先へ御ざりませい。
▲悪坊「いやいや。出家を供に連れると云ふ事は無い。其方先へおぢやれ。
▲僧「は。それなら参りまする。御ざりませい。
▲悪坊「なうなう御坊。さる御方(おかた)で酒を飲うだが。我(おれ)は酔はぬと思へども。歩かれぬ程に。手を引いておくりやれ。
▲僧「いやはや。手は引きませうが。其長刀が甚(いかう)危険(あぶなう)御ざりまする。
▲悪坊「ふん。杖についたが危険おぢやるか。持ちやうがおぢやろ。斯(か)うでは何とおぢやる。
▲僧「は。いやはや。それでは気遣も御ざりませぬ。
▲悪坊「御坊。かいこうだ長刀の出様(でやう)は。早からうか。遅からうか。
▲僧「何と御ざりませうぞ。
▲悪坊「手を離しやれ{*2}。一手使ふて見せう。
▲僧「は。いや。措(を)かしやれませう。
▲悪坊「はて。離しやれてや。
▲僧「はゝ。
▲悪坊「御坊。して。今のさへ(差)やうが面白うおぢやる。其傘の切口を見せう。
▲僧「はて。置かつしやれませい。
▲悪坊「あゝ。使はうとは思へ共。酒に酔うたによつて。脛(すね)がながれて使はれぬ。是では行かれまい程に。少(ちと)此処(このところ)にまどろも。御坊此小袖を。跡へ打掛けて。腰を打つてくりやれ。
▲僧「あ。
▲悪坊「やい其処な坊主。今のは何といやな打(うち)やうぢや。汝(おのれ)坊主で無くば。首をはねうずれども許す。扨疾々(とくとく)と打居(うちを)れ。
▲僧「あ。扨も嬉しい事が御ざる。まんまんと寝入らせました。扨々憎い奴かな。何と致した物で御ざらう{*3}。あゝ。思ひ付けた事が御ざる。先づ此長刀を。此方(こち)へ取りませう。おのれ代りに傘を呉(くれ)るぞ。はゝ。先づ。刃物は取ました。まだ刀が有る程に。これも取りませうず。さア取つたぞ。さ。代りにはぢよろをやるぞ。序に小袖も取らうぞ。さ。代りには。衣(ころも)を呉るぞ。此様(このやう)な仕合せの好い折には。早う先づ。退(のい)たが好う御ざる。
▲悪坊「ゑゝあゝ。扨も扨も。甚寝た事かな。茶を一杯おこせい。いや内かと思へば。様子が違うたわ。野中(のなか)に寝て居た。長刀は何処へいた。これはいかな事。傘が有る。刀は何処へいた。これはいかな事。此も無いわ。是りや何じや知らぬ。待てい。はて。可笑い物が有るが。あゝ。是は禅僧の持たせらるゝくふひんぶつ。なと(何ぞ)の有(ある)時に。から頤(おとがひ)に当てゝ。案じばしらのぢよろといふ物ぢや。小袖はどこへいた。こりや何ぢや。衣ぢや。はて合点のいかぬ物ぢや。あゝ。思ひ付(つけ)た。甚(いかう)路次で出家をとらまへて。悩めたが。某が悪(あく)をつくるをば。憫(あはれ)に思召し。釈迦か達磨の。心を和(やはら)げんが為に。斯様に遊ばしたと見えた。仰(おほせ)の教(をしへ)にまかせて。発心の起しませう。
[謡]思ひよらずの遯世(とんせい)や。小袖にかへし。衣を着。刀にかへし。ぢよろを差し。長刀にかへし。傘を担げて{*4}。頭陀にいぢよやう。頭陀にいぢよやう。
行脚の僧にはち(鉢)を。いれさつしやれい。はつちはつち。
[謡]思ひよらずの遯世(とんせい)や。小袖にかへし。衣を着。刀にかへし。ぢよろを差し。長刀にかへし。傘を担げて{*4}。頭陀にいぢよやう。頭陀にいぢよやう。
行脚の僧にはち(鉢)を。いれさつしやれい。はつちはつち。
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