文蔵(ふみぐら)

▲殿「御存(ごぞんじ)の者。太郎冠者(くわじや)在(あ)るかやい。
▲冠者「御前に。
▲殿「汝は台所もとにて。何やら旨いものを食べたといふが。何を食べてあるぞ。
▲冠者「いや。何やら。旨い物を食べて御ざる。
▲殿「何やら旨い物食(く)と云ふが。何にてあるぞ。
▲冠者「いや。礑(はつた)と忘れて御ざる。
▲殿「汝は伯父様の方へ。何時(いつ)時分に参つたぞ。
▲冠者「元日早天に参つて御ざる。
▲殿「そんならば。かん羹の部類であらう{*1}。
▲冠者「左様な物でも御ざりませう。
▲殿「したらばかんの部類を一つ二つ云ひ立てゝ見やう程に。有らば有ると頓(やが)て答へ。
▲冠者「はつ。
▲殿「それ。かんの部類にとりては。さんぼうせんには。砂糖やうおんかん歟(か)。べつかん歟(か)。しやうれうかん歟(か)。ちくれうかん歟(か)。へつかん歟(か)。霜月師走の。大かん小かんばし食べてあるか。
▲冠者「其様(そのやう)な物で御ざりませなんだ。何やら。旨い物を食べて御ざる。
▲殿「然(さ)あらば。汝が食べたる物は。菓子の類(たぐひ)であらう。
▲冠者「はつ。左様の物でも御ざりませう。
▲殿「それ。菓子の部類にとりては。みつんか。柑子か。橘か。金柑か。榧(かや)か。椎(しゐ)か{*2}。榛(はしばみ)か。石榴(じやくろ)か。胡桃(くるみ)か。搗栗(かちぐり)か。さては。苦い処ばし食らうたか。
▲冠者「いや。左様の苦い物では御ざりませぬ。何やら。旨い物を食べて御ざる。
▲殿「扨は。汝が食べたは。点心(てんじん)の部類であらうぞ。
▲冠者「はつ。左様の物で御ざりませう。
▲殿「点心の部類にとりては。素麺(さうめん)か。そけいか。うんごんか。けいらんか。けしめんか。饅頭にたては北野の天満天神ばし食らうてあるか。
▲冠者「否(いや)。左様の。神臭い物でも御ざりませなんだ。
▲殿「扨は。汝が食べたるは。読物(よみもの)の類であらう。
▲冠者「左様の物でも御ざりませう。
▲殿「それ。読物にとりては。庭訓か。式状か。古今。万葉。伊勢物語。論語。朗詠。ほうだう十二ふんお経ばし食べてあるか。
▲冠者「いや。左様の仏臭い物では御ざりませなんだ。
▲殿「扨は。汝食べたるは。武具の類であらう。
▲冠者「左様の物でも御ざりませう。
▲殿「夫(それ)。武具の道具にとりては。太刀刀か。鎗か。長刀か。鉄砲か。弓か。刺股(さすまた)か。鎌か。棒か。十文字か。わきびきか。臑当(すねあて)か。頬当(ほゝあて)に聞き紛ふて。ほうはんばし食(くら)うてあるか。扨は。おほのぼりはしばし食(くら)うてあるか。
▲冠者「否(いや)。左様なながい物では御ざりませなんだ。何やら。旨い物をたべて御ざる。
▲殿「退去(しさりを)ろ。汝がやうな胡乱(うろん)な奴は。何も物によそへては覚えぬか。
▲冠者「今思ひあたつて御ざりまする。殿様の四畳半座敷へ。とり籠らしやれまして。読まつしやれまする。物の本の内に。確(しか)と有(ある)かと存じまする。
▲殿「某が好いて読むのは。盛衰記を好いて読む。紙二三枚読まうずる間。有らばあると。頓(やが)て答へ。床机。
▲冠者「はつ。
▲殿「扨も。石橋山の合戦といつぱ。頃は治承三年八月朔日(ひとひ)の事なるに。兵衛佐頼朝は。北條蛭が小島をうつたち給ふ。僅か御勢は。三百余騎には越えざりしを。土肥の杉山は。要害よき所なればとて。城郭を構へ籠り給ふ{*3}。茲(こゝ)に平家の侍に。大場三郎といひし者。これは三千余騎の兵(つはもの)を引具(ひきぐ)して。石橋山二ばいかわよご六のだんに陣をとる。平家の勢は三千余騎。源氏の勢は三百余騎、三千余騎と三百余騎に。物によくよく譬喩(たとふ)れば。十分が一分にも足(たら)ねども。人の腑は一つに揃うて追(おつ)つまくつゝ。鎬(しのぎ)をけづり。鍔を割り。刀尖(きつさき)よりも火焔の出(いだ)し。さんざんに合戦したる処ばし食らうてあるか{*4}。
▲冠者「否(いや)。左様の物でも御ざりませぬ。
