仁王(にわう)
シテ「是は此辺(このあたり)の者で御座る。某(それがし)身上(しんじやう)不如意に御座つて、渡世の営(いとなみ)がなりにくう御座るに依つて、先(ま)づ、他国致(いた)いて見ようと存じて罷出でた。夫(それ)に付いて、爰(こゝ)に別して御心易う御目を懸けさせられて下さるゝ御方が御座るほどに、御暇乞ながら、是へ立寄つて参り、もし又、よい御思案も御座らば、御差図(おさしづ)に任せ当所に足を止めう、と存ずる。先づ、急いで参らう。何と御宿に御座ればよう御座るが、常々御隙(おひま)なしで御座るに依つて、斯様(かやう)に態々(わざわざ)参つても、自然御留守なれば如何(いかゞ)で御座る。あはれ御宿に御座つて下されいかし、と存ずる。いや、参る程に、即ち是ぢや。物まう。案内まう。
アド「いや、表に物まうとある。案内とは誰そ。物まうとは。
シテ「私で御座る。
アド「いや誰、ようこそおりやつたれ。
シテ「此間は久々御見舞も申しませぬが。
アド「中々、変る事もない。して其方(そなた)は旅立の躰(てい)ぢやが、何方(いづかた)へ行かしますぞ。
シテ「されば、其御事で御座りまする。此方(こなた)へ申上ぐるも、近頃御恥かしう御座れども、殊の外身上不如意になりまして、最早(もはや)当所の住居(すまゐ)もなりませぬに依つて、他国を致さうと存じて、御暇乞に伺候致しまして御座る。唯今迄は何かと御目を懸けさせられて下されて、忝う存じまする。
アド「はて扨、夫(それ)は気の毒な事でおりやる。他国をせずとも、一挊(ひとかせぎ)かせいで見る様な分別はおりないか。
シテ「いや申し、方方(かたがた)をふさげましたに依つて、いづ方へも御無心申さう方も御座りませぬ。
アド「して又、他国をすれば、元づく事でもおりやるか。
シテ「いや、左様の事も御座りませぬが、不斗(ふと)思付(おもひつ)きましで御座る{*1}。
アド「はて扨、其方(そなた)は無分別な人ぢや。心当りもなうて、他国するといふ事がある物でおりやるか。
シテ「はあ。
アド「某(それがし)の聞いて、聞捨(きゝすて)にはならぬ。何卒(なにとぞ)しておませたい物ぢやが。
シテ「よい様に御分別なされて下されませい。
アド「なうなう、よい事を思出(おもひいだ)いた。我御科(わごれう)は、物真似抔(など)はならぬか。
シテ「物によつて真似ませうが、何の真似を致す事で御座る。
アド「仁王のまねはなるまいか。
シテ「あの楼門に立たせられた仁王の真似で御座るか。
アド「中々。
シテ「是は幸(さいはひ)、あたり近い楼門に仁王が御座つて、見覚えてをりまするに依つて、仁王の真似ならば致しませう。
アド「夫(それ)ならばよい事がある。其方(そなた)を仁王の躰(てい)に拵へ、扨、当処の上野へあらたな仁王が降(ふ)らせられた程に、いづれも参らせられい、と触れたならば、定(さだめ)て参詣が数多(あまた)あらう。
シテ「是は左様で御座りませう。
アド「其散物(さんもつ)を以て、元づく様(やう)にしたならばよからうが。是は何とおりやらうぞ。
シテ「是はよい事を思召出(おぼしめしいだ)されて忝う御座る。夫(それ)ならば、左様になされて下されませい。
アド「其儀ならば、是へおりやれ。仁王の躰(てい)に拵へておまさう。
シテ「心得て御座る。
アド「先(まづ)、此頭巾を着(つ)けさしませ。
シテ「心得ました。
アド「肩をぬがしませ。
シテ「心得て御座る。何とよう御座りまするか。
