河原新市

▲女「妾(わらは)は此辺(このあたり)の者で御ざる。今日は河原(かはら)の新市(しんいち)で御ざる。常例(いつも)の如く。酒を売(うり)に参らうと存(ぞんじ)ます。
[道行]。誠に今日は天気も好う御ざる程に。夥(おびたゞ)しい人で御ざらう。参る程にこれで御ざる。此処許(こゝもと)に店を出しませう。(竹の先に杉葉つけ。腰掛に持(もた)せ懸け置く。徳利一つ側(そば)に置(おく)なり。)
▲アト「罷出たる者は。此近辺(このあたり)の者で御ざる。今日は河原の市で御ざる。彼(あれ)へ参り。売物(うりもの)を見物致さうと存(ぞんず)る。何方(いづれ)も若い衆御ざるか。
▲二人「中々。これに居ります。
▲アト「いざ。河原の市へ参りましよ。
▲二人「一段と好う御ざらう。
▲アト「さアさア。御座れ御座れ。や。何かと云ふうちにこれで御ざる。これに酒を売(うつ)て居る。いざ酒を飲(たべ)ませう。さアさア。これへ御座れこれへ御座れ。
▲女「何方(いづれ)も。酒参れ酒参れ。諸白(もろはく)の好い酒で御ざる。
▲シテ「これへ出(いで)たる者は。河原太郎と申(まをす)者で御ざる。某(それがし)の女房(にようぼ)どもに。河原の市へ。酒を売(うり)に遣(つかはし)て御ざる。先程参り。一つ飲(のま)して見よ。好い酒か。試(きい)て見て売らせうと申せど。いや未(まだ)売初(うりぞめ)致さぬと申して。飲(のま)しませぬ。扨も扨も。憎い奴で御ざる。彼(あれ)へ参り。身共が邪魔を入れ。致し様が有る。やア。何人(なにびと)やら大勢酒買ふ人が有る。是々。其処な人。此方(こち)へ御ざれ。用が有る。皆御座れ御座れ。
▲三人「何事ぞ何事ぞ。
▲シテ「いや。別のことでも無いが。身共も。彼(あ)の酒を。最前知らいで飲うで見たが。酢を飲む如くで。酸(す)うて飲まるゝことではない。必(かならず)飲ませらるな。中(あた)りませうぞ。
▲三人「扨は左様で御ざるか。好う知らせてたもつた。夫(それ)なら他所(よそ)で飲(たべ)う。いざ此方(こち)へ御ざれ御ざれ。
▲女「申(まをし)々。彼(あれ)は嘘で御ざる。成程好い酒で御ざる。悪くは代(かはり)を取(とり)ませぬ。これこれ。これは扨。はや帰りやつた。
▲シテ「やア。嬉しや嬉しや。まんまと邪魔を入(いれ)て往(いな)した。致様(いたしやう)が有る。やア女共。又見舞(みまふ)た。何と今日は。大分(たいぶん)の人であつた程に。商(あきなひ)が有らう。鳥目を繋がうと思ふて。緡(さし)を持(もつ)て来た。さアさア。銭を此処へ出さしめ。
▲女「其処な人。よう其様な事おしやる。そなたが何かと邪魔を入(いれ)て。酒を買はうといふ人にも売(うら)せぬやうにしやる。鳥目があらう筈が無い。空(うつけ)た人ぢや。それは誰が損ぢや。そこな人。
▲シテ「何ぢや。鳥目が一銭も無い。汝(おのれ)は憎い奴の。商(あきなひ)をせずに。遊び歩いて居ると見えた。其上男をうつけたとぬかす。おのれ堪忍がならぬ。打殺(うちころし)てくれう。
▲女「これは如何(いか)なこと。又其酒(さか)ばやしをとつて。それで打擲するか。あゝ悲しや。あいたあいた。やア思ひ付(つけ)た。
これこれ。先(まづ)これを一つ飲うで。打(うつ)なりとも。叩きなりともしやれ。先飲(のま)しめ。
▲シテ「何のおのれ。人の飲(のま)うと云う時は飲(のま)さいで。最早(もはや)今は飲(のま)ぬ。其盃も徳利も。打割(うちわ)つてくれうぞ。
▲女「あゝこれこれ。それは短気な。打割らうよりは。先づ飲ましませ飲ましませ。
▲シテ「何と云ふぞ。打割らうより飲(のめ)といふか。いかさま其方(そち)が云ふ通(とほり)。割つて捨(すつ)るも無益(つひへ)ぢや。それなら一つ飲(のま)うか。
▲女「はて扨。飲(のま)しませ飲(のま)しませ。下(した)に御ざれ。
▲シテ「さアさア。茲(こゝ)へ注(つ)げ。
▲女「心得ました。注(つぎ)ましよ。
▲シテ「然(さ)らば飲まうか。扨も扨も。此は好い酒ぢや。今日は念を入れたやら。平日(いつも)より酒が好いわ。
▲女「も一つ飲(のま)しめ。
▲シ「いかさま是は。一つや二つでは堪忍がならぬ。さアさア。注げ注げ。扨も扨も。飲(のめ)ば飲む程甘(うま)い。其方(そち)も少(ちと)飲(のま)んか。差さう。
▲女「いや、妾は嫌で御ざる。最早酔はせられたさうな。
▲シ「いやいや。此様な事で酔ふことでは無い。さアさア。注げ注げ。飲(のめ)ば飲む程好い気味ぢや。いざ此上は。滝飲(たきのみ)にせう。
▲女「心得ました。後(うしろ)から注(つぐ)ぞ。
▲シ「是は如何(いか)な事。いかに滝飲ぢやといふて。頭へ酒を浴(あび)せ居るか。おのれ憎い奴の。兎角(とかく)打殺すぞ。
▲女「又々酒に酔うて。あれあれ。足もたゝぬ態(なり)で。つえとりばへをしやる。あの態(なり)は。
▲シ「汝(おのれ)可笑(をかし)いか。何方(どこ)へうせる。やることでは無いぞ。やるまいぞやるまいぞ。(酒に酔ひ。ひよろひよろして。追(おひ)かけ入(いる)なり。)

底本:『狂言全集 中巻 続狂言記』「巻の一 六 河原新市