▲殿「又。昼の戦(いくさ)は。先づ互角にも見えければ。夜戦(よいくさ)になり。対手組(あひてくみ)をぞ定めける。源氏の方には。真田の与市択(よ)つて出す。与市が其日の装束は。平時(いつ)に勝れて花やかなり。肌には。みなしろをつて一重(かさね)。精好(せいがう)の大口(おほくち)に。副将軍より賜はつたる。赤地の錦の直垂を。始(はじめ)てこそは着たりけり。紫裾濃(すそご)の鎧を着。同じ毛の五枚兜に。高角(たかづの)うつてぞ着たりける。太刀は三尺三寸の。いか物造りの太刀を佩(は)き。二十四さいたる大中黒(おほなかぐろ)の征矢(そや)筈高(はずだか)にとつてつけ。重藤の弓の真中(まんなか)握り。馬は坂東に隠れも無き。蜩(ひぐらし)と云ふ名馬に。金覆輪の鞍おかせ。豹の皮のはりくらに。虎の皮の切付(きつゝけ)に。熊の皮の障泥(あをり)をさし。引寄せゆらりとうち乗(のつ)て。大木戸開かせ切つて出(いづ)る。土肥の杉山に。高根を出(いで)し月影は。打物のひらりひらりとするのは。彼(あ)れこそ昼の強者(こはもの)よ。やア真田よ。与市よと。一度にどつと感じたる所ばし食(くら)うてあるか。
▲冠者「いや。左様の物では御ざりませぬ。
▲殿「斯(か)くて平家には。真田一騎撃たんとて。大強(たいがう)の武者三人択(よ)つて出す。一人(にん)は大場の舎弟股野の五郎景久。今二人は長尾の新五新六也(なり)。股野の其日の装束は。平時(いつ)に勝れて結構なり{*5}。肌には白き帷子に。白檀磨(みがき)の臑当(すねあて)に。緋縅の鎧を着。同じ毛の五枚兜に。高角うつてぞ着たりける。黄金(こがね)作りの太刀を佩き。二十四さいたる小鳥羽(ことりは)の征矢。筈高にとつてつけ。塗籠藤(ぬりごめどう)の弓の真中握り。これも川原毛の馬に。金覆輪の鞍おかせ。引寄せゆらりと打乗(うちのつ)て。揉(もみ)に揉うでぞ駆けやは(合)せ。馬の上にて無手(むず)と組み。両馬が間(あひ)にどうと落(おつ)る。所は難義の悪所なれば。譬へば板屋の霰に玉散るが如く{*6}。ゑいやとはぬれば。ころりと転ぶ。ころころころころころと転ぶところは。遥(はるか)谷底に転ぶ処を。真田が下になる。股野が下になる。然(さ)れども真田は力勝(ちからまさり)のしるしにや。取(とつ)て押(おさ)へ。矢負際(やおひぎは)に無手(むんず)と乗り。腰の刀をひん抜いて。首掻けども掻かれず。取れども取られず。不思議さよと思ひ。雲透(くもすき)に刀振り上げ見てあれば。実(げ)にも。鮫鞘巻の鞘つまり。栗形捥(も)げて鞘共にあり。老(らう)武者ならば。口に加へて抜くべきが。若武者の悲(かなし)さは。冠の板に押当(おしあて)て。二打(うち)三打。ほつき。丁々と打(うち)ければ。抜けはせずして此刀。運の尽(つき)はの間(あひだ)かや。目釘穴よりほつきと折れ。波打際にざつぶと入る。真田は上に呆れて居たりし処に。長尾(ながおの)新五新六下合(をりあ)ひて見れば。武者二騎無手(むんず)と組(くん)であり。やア。上なるが股野か。下なるが股野か。名乗(なのれ)名乗とありし時。下より竊(ひそか)に申すやう。上こそ真田下こそ股野よと申ければ。上なる真田が首。水もたまらず打落し。下なる股野を引立て。鎧に付(つき)たる塵ほつぼさつさつと打払うて。三人目と目をきつと見合せ。莞爾(につこ)と笑うて立(たち)し処に。遥(はるか)渚を見てあれば。老(おい)武者の白糸縅の腹巻に。白柄(しらえ)の長刀かいかうで{*7}。尾花葦毛の馬に乗り。薄の中を押分(おしわけ)かきわけ。此辺に真田殿やましますか。与市殿やましますかと尋ぬる処に。股野はきつと見て。御ぶんは誰(た)ぞと問へば。苦しうも候はず。真田殿のめのとに。名をぶんざうと答(こと)ふ。
▲冠者「あゝ。其文蔵の事ではありまする。
▲殿「いや。汝(おのれ)が言葉の末にて聞取つてある。汝が食べたは。うんざうのかいであらう。
▲冠者「いよいよ。うんざうかい(温臓粥)で御ざりました{*8}。
▲殿「某が内に有らうずる奴めが。ぶんざううんざうの分(わけ)差別も知(しり)をらいで。大事の主殿(しゆうどの)に大骨を折らせ。大汗をかゝす事。汝は前代未聞の曲者(くせもの)。此度折檻を加へうずれども。重(かさね)て折檻を加へうずる。其処立(たつ)て退居(しさりを)ろ。
▲冠者「はつ。

底本:『狂言全集 上巻 狂言記』「巻の五 三 文蔵

校訂者注
 1:底本は「部頭(ぶるゐ)」。
 2:底本に句点はない。
 3:底本は「搆へ」。
 4:底本は「さんさん(繰り返し記号に濁点なし)」。
 5:底本は「結搆なり」。
 6:底本は「枚屋(いたや)」。
 7:底本は「白抦(しらえ)」。
 8:底本に括弧はない。