あかゞり

▲殿「罷出たるは。此辺(このあたり)の者で御ざる。左様に御ざれば。或方(さるかた)よりも。お茶を下されうと御座る程に。のさものをよびいだし。申(まをし)つけうと存ずる。在るかやい。
▲冠者「はつ。
▲殿「誰かある。
▲冠者「お前に。
▲殿「念無う早かつた。汝を喚び出すは余の義でない。さるお方よりも。お茶を下されうとある程に。従(とも)の用意を致しませい。
▲冠者「最早(もはや)致して御ざる。
▲殿「一段ういやつぢや。来いこいやい。いづれもの使はさる者共は。茶の湯などゝあれば。掃除に気をつくるといふが。汝は左様の事はなるまいな。
▲冠者「いやはや。殿様にも。せつせつ数寄を遊ばされまする。ならば倥(ぬか)りは致しますまい。
▲殿「おう。それよそれよ。やい。是はいつなれぬ処に。甚(いかい)大水が出たな。
▲冠者「はゝ。上(かみ)が降つたもので御ざりませう。殊の外な洪水で御ざる。
▲殿「やい。急いで負ひ越せ。
▲冠者「お前負ひまする事はさて置いて。身共一人もえ渡りますまい。
▲殿「何故(なぜ)に左様に申ぞ。
▲冠者「其お事で御ざりまする。慮外な義で御ざりますれども。皸(あかゞり)が御ざりまする所で。そつとも水の中へはえ這入(はいり)ませぬ。
▲殿「いやいや。皸などには。水がかゝれば。殊の外柔らいで好いといふ沙汰を聞いた程に。急いで負ひませ。
▲冠者「いや。人のは然(さ)う御ざつても。身共のは少(すこし)なりとも水がかゝりますると、六根へこたへて。疼(うづき)まする。唯今お手討になると申(まをし)ても。え渡りますまい。
▲殿「何ぢや。手討になるとも。え渡るまい。
▲冠者「はつ。
▲殿「それに待居ろ。やれ扨。彼奴(きやつ)めは常に。横道者(わうだうもの)で御ざる程に。又かれいの形(かた)を申すもので御ざろ。ならぬ事を申付けうと存ずる。やい冠者。確(しか)とえ渡るまいな。
▲冠者「はつ。
▲殿「いや。其義ならば。某(それがし)が負ひこう(越さう)わいやい。
▲冠者「是は又慮外な事で御ざりまする。
▲殿「いやいや。苦しう無い事が有るぞ。歌を詠め。負うて渡そ。
▲冠者「いやはや。お歌は兎も角もで御ざりまする。殿様に負はれまするが。何共迷惑に御ざりまする。
▲殿「いや。歌だに詠めば。けうの歌人のうちじやに依(よつ)て。負うて苦しうない。急(いそい)で詠め。
▲冠者「然(さ)らば。少(ちと)案じませう。
▲殿「何程(いかほど)も案じよ。
▲冠者「はア。斯うも御ざりませうか。
▲殿「早(はや)出てあるか。
▲冠者「は。
▲殿「何と。
▲冠者「あかゞりも。春は越路に帰れかし。冬こそあしの。もとに住むとも。と致して御ざる。
▲殿「おう。一段出来(でけ)た。も一句急いで詠め。
▲冠者「いや。最前さへ汗かきまして御ざる。
▲殿「いやいや。其方(そち)が口では。汗かく口では無い。急いで詠め。
▲冠者「斯うも御ざりませうか。
▲殿「何と。
▲冠者「あかゞりは。弥生の末のほとゝぎす。うづきわたりて。ねをのみぞなく。と致して御ざる。
▲殿「おう。一段でかした。急いで負はれ。はゝ。これは何とする。
▲冠者「いや。戴きまする。
▲殿「許すといふのに。負はれ居ろ。
▲冠者「畏つて御ざる。申(まをし)々殿様。あゝ。いや。深さうに御ざりまする。上(かみ)か下(しも)かへ廻らしやれませい。
▲殿「気遣(きづかひ)んはすな{*2}。覚えがあるぞ。
▲冠者「はゝ危険(あぶな)うござります。
▲殿「やい冠者。此川中で。ま一句聞きたうおぢやる。
▲冠者「いや。先(ま)づ。向(むかふ)へ越さつしやれませい。
▲殿「実正(じつしやう)詠むまいか。
▲冠者「あゝ申(まをし)々。詠みまする詠みまする。
▲殿「急いで詠め。
▲冠者「斯うも御ざりませうか。
▲殿「何と。
▲冠者「あかゞりは。恋の心にさも似たれ。ひゞにまさりて。思はれぞする。
▲殿「やい。冠者。句は出来たが{*3}。汝(おのれ)がやうなる慮外な奴は。此深い処で。先づ斯(かう)したがよい。
▲冠者「はゝ。南無三宝。爪先を濡らすまいとしたれば。項窩(ぼんのくぼ)まで濡れた。しなしたる姿(なり)かな。

底本:『狂言全集 上巻 狂言記』「巻の四 六 あかゞり

校訂者注
 1・2:底本のまま。
 3:底本に句点はない。