文山(ぶんざん)だち
▲源太夫「やるまいぞやるまいぞ。
▲長兵衛「やれやれやれ。やい其処な者。何故(なぜ)にやらなんだ{*1}。
▲源太夫「やれと云ふたに依つて。知音近づきにてもある事かと思ふて。助けてやつた。
▲長兵衛「やい其処な者。山賊(やまだち)の合言葉を知らぬか。彼(あ)の者が財宝たからを。取つてやれと云ふ事ぢや。
▲源「さうならさうとは云はいで。あれとつとゝ行くわ。
▲長「やい其処な者。往(い)なした者が行かいで何とせう。我がやうな者と同心すれば。何程(なんぼう)の損をするぢや知れぬ事ぢや。今からしては参り合はぬぞ。
▲源「やい其処な者。参り合ふまいなら参り合ふまいであらうず。何故(なぜ)に彼(あ)の槍は捨てたぞ。
▲長「いやあれ心が有つて捨てた。知らずは云ふて聞かせう。汝をば。あれで。うつと思ふて捨てた。
▲源「好う捨てたな。
▲長「やいやい。何故に又われは。弓矢を捨てたぞ。
▲源「汝をば。ふむと思ふて捨てた。
▲長「や。茲処(こゝ)な者は。踏まれて何と男がならうか。来い汝(おのれ)。
▲源「何ぢや。
▲長「やいやい。余り押すないやい。後は茨むろぢやわい。
▲源「死ぬる者が。茨むろが何の。こゝな。
▲長「やいやいやい。
▲源「何ぢや。
▲長「や。余り押すな。山の崖ぢやわい。
▲源「や。死ぬる人の崖がいろか。何と茲処(こゝ)な者は。
▲長「やい。
▲源「なんと。
▲長「お主(のし)と己と搏合(くみあふ)たぎせいは。ゑい(好い)ぎせいでは無いか。
▲源「おう。誠にをとこと有らうずる者には。煎じても吸はせたいせいでおぢやる{*2}。
▲長「やい其処な者。斯うして死ぬる手柄の様子をば{*3}。少(ちと)女子共(をなごども)に見せたいものぢや。
▲源「や。誠に。汝(おのし)が女(め)こ子どもといへば。思ひ出した事が有る。
▲長「何と。
▲源「斯うして死(しぬ)れば往(い)きくる者も。又は女(め)こ子共も。踏殺されて死んだといへば。名も惜しい事ぢや程に。いざ。書置(かきおき)をして死ぬまいか。
▲長「いや。是は一段の事であらうが。最早(もはや)此の躰(ざま)に成つてからは。如何(どう)も離されまいが。
▲源「いざ。三つ拍子で離さう。一(ひい)。二(ふう)。三(み)い。
▲長「やア。いざ此太刀の柄(つか)も三つ拍子で離しやれ。
▲源「三つ拍手までもいらぬ事。某(それがし)が方から離するざ。是へ寄らせませ。
▲長「なうなう其方(そなた)。して。硯は持たせましたか。
▲源「いや。某は持たぬ。
▲長「用意(たしなみ)の無い事でおぢやる。某は是(これ)に矢立を持つておぢやる。
▲源「したらばそれで書かせませ。
▲長「心得ておぢやる。扨文章は何と書かうの。
▲源「然(さ)れば。何と書いたものぢやあらうの。あゝ思ひ付けた。
▲長「何と。
▲長「何と。
▲源「便宜(びんぎ)ながらと書いては。
▲長「はれ。ひよんな事をおしやる。書置に。便宜などゝ書く事は有(ある)まい。某が心得て書かう。
▲源「一段でおぢやる。書かせませ。
▲長「書いておぢやるわ。
▲源「したらば。それで読ませませ。
▲長「心得ておぢやる。今朝かりそめに。家を出で。山(やま)だちしそんずるのみならず。結句傍輩(はうばい)と口論し。退(ひく)なよ。我も逃さじと。刀の柄に手をかくる。
▲源「心得ておぢやる。
▲長「やいやい。それは何事をする。
▲源「刀の柄に手を掛けいとは云はぬか。
▲長「や。是は文章ぢやわいやい。
▲源「さうなら然うとは云はいで。ゑい。肝を潰さした。
▲長「いざ。是へ寄らせませ。相読(あひよみ)せう。いざ。是へ寄らせませ。
▲源「心得ておぢやる。
▲二人[節]「此儘此処にて死するなら。上(のぼ)り下(くだ)りの旅人に。踏殺されたと思ふべしとて。書留(かきとめ)しみづぐきのあとに残れる女房や娘子供のほえん事。思ひやられて悲しやな。
▲源「いやはや。其方(そなた)の歎きやるも尤でおぢやる。某も名残惜しい事は山々でおぢやる。いざ。小(ちと)死ぬる身を延べないか{*4}。
▲長「是は一段でおぢやる。
▲源「如何程(いかほど)延びやうの。
▲長「いや。年の三年も延べまいか。
▲源「三年過ぐれば。又此如くでおぢやろの。
▲長「是も余り本意ない事でおぢやる程に。兎角。たゞ生きられ次第生きやう。
▲源「いや。是はゝや一段でおぢやる。
▲長「芽出度(めでたく)和歌をあげて帰らう。
▲源「心得ておぢやる。
▲二人[ふし]「思へばむようの死になりと。二人の者は中直り。手に手をとりて。わが宿に。いぬじにせでぞ帰りけり。
五百八十年芽出度(めでたう)おぢやる。おぢやらせませ。
五百八十年芽出度(めでたう)おぢやる。おぢやらせませ。
校訂者注
1:底本に句点はない。
2:底本のまま。
3:底本は「手抦(てがら)」。
4:底本のまま。
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