花子(はなこ)
▲殿「冠者(くわじや)在(あ)るかいやい。
▲冠者「御前に。
▲殿「此程は。花子様へ参らぬほどに。心変りかとて。不審のなされうわいな。
▲冠者「誠に左様で御ざりまする。
▲殿「身は今晩。花子様へ参る程に。汝を頼みたい事が有る。聞いてくりやうか。
▲冠者「是は今めかしい事を御意なされるものかな。何なりとも仰せ付(つけ)られませう。
▲殿「おう嬉しいものかな。いや別の義では無いが。内の山の神を騙して。暇を貰うた。其騙しやうは。一七日が内。座禅の致す程に。其内身が前へ参るなと。種々(いろいろ)騙してあれば。やうやう合点のしてある程に。某(それがし)は花子様へ参り。此程の皺を延(のば)さうと思ふ。汝は此座禅衾(ざぜんぶすま)を被(かぶ)つて。某が帰る迄。座禅を仕(し)呉(くれ)い。若(も)し山の神が来て。何かと云ふとも。頭振(かぶり)ばかりふつて。物ばし云ふな。必(かならず)々。顕(あらは)れぬやうして居よ。頼(たの)らぞ頼らぞ{*1}。
▲冠者「これは迷惑な事で御ざる。若(もし)顕れましたらば。かみ様の。私を打殺さつしやれう。此義に於ては。なりますまい。
▲殿「やア。成(なる)まいとは。某は怖(おそろ)しう無うて。かみさまが怖しいか。それへ直れ。討(うつ)て捨てう{*2}。
▲冠者「はつ。待たつしやれませい。かみ様より。殿様こそ怖しう御ざれ。如何様(いかやう)とも。御意次第に致しませう。
▲殿「確(しか)とさうか。
▲冠者「中々。何の詐(いつはり)が御ざりませう。
▲殿「おうおう。可愛者(かはいもの)よな。是も花子様へ参りたさに。威(おどし)にこそは云ひつれ。其儀ならば。万事頼むぞよ。さア。此座禅衾(ざぜんぶすま)を被(かぶつ)て見よ。様子を見やう。一段一段。身は。も。参る。頓(やが)て戻らうぞよ。必々。物ばし言ふな。然(さ)らば然らば。頓て帰ろ。
▲冠者「殿様殿様。頓て帰らつしやれませいや。
▲殿「はつて。気遣を為(す)るな。
▲冠者「殿様殿様。慮外ながら。花子様へ御ざりましたら。御内(みうち)の紅梅に。伝言(ことづて)申(まをし)たとおつしやれて下されませい。
▲殿「誠にそれよそれよ。こんどは汝を連(つれ)て行き。紅梅に逢(あは)せう程に。嬉しいと思へ。
▲冠者「あゝ。辱(かたじけ)なう御ざりまする。
▲殿「やれやれ嬉しや。先(ま)づ急いで。花子様へ参らう。
(中入)
▲上臈「妾(わらは)が殿御は。一七日が内。座禅へ入らせらるゝとて。妾に暇を貰ひ。湯をも水をも参らぬが。余り笑止に思ひまする。座禅の内。妾にも見舞(みまひ)まするなと仰せられては御ざれ共。余り堪へられませぬ程に。余所(よそ)ながら様子を見ませうと思ひまする。扨も扨も。座禅衾を被り。窮屈に御ざらう。申(まをし)々。其若い姿(なり)で何の経がいりませうぞ。それでは命も無い事で御ざる。何にても少(ちと)参りませいのう。あゝきやうこつや。物をばおつしやれいで。頭振ばかり振らつしやるわいやい。嫌と云ふ事は御ざるまい。此衾を脱(と)らつしやれませい。是非共除(と)りまする。
▲冠者「あゝ。悲しや悲しや。許容(ゆる)さつしやれませい。
▲上臈「是は扨。殿と思ふたれば。汝(おのれ)は何して此処に居るぞ。なう腹立(はらたち)や。殿は何処(どち)ヘやつたぞ。云へ。云はずば汝(おのれ)打殺(うちころ)すぞ。
▲冠者「あゝ。申(まをし)ませう申ませう。命があつてこそ。申ませう申ませう。
▲上臈「早う云へ早う云へ。なう腹立や。
▲冠者「殿様は。花子様へ行く程に。
▲上臈「やい。汝(おのれ)さへ花子様とぬかすか。
▲冠者「いや。花子めへ御ざりました。此衾を被(かぶ)りて居よと。仰せられて御ざる程に。種々(いろいろ)斟酌申(まをし)ましたれば。刀を抜いて。斬らうとおつしやれた。厭と申せば忽(たちまち)斬られまする。是非に及ばず。斯様(かやう)に致しまして御ざる。私のやりましたでは御ざりませぬ程に。命を助けて下されませい。(こゝにて泣く)