アド「大かた出来ておりやる。いざ上野へ同道致さう。さあ、おりやれおりやれ。
シテ「心得て御座る。いや申し、斯様(かやう)に何かと御世話をなされて下さるゝ様な大慶(たいけい)な事は御座りませぬ。
アド「いふ迄はなけれども、随分見顕(みあらは)されぬ様にさしませ。
シテ「其段は御気遣なされまするな。見あらはさるゝ事では御座りませぬ。
アド「いや、何かといふ内に、是ははや、上野へ参つた。どこ元がようおりやらうぞ。
シテ「されば、どこ元がよう御座りませうぞ。
アド「いや、爰許(こゝもと)がよからう。先(まづ)、是ヘ寄つて仁王の躰(てい)をさしませ。
シテ「心得て御座る。
アド「なうなう、其儘の仁王でおりやる。某はふれう程に、参詣を待たしませ。
シテ「心得まして御座る。
アド「やあやあ、皆々聞かせられい。当所の上野へ、新たな仁王の降らせられた程に志(こゝろざし)の輩(ともがら)は、皆々参らせられいや。
立頭「何(いづ)れも御座るか。
皆々「是にをりまする。
立頭「当所の上野へ、あらたな仁王のふらせられたと申すが、いづれも聞かせられて御座るか。
二ノ立衆「中々。承つて御座る。
立頭「夫ならば参詣致しませう。
皆々「よう御座らう。
立頭「さあさあ、御座れ御座れ。
皆々「心得て御座る。
立頭「仁王の降らせらるゝと申すは、珍らしい事で御座る。
二ノ立衆「仰せらるゝ通り、是は不思議な事で御座る。
シテ「最早(もはや)参詣がありさうな物ぢやが、いや、あれへ見ゆるは参詣さうな。急いで真似を致さう。
立頭「いや、何かと申す内に、是は早、上野へ参つて御座る。扨、どこ許(もと)に立たせられて御座るぞ。
二ノ立衆「されば、どこ元に立たせられて御座るぞ。
立頭「いや、申し申し、是に立たせられて御座る。
二ノ立衆「違ひもない是で御座る。
立頭「いざ拝みませう。
皆々「よう御座らう。
立頭「先(まづ)、散銭(さんせん)を上げさせられい。
皆々「心得ました。
立頭「いよいよ、息災延命に守らせ給へ。
二ノ立衆「富貴繁昌に守らせ給へ。
皆々「家内安全に守らせ給へ。
立頭「私には力を授けさせられて下されい。此刀を寄進に上げまする。
二ノ立衆「私は是を上げまする。
立頭「扨々、新たな仁王では御座らぬか。
二ノ立衆「実(まこと)、あらたな仁王で御座る。
立頭「いざ、下向致しませう。
皆々「よう御座らう。
立頭「何れもへ此由(このよし)を申して、参詣致さるゝ様に申しませう。
皆々「一段とよう御座らう。
立頭「さあさあ、御座れ御座れ。
皆々「心得て御座る。
シテ笑。「なうなう。嬉しやの嬉しやの。是は夥しい散物(さんもつ)で御座る。先(まづ)、急いで持つて参つて弘めませう。申し申し。御座りまするか。
アド「何事でおりやる。何と参詣はおりやつたか。
シテ「いや、夥しい参詣で御座つて、鳥目(てうもく)の事は申すに及ばず、此様な物迄寄進致されて御座る。
アド「はて扨、夫(それ)は仕合(しあはせ)な事ぢや。夫を持つて元づく様にさしませ。
シテ「何が扨、元づく様に致しませう。先(ま)づ、是をば此方(こなた)へ預けませう。
アド「中々、某の預(あづか)らう。
シテ「扨申し、私は今一度参りたう御座りまする。
アド「いやいや、最早(もはや)いらぬ物でおりやる。
シテ「御気遣なされまするな。見あらはさるる事では御座りませぬ程に、今一度遣(つかは)されて下されませい。
アド「いやいや、最早(もはや)無用にさしませ。
シテ「何卒(なにとぞ)、今一度遣されて下されませい。
