釣(つ)り女(をんな)
▲殿「冠者(くわじや)居たか。
▲冠者「はつ。御前に。
▲殿「汝が知る如く。此年まで定まる妻が無い義ぢや。承れば、西宮(にしのみや)の恵比寿三郎九郎殿は。げんぷく者(しや)と承る。これへ参り。妻を申受けうと思ふ。汝供を仕(つかまつ)れ。
▲冠者「誠に仰せらるれば左様で御ざる。西の宮のきびす三郎殿は。げんぶく者で御ざる。是へ参らつしやれて。定まる妻を申受けさつしやれたらば好う御ざる。幸私も。此年まで定まる妻が御ざらぬ。序ながら申受けませう。急いで御ざりませい。
▲殿「はつて汝(おのれ)は。卒爾な事をいふ者ぢや。恵比寿三郎殿とこそいへ。何処にかきびす三郎殿といふものぢや。
▲冠者「殿様は何にも知らしやれませぬ。絵に書いた折はゑびす三郎殿。木で作つた折にはきびす三郎殿{*1}。彼(あ)の西の宮のは木で作りました所で。それできびす三郎殿と申(まをし)まする。
▲殿「あゝ。甚(いかい)物知りでおぢやるよ。それは兎(と)もあれ。急いで参らう程に。供を仕れ。
▲冠者「畏つて御ざる。
▲殿「やいやい。身は不知(ふち)案内程に。道すがら。名所旧跡どもを語れ。
▲冠者「先づ。茲処(こゝ)が山崎で御ざる。
▲殿「誠に聞き及うだよりは名所さうな。
▲冠者「はや茲処が尼ヶ崎。彼(あ)れに見えるが西の宮で御ざる。
▲殿「はア。甚(いかう)早やう来たな。向うの山は何山ぢや。
▲冠者「はつ。彼れは山で御ざりまする。
▲殿「こゝな奴は。山は山ぢやが何山ぞ。
▲冠者「はて。何山は山で御ざる。
▲殿「扨は名を知らぬと見えた。
▲冠者「いや。名は覚えました。淡路の島山漕ぎ来る船はおもしろやで御ざる。
▲殿「はて。長い名ぢやな。して西の宮はまだか。
▲冠者「最早(もはや)。此の森の内で御ざる。
▲殿「然(さ)らばお前へ参詣(まゐ)ろ。手水(てうづ)手水。
▲冠者「はつ。
▲殿「先(ま)づ。鰐口取り付かう。ぢやぐわんぢやぐわん。いかに申上候。是まで参る事余の義にあらず。此年までに。定まる妻を持ちませぬ。恵比寿三郎殿のおかげに依り。定まる妻を授けて下されい。あら。尊とや尊とや。やい。太郎冠者。汝も拝め。
▲冠者「畏つて御ざる。ぢやぐわんくわん。いかに。きびす三郎殿へ申候。私も定まる妻を持ちませぬ。私に似合(にあひ)ました妻を授けて下されませい。あら尊とあら尊と。
▲殿「やい太郎冠者。二夜三日通夜をせう。汝もまどろめ。
▲冠者「畏つて御ざる。
▲殿「やい太郎冠者。早や御告げがあつた。汝が妻になる者は。西門(せいもん)の一の石階(きざはし)に在(あ)らう程に。連れて帰れと仰せられた。難有い事な。
▲冠者「是はいかな事。私がお告げも。少しも違ひませぬ。いざ御座れ。西門へ参ろ。
▲殿「早やう来い早やう来い。是はいかな事。妻では無うて。何やら竹の先に縄が付けて有る。不思議な事では無いか。
▲冠者「あゝ。合点で御ざる。殿様の。其年して女房狂ひはいらざる程に。此縄で首括(くく)つて。死なつしやれいておつしやる事で御ざる。
▲殿「茲(こゝ)な戯(たは)け奴(め)は。何事を云ふぞ。某(それがし)悟つた。さうベつ三郎殿は。何にても欲しい物は。釣針にて釣らせらるゝと承る。此は釣針であらう。此にて釣れとおつしやる事ぢやあらう。汝急いで釣れ。
▲冠者「はア。誠に。好い悟りで御ざる。然らば釣つて見ませう。ゑい。
[囃言]。釣ろよ釣ろよ。御かつさま釣ろよ。
申(まをし)々。掛(かゝ)りさうに御ざるが。年頃は何歳(いくつ)ばかりなを釣りませうぞ。
[囃言]。釣ろよ釣ろよ。御かつさま釣ろよ。
申(まをし)々。掛(かゝ)りさうに御ざるが。年頃は何歳(いくつ)ばかりなを釣りませうぞ。
▲殿「はて。茲な奴めは。彼方(あなた)次第にして釣れ。
▲冠者「それならば。殿様のは五十年。私のは十七八のを釣りませう。
▲殿「いはれざる事を云はうより。三郎殿次第にして釣れ。
▲冠者「畏つた。ゑい。
[囃言]。釣ろよ釣ろよ。おかつさまつろ。下女添へて釣ろよ。十七八を釣ろうよ。
ありや。掛つたわ掛つたわ。殿様殿様。掛り事は掛つたが{*2}。何としませう。
[囃言]。釣ろよ釣ろよ。おかつさまつろ。下女添へて釣ろよ。十七八を釣ろうよ。
ありや。掛つたわ掛つたわ。殿様殿様。掛り事は掛つたが{*2}。何としませう。
▲殿「いや。輿乗物と云ふても俄になるまい。各々(めんめん)の脊(せなか)に負ふて行(い)なう{*3}。
▲冠者「それが好う御ざろ。然らば。対面さつしやれい。定(さだめ)て先なはおかつさま。後なは下女で御ざろ。各々(めんめん)に対面致さう。
▲殿「やい太郎冠者。汝は先へ連れて行ね。身は後から行のう程に饗応(ふるまひ)の用意をして置け。
▲冠者「畏つて御ざる{*4}。いかに申(まをし)まする。こなたと私とは。一期末代。しよたいがせんぢやぞや。此被衣(かつぎ)を脱(と)らつしやれい。対面致さう。
▲下女「いやいや。
▲冠者「てんときこえぬ。此上からは。恥かしい事も御ざるまい。是非共被衣脱つて。対面致さう。あはゝ。恥かしいが道理道理。私さへ恥かしう御ざる。いざ御ざれ。負ふて行にませう。殿様々々。先へ参つて。作(こしら)へまする。早やう御ざれ。
▲殿「太郎冠者奴(め)が喜ぶが道理々々。某も対面致さう。此被衣を脱らつしやれい。
▲上臈「いやいや。
▲殿「いやといふ事はあるまい。是非共脱らつしやれい。是はいかな事。其方(そなた)はおみこせか。あら可恐(こは)やなう。
▲上臈{*5}「こはいと云ふ事があるものか。やるまいやるまい。
▲殿「三郎殿もきこえぬ人ぢや。やいやい。太郎冠者。おかつさまが変つたわ。其方(そち)のを此方(こつち)へ返(かや)せ。
▲上臈「返せといふ事はあるまい。
▲殿「なう。おそろしや。
▲上臈「やるまいぞやるまいぞ。
校訂者注
1:底本は「木て作つた」。
2:底本のまま。
3:底本は「名々(めんめん)の」。
4:底本は「畏てつ御ざる」。
5:底本は「上藹」。
コメント