▲上臈「扨は厭と云ふたれども。斬らうとしたに依つて。是非に及ばなんだと云ふか。
▲冠者「中々。其通りで御ざる。
▲上臈「これは斯(か)うもあらう。又妾が頼みたい事が有るが聞いてくりやうか。
▲冠者「あのおつしやる事わいやい。かみ様の御用ならば。命なりとも捨(すて)ませう。
▲上臈「おう。嬉しや。それならば。此座禅衾を妾に着せて。汝が如くにして置(おい)てくれい。
▲冠者「これは。ひよんな事を仰せられる。殿様の帰らつしやれたらば。又私を殺さつしやれませう。是は御免(ゆる)さつしやれて下されませう。
▲上臈「汝(おのれ)めは。殿は可怖(こはう)て。妾は可怖は無いかて{*3}。打殺すぞ。
▲冠者「あゝ。着せませう着せませう。命の有つてこそ。着せませう。
▲上臈「急いで着せい。やい冠者。殿の姿に好う似たか。
▲冠者「其儘殿様で御ざる。
▲上臈「おう可愛の者や。汝(なんぢ)は上京の伯母が所へ行け。殿の機嫌を見て喚(よ)びに遣らうぞ。早う急いで行け。
▲冠者「畏つて御ざる。好き時分に人を下されませい。扨も扨も。無情(なさけない)事に遇(あひ)ました。先づ上京へ参ろ。
▲殿{*4}(小袖を打(うち)かけ。つぼをつて。捌き髪。小歌にて出(いづ)る。)
[小歌]「あやのにしきのした紐は。とけて中々よしなや。柳の糸のみだれごゝろ。いつわすられぬ。
[小歌]はるばるとおくり来て。面影のたつかたをかへり見たれば。月細くのこれりたり。名残惜しやの。はつ。某が面白きまゝに。独言を申(まをし)てある{*5}。太郎冠者が待(まち)かにやう{*6}。先(ま)づ。帰つて喜ばせうと存ずる。やれやれ。人の主(しゆう)にはなりたいものぢや。某が申付(まをしつけ)た如く。すごすごと居まする。やい太郎冠者。今帰つてあるわいやい。何とて物は言はぬぞ。さぞ窮屈にあらうな。乍去(さりながら)。汝も嬉(うれし)いと思へ。お目にかゝると。先づ汝が事を問はつしやれてあるぞ。序に此程の様子を語つて聞かせう。先づあれへ参ると。何とやら窃(ひそか)にあつた程に。不思議な事ぢやと思ふて。そつとさし寄(よつ)て内の様子を聞いてあれば。花子様の声にて。物と仰せられた。
[小歌]灯(ともしび)暗うして。物のさびしき折ふしに。君が来(きた)るにや。とおつしやれた。これは辱(かたじけ)ない事ぢや思ふて。妻戸をほとほとと叩いてあれば。其の時又物とおしやれた。
[小歌]いとゞ名の立つ折ふしに。誰(た)そや妻戸をきりぎりす。とおつしやれた。そこで某も返歌を致した。
[小歌]雨のふる夜にたがぬれてこその。誰(た)そよと咎むるは人二人待つ身か。そこで。内よりも花子様の出さつしやれて某が手を執りて。奥の間へ連(つれ)て。扨も扨も。雨の降るに好う御ざりました。先づ上を脱がつしやれいとて。おきり物を着せて下されて。色々の積(つも)る物語。まうつ(舞ひつ)。うたうつ(歌ひつ)。遊ぶ程に。早夜明の烏が鳴いた。まだ半時もせぬのに。夜明の烏が鳴きまする。最早(もはや)お暇(いとま)申と云へば。其時花子様。物とおつしやれた。
[小歌]こゝは山かげ森の下森の下。月夜烏はいつもなく。しめておよれの夜は夜中。とおつしやれた。御意では御ざれども。夜も明けますれば。人も見まする。頓(やが)て参らうと申(まをし)てあれば。そこで花子様の。いつ御意なされぬ事を仰せられた。こなたのかみ様の姿が。見たう御ざろのうとおつしやれた。そこで某が山のかみが姿を小歌にうたうた。
[小哥]人の妻見て我(わが)妻見れば我妻見れば。深山(みやま)の奥のこけ猿めが。雨にしぼぬれて。ついつくばうたにさも似た。と申(まをし)唱うてあれば。どつと笑はつしやれた。又此小袖は。花子様の形見なれども。山の神が見たらば。好いことはあるまい。只捨(すて)う。
[小歌]すてゝもなかれず。とればおもかげに立(たち)まさり。おきふしわかで枕により。あとよりこひのせめくれば。せんかたなみだに。ふししづむ事ぞ悲しけれ。
とかく汝に遣る程に。かまへて山の神に見せるな。此座禅衾を脱(と)れ。身がえ代(かは)るぞ。
[小歌]「あやのにしきのした紐は。とけて中々よしなや。柳の糸のみだれごゝろ。いつわすられぬ。
[小歌]はるばるとおくり来て。面影のたつかたをかへり見たれば。月細くのこれりたり。名残惜しやの。はつ。某が面白きまゝに。独言を申(まをし)てある{*5}。太郎冠者が待(まち)かにやう{*6}。先(ま)づ。帰つて喜ばせうと存ずる。やれやれ。人の主(しゆう)にはなりたいものぢや。某が申付(まをしつけ)た如く。すごすごと居まする。やい太郎冠者。今帰つてあるわいやい。何とて物は言はぬぞ。さぞ窮屈にあらうな。乍去(さりながら)。汝も嬉(うれし)いと思へ。お目にかゝると。先づ汝が事を問はつしやれてあるぞ。序に此程の様子を語つて聞かせう。先づあれへ参ると。何とやら窃(ひそか)にあつた程に。不思議な事ぢやと思ふて。そつとさし寄(よつ)て内の様子を聞いてあれば。花子様の声にて。物と仰せられた。
[小歌]灯(ともしび)暗うして。物のさびしき折ふしに。君が来(きた)るにや。とおつしやれた。これは辱(かたじけ)ない事ぢや思ふて。妻戸をほとほとと叩いてあれば。其の時又物とおしやれた。
[小歌]いとゞ名の立つ折ふしに。誰(た)そや妻戸をきりぎりす。とおつしやれた。そこで某も返歌を致した。
[小歌]雨のふる夜にたがぬれてこその。誰(た)そよと咎むるは人二人待つ身か。そこで。内よりも花子様の出さつしやれて某が手を執りて。奥の間へ連(つれ)て。扨も扨も。雨の降るに好う御ざりました。先づ上を脱がつしやれいとて。おきり物を着せて下されて。色々の積(つも)る物語。まうつ(舞ひつ)。うたうつ(歌ひつ)。遊ぶ程に。早夜明の烏が鳴いた。まだ半時もせぬのに。夜明の烏が鳴きまする。最早(もはや)お暇(いとま)申と云へば。其時花子様。物とおつしやれた。
[小歌]こゝは山かげ森の下森の下。月夜烏はいつもなく。しめておよれの夜は夜中。とおつしやれた。御意では御ざれども。夜も明けますれば。人も見まする。頓(やが)て参らうと申(まをし)てあれば。そこで花子様の。いつ御意なされぬ事を仰せられた。こなたのかみ様の姿が。見たう御ざろのうとおつしやれた。そこで某が山のかみが姿を小歌にうたうた。
[小哥]人の妻見て我(わが)妻見れば我妻見れば。深山(みやま)の奥のこけ猿めが。雨にしぼぬれて。ついつくばうたにさも似た。と申(まをし)唱うてあれば。どつと笑はつしやれた。又此小袖は。花子様の形見なれども。山の神が見たらば。好いことはあるまい。只捨(すて)う。
[小歌]すてゝもなかれず。とればおもかげに立(たち)まさり。おきふしわかで枕により。あとよりこひのせめくれば。せんかたなみだに。ふししづむ事ぞ悲しけれ。
とかく汝に遣る程に。かまへて山の神に見せるな。此座禅衾を脱(と)れ。身がえ代(かは)るぞ。
▲上臈「何山の神に見せるな。好い座禅ぢやの足下(そなた)の座禅は。
▲殿「はつ。これは如何な事。
▲上臈「如何な事と云ふ事はあるまい。
▲殿「堪(こら)へてたもれ。御免御免。
▲上臈「どこへ。やるまいやるまい。
校訂者注
1:底本のまま。
2:底本に句点はない。
3:底本は「可怖は (な)いか て」。
4:底本、最初の[小歌]から7番目の[小哥]まで傍点はなく、最後8番目の[小歌]だけ傍点がある。
4:底本、最初の[小歌]から7番目の[小哥]まで傍点はなく、最後8番目の[小歌]だけ傍点がある。
5:底本に句点はない。
6:底本のまま。
6:底本のまま。
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