アド「夫程(それほど)に思はしますならばいか様ともさしませ。
シテ「先(まづ)は近頃忝う存じまする。
アド「今度は独鈷を貸しておまさう。
シテ「夫は一入(しほ)忝う御座る。
アド「是を貸しておまさう程に、必(かならず)々見あらはされぬ様にさしませ。
シテ「何が扨、御気遣なされまするな。随分見あらはさるゝ事では御座りませぬ。
アド「早う行かしませ。
シテ「心得て御座る。
シテ「扨も扨も、有難い事で御座る。急いで参らう。よい御思案をなされて下されて、か様の仕合(しあはせ)な事は御座らぬ。いや、いや上野へ参つた。今度は吽(うん)の仁王を致さう。何と参詣はないか知らぬ。いや、あれへ参詣が見ゆる。
立頭「何(いづ)れも御座るか。
皆々「是にをりまする。
立頭「当所の上野へあらたな仁王の降らせられたと申す程に、参詣致さうと存ずるが、何と御座らうぞ。
二ノ立衆「一段とよう御座らう。御供致しませう。
立頭「夫(それ)ならば、いざ、参りませう。さあさあ、御座れ御座れ。
皆々「心得て御座る。
立頭「何と是は不思議な事では御座らぬか。
二ノ立衆「仰せらるゝ通(とほり)、不思議な事で御座る。
立頭「いや、何かと申す内に、是は上野で御座る。
二ノ立衆「実(まこと)、上野で御座る。
立頭「いづ方に降らせられて御座るぞ。
二ノ立衆「されば、いづ方にふらせられて御座るぞ。
立頭「即ち是で御座る。
二ノ立衆「誠に是に立たせられて御座る。
立頭「いざ拝みませう。
皆々「よう御座らう。
立頭「先(まづ)、散銭(さんせん)を上げさせられい。
皆々「心得ました。
立頭「さあさあ、拝ませられい。
皆々「心得ました。
立頭{*2}「弥(いよいよ)福徳自在に守らせ給へ。
二ノ立衆{*3}「子孫繁昌にまもらせ給へ。
立頭「申し申し、殊の外殊勝な事で御座る。
二ノ立衆{*4}「其通(そのとほり)で御座る。
立頭「さながら正真(しやうじん)の人の様に御座る。
二ノ立衆「其通(そのとほり)で御座る。
立頭「申し、是へ御座れ。
二ノ立衆「何事で御座る。
立頭「何と思召すぞ。御目の内を見ますれば、玉眼(ぎよくがん)が動く様に御座るが、何(いづ)れもには御気が付かせられぬか。
二ノ立衆「実(まこと)、仰せらるゝ通(とほり)、御ぐしも動く様に御座る。
立頭「はて扨、是は合点の行かぬ事で御座る。
立頭「斯様(かやう)の事には売僧(まいす)がある物で御座る程に、誠か偽りか、少(ちと)こそぐつて見ませうが、何と御座らうぞ。
二ノ立衆「是は一段とよう御座らう。
立頭「さあさあ、是へよらせられい。
皆々「心得ました。
立頭「是は殊勝によう出来させられて御座る。
二ノ立衆「其通りで御座る。
立頭「何とやら御ぐしが動く様に御座る。
二ノ立衆「其上玉眼もうごきまする。
立頭「さながら人の様に御座る。
二ノ立衆「其通(とほり)で御座る。
立頭「こそこそこそ。
皆々「こそこそこそ。
シテ笑。「面目も御座らぬ。
立頭「やい、あの横着者。
シテ「真平(まつぴら)ゆるいて下されい。ゆるいて下されい。
皆々「人たらしどちへ行くぞ。人はないか。捕へてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
底本:『狂言五十番』「仁王」
校訂者注
1:底本は「付」の一字が上下逆。
2:底本は「立衆」。
3・4:底本は「二ノ立頭」。
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