不立腹(ふりつぷく)

▲庄屋「罷出たるは。所の庄屋で御ざる。少(ちと)談合をする事が御ざる程に。月行事を喚(よ)び出しませう。月行事殿は御ざるか。
▲月行事「ゑいこゝな。何と思ふて。出さしやれて御ざるぞ。
▲庄屋「いや其事で御ざる。彼(か)の草堂の事に就(つけ)て参つて御ざる。
▲月行事「誠に過日(いつぞや)おつしやられたが。彼(あれ)は明き寺にして置いてはなりますまい。似合(にあは)しい御坊は御ざりませぬかいの。
▲庄屋「いや。身共が方にも御座らぬ。某(それがし)が思ふに。足下(そなた)と連立(つれだち)て。鎌倉海道へ参り。似合しい御坊の通りやるならば。呼掛て据(すゑ)うと存ずるが。月行事殿。
▲月行事「これが一段で御ざる。
▲庄屋「さア。したら御ざれ。一段これが好さゝうに御ざる。此所(このところ)に待(まち)ませう。
▲僧「南無阿弥陀仏。
▲庄屋「いや。彼(あれ)へ好さゝうな御坊が行(ゆ)かるゝ。問ふて御ろん(御覧)ぢやれい。
▲月行事「心得まして御ざる。しゝ申(まをし)。
▲僧「此方(こなた)の事で御ざるか。
▲月行事「中々。して足下(こなた)は。何方(どれ)から何方へ御座る坊様(ぼんさま)で御ざる。
▲僧「身共のこれから何方へと申(まをし)たら。風に木の葉の散る如くで御ざる。
▲月行事「意(こゝろ)は。
▲僧「三界に家が御ざらぬ。
▲月行事「いや。近頃殊勝に御ざる。足下(こなた)をば呼びかける。別義では御ざらぬ。在所も百軒ばかりの在処で御ざる。其処の草堂に足を休めさつしやれますまいかと存じて。呼(よび)かけまして御ざる。
▲僧「いゑ。それこそ望む処で御ざる。
▲月行事「はて扨。過分にこそ御ざれ。それに待たつしやれ。庄屋殿に引合(ひきあは)せませう。なうなう。庄屋殿。彼(あ)の御坊の。草堂へ座(すわ)らうとおつしやる。これへ出て遇(あ)はつしやれい。
▲庄屋「いゑ。身共がやうなる在処へ座らうとおつしやれて下さるゝ。辱(かたじけ)なう御座る。
▲僧「して。庄屋殿で御ざるか。万事の義を頼みまする。
▲庄屋「何が扨。御坊の事ならば。何とやうな御用なりとも。承らう。
▲僧「辱なうこそ御座れ。
▲庄屋「いや。又。御坊様も頼まねばならぬ。
▲僧「出家に似合(にあう)た事ならば。何なりともおつしやれませい。
▲庄屋「いやはや。別の事では御ざらぬが。子供を数多(あまた)持(もち)て御ざるが。いろはなども。少(ちと)をすへ(教へ)さつしやれて下されまするやうに。之を頼みまする。
▲僧「何が扨。坊主に似合た事で御ざる。
▲庄屋「して。足下(こなた)のお名は。何と申(まをし)まするぞ。
▲僧「いや。それに待たしやれい。やれさて。師匠をとらぬ坊主で御ざれば。終(つゐ)に名をつきませぬが。何と致さうず。あゝ。思ひ付(つい)た。檀那衆が。腹は立てぬ坊主ぢや。正直な坊主ぢやとおつしやつて御ざる。是を申そ。
▲庄屋「なうなう御坊。して。名は何と申すぞ。
▲僧「身共が名は。腹立てずの正直坊と申(まをす)。
▲庄屋「扨も扨も。殊勝なる御坊かな。それに待たしやれい。なう。月行事殿。彼(あ)の御坊の名は。腹立てずの正直坊といふといの。
▲月行事「おう庄屋殿。何程さうおしやろとも。生身(いきみ)に腹を立(たて)ぬと云ふ事はあるまい。繰返し繰返し名を問ふたらば{*1}、どこぞでは腹を立(たち)やうず。それに立(たて)ずば。正直坊よと。先(ま)づ行て身どもが。問うて来うず。なう御坊様。足下の名は。何と申しまするぞ。
▲僧「いや。庄屋殿に申(まをし)ました。
▲月行事「いや。身共も承りたう御ざる。
▲僧「腹立(たて)ずの正直坊と申(まをす)。
▲月行事「あゝ。出家に似合た名で御ざる。なう庄屋殿。行(い)て足下(こなた)も。ま一度問うて御ざれ。
▲庄屋「なう御坊。いや先程に承りたが。忘れました。足下の名は。何と云ひまするぞ。
▲僧「はて。腹立(たて)ずの正直坊といふわいの。
▲庄屋「そりや。腹立てるわ。
▲僧「いや。腹はたてぬ。
▲庄屋「それや。腹立てるでは無いか。
▲僧「腹は立てぬいの。せが立つわいの。
▲庄屋「何でも無い事。とつとゝいかしませ{*2}。

底本:『狂言全集 上巻 狂言記』「巻の五 八 不立腹

校訂者注
 1:底本は「操返(くりかへ)し」。
 2:底本は「とつといかしませ」。