鱸庖丁

▲ヲヒ「これは淀辺(よどへん)に住居(すまゐ)致す者で御ざる。某(それがし)は都に伯父を持(もつ)て御ざるが。此間くわんどなりをする程に。鯉をくれいといふて状をおこされて御ざる。何かと致して。今日(こんにち)迄鯉を求めませぬ。定(さだめ)て鯉をあてにして御ざることもあらう。何卒(なにとぞ)申訳を仕(つかまつ)らう。さいさい用を申さるれども。何を一色(いろ)調(とゝのへ)たことも御ざらぬ程に。定(さだめ)て此度(このたび)は腹をお立(たち)やることがあらう。去(さり)ながら。面白可笑(をかし)う申訳を仕(つかまつ)らう。参る程にこれぢや。先(まづ)案内を乞はう。(常の如く)只今参りますること別の義でも御ざらぬ。先日鯉のことを仰(おほせ)下されて御ざるに依つて。方々才覚致して。淀一番の鯉を求めまして。とてもの事に生鯉(いけこひ)に致(いた)いて持(もつ)て参らうと存(ぞんじ)まして。藤の蔓にて繋ぎまして。淀の橋杭の二番目の杭に繋(つない)で置いて御ざる。今日(こんにち)これへ参りさまに。徐々(そろり)と引上(ひきあげ)て御ざるが。何とやらん手当りが軽う御ざつたに依つて。不思議な事ぢや。鯉は水離(みづはなれ)が大事ぢやと存(ぞんじ)て。きつと引上(ひきあげ)て見まして御ざれば。大事のことが御ざりまするわ。片身さかふて獺(をそ)が食べて御ざるに依つて。御祝儀に使はせらるゝに。疵のついた物はいらぬことぢやと存(ぞんじ)て。持(もつ)て参りませなんだ。自然鯉をあてになされても御ざらうかと存(ぞんじ)まして。其申訳に参りました。
▲ヲヂ「扨々我御料(わごれう)は遠路の処を来るに及ばぬに。律儀なことぢや。去(さり)ながら。肴物を下されて。客衆も大かたもてないたによつて。鯉が無うても苦しうない。先(まづ)斯(か)う通らしませ。一つ饗(もてな)いてやらうぞ。
▲ヲヒ「それは忝なう御ざりまする。去(さり)ながら。お忙しうも御ざらうず。先(まづ)お暇申(まをし)ませう。
▲ヲヂ「故意(わざ)とさへ呼びにやらう所ぢや。幸(さいはひ)の事。先(まづ)斯(か)う通らしませ。
▲ヲヒ「左様に御ざらば通りませう。
▲ヲヂ「中々。先(まづ)それに寛(ゆる)りと居さしませ。
▲ヲヒ「畏つて御ざる。
▲ヲヂ「扨も扨も憎い奴である。彼(あれ)は私の甥で御ざるが。何を云ふても。百に一つも合ふた事が御ざらぬ。今度も鯉は定めて求めますまいが。某が何も知らぬと思ふて。今の様なことを申す。憎い奴ぢや。身共もちよつぼりと口で饗(もてな)いて戻さう。やいやい。最前の鱸を何なりと一こん洗へといへ。ゑい。いやなう。我御料は慇懃にせずとも平(ひら)に寛(ゆるり)と居さしめ。
▲ヲヒ「いや苦しう御ざりませぬ。
▲ヲヂ「其方(そなた)の仕合(しあはせ)に。或方(さるかた)より見事な鱸を三こん貰ふた。其方に振舞はうと思ふ。一こん洗へと吩咐(いひつけ)た。とてもの事に。何なりとも料理を好ましめ。
▲ヲヒ「いや。私は内証の者で御ざる。左様の肴をば給はせられで。お客へ使はせられませ。
▲ヲヂ「いや。客も大方饗(もてな)いて暇になつた。気遣(きづかひ)をせずとも料理を好ましめ。
▲ヲヒ「左様御ざらば。うちみで下されませう。
▲ヲヂ「いや鱸でおりやるわいの。
▲ヲヒ「鱸でもうちみが好う御ざる。
▲ヲヂ「鱸でもうちみが好い。
▲ヲヒ「中々。
▲ヲヂ「扨は我御料(わごれう)はうちみの仔細を知らぬと見えた。今の鱸を洗ふ内に。うちみの仔細を語つて聞(きか)せう。
▲ヲヒ「それは忝なう御ざりませう。
▲ヲヂ「抑(そもそも)うちみと云ふこと。寛和(くわんわ)元年。其頃は花山の院の御代なりしに。四季折々の御遊(おんあそび)。殊に越え。御狩(みかり)に好(す)かせ玉ふにより。せいらいに鷹をすゑさせ。国々へ御下向ある。折節遠江国。橋本の長(ちやう)が宿所に着玉(つきたま)ふ。長は出合(いであひ)。三こんの土器(かはらけ)据(すゑ)たりし時。板に鯉を出す。其時庖丁人は。四官の太夫忠政なり。忠政は三廊近き釣殿に出て畏る。それ忠政とありしかば。忠政何とか思ひけん。板なる鯉をば切らずして。簀子(すのこ)の竹を一間外し。下なる魚を挟んで上げ。みさごの鰭を払ひおろし。魚を離せば魚喜び。石菖(せきしやう)の蔭に遊び隠れぬ。扨其後(そのゝち)板引寄せ。すつぱと切つては。しつとゝうちつけ。すつぱと切つては。しつとゝうちつけ。并(なみ)居たまへる上(じやう)北面。下(ご)北面。納言。宰相。検非違使。黒袴。徒党に至るまで。三刀(かたな)づゝうちつけ参らせしかば{*1}。忠政が只今の庖丁神妙なり。勲功は乞ふに依るべしと御感(ぎよかん)なりてより此方(このかた)。うちみと云ふことはじまりたり。さればうちみは。海のものにては鯛。川のものにては鯉ならではあるべからす。御内(みうち)の親は庖丁人のその子として。鱸にうちみ食はうなどゝ云ふて。立居の人には笑はれ給ふな。かまへて無いことでおりやるぞ。
▲ヲヒ「扨は無いことで御ざりまするか。
▲ヲヂ「中々。最前の鱸を手ねばなものに云ひつけたれば。暇がいる。やいやい。今の鱸を洗ふたらば。早う持つて来いと云へ。扨最前の鱸をまんまと洗ひすまいて。切目(きりめ)尋常なる俎(まないた)に。備前庖丁。青木の箸。紙一重追取(おつとり)添へ。しつけ知つたる若者が。二人して持(もつ)て出やう。其時其方(そなた)におきりそへと申さう。其処で我御料(わごれう)が云はうには。いや伯父様の庖丁久敷(ひさしく)見参らせぬ程に。一手遊ばされい。見物仕(つかまつ)りたいと云はでは叶ふまい。
▲ヲヒ「中々左様に申(まをし)ませう。
▲ヲヂ「其時某がよしにあまり。板際にするすると立寄り。箸。刀。おつ取つて。紙を三つに切り。二つを下へおしおろし。一つを俎(まないた)へどうとおき。礼式の水こそげ。さつさつと三刀(かたな)する。するまゝに一の刀にて魚頭をつき。二の刀にて上身(うはみ)をおろし。おろしもあへず。魚頭俎頭(まないたかしら)にどうとおき。中打(なかうち)ちやうちやうと三つに切つて。いざこれを煎物(いりもの)にして申さう。幸ひうはみ。したみが有る。之をさつとかき虀(あへ)にして振舞はう。魚(うを)の身の厚い所を