雁争

▲シテ「罷出たる者は。此辺(このあたり)に隠れも無い大名で御ざる。今日(こんにち)も野遊(のあそび)に参らうと存ずる。
[道行]誠に慰(なぐさみ)はおほけれど。殺生程好い慰はあるまい。やアこれに雁(がん)が居る。何でも此弓で射てやらう。此処(これ)から射やうか。何処から射やうぞ。
▲アト「罷出たる者は此辺(このあたり)の者で御ざる。某(それがし)は急用あつて去方(さるかた)へ参る。先(まづ)急いで参らう。やア。これに雁がある。これは捕(とり)たいものぢや。何として捕らうぞ。思ひ出した。飛礫(つぶて)をうたう。やア。ゑい。さればこそ中(あた)つた。先(まづ)雁はしてやつた。
▲シテ「やいやいやい。其雁は何故(なぜ)に取つて行くぞ。
▲ア「此は身共が飛礫で捕つたに依つて持(もつ)て行くが何と。
▲シ「いやいや。それは身共が。最前から瞰(にらみ)殺して居つた。遣ることはならぬ。おこせ。
▲ア「いやいや。身共が飛礫で捕つた。遣ることではないぞ。
▲シ「おのれ憎い奴の。おこさぬに於(おいて)は。此弓矢で射てくれうぞ。
▲ア「やア危険(あぶな)い。出合(であへ)出合。
▲所の者「やいやいやい。これは何事ぢや何事ぢや。聊爾(れうじ)をすな聊爾をすな。これは如何(どう)した事ぞ。
▲ア「さればされば。能(よ)う聞いて下され。此雁を身共が飛礫をうつて捕つたれば。己(おのれ)が雁ぢやおこせと云ふに依つてのことぢや。無理な事では御ざらぬか。
▲所の者「其方(そち)が飛礫で捕つたが定(ぢやう)か。
▲ア「なかなか定で御ざる。
▲所「それなら其通(とほり)いはう。これこれ。其方(そなた)は人体(にんてい)と見えた。彼(あ)の者が飛礫をうつて捕つた雁(かり)を。おこせとは如何(どう)したことぞ。
▲シ「されば其事ぢや。身共が捕らうと思ふて。此弓矢で最前から狙ふて居たれば。大方瞰(にらみ)殺したを。彼奴(あいつ)が取つて行く。如何(どう)でも此方(こち)へおこせと云ふてたもれ。
▲所「其通(とほり)云はう。これこれ今のを聞かしましたか。無理な事を云ふわ。
▲ア「さればされば。無理な事を云ひます。如何(どう)でも遣ることはならぬと云ふて下され。
▲所「心得た。如何でも遣ることはならぬと云はるゝわ。
▲シ「何と遣ることはならぬ。夫(それ)なら其処を退(の)きやれ。此弓矢で射殺してくれう。
▲ア「それそれ。止(と)めてたもれ止めてたもれ。危険(あぶな)い危険い。
▲所「先(まづ)待たしませ待たしませ。身共がこれに居るからは。聊爾はさせぬぞ。兎角(とかく)身共が思ふは。其様に云ふては埒が明かぬ。此上は。彼(あ)の雁を元の処に置いて。も一度射て見さしませ。中(あた)つたら其方(そなた)取りやれ。若(もし)中らずば。其方(そち)へ遣る事はなるまい。
▲シ「夫(それ)なら射やう程に。元の処へやつて置け。
▲所「心得た。なうなう。今の通(とほり)ぢや。身共次第にして射さしたら好からう。彼(あ)の手許(てもと)では中るまい程に。元の処へやつておかしめ。
▲ア「心得ました。足下(こなた)次第に致さう。
▲所「さアさア射て見やれ。
▲シ「心得た。射るぞ。此処(これ)から射やうか。何処(どれ)から射やうぞ。
▲二人「これこれ。それは近い。初(はじめ)の処から射やれ。
▲シ「夫(それ)ならこれから射やう。さア射るぞ。南無三宝。中らぬわ。
▲ア「そりやこそ中らぬぞ。先(まづ)雁は身共が取つて帰らう。なうなう嬉しや嬉しや。
▲シ「やいやい。も一度射さして見よ。やれ待てやれ待て。せめて其羽(はね)なりとくれ。
▲ア「羽を何にするぞ。
▲シ「羽箒(はゝうき)にするわ。
▲ア「いやいやそれもならぬぞならぬぞ。
▲シ「やれ夫(それ)は聞(きこ)えぬ。せめて羽をくれ羽をくれ。

底本:『狂言全集 中巻 続狂言記』「巻の二 三 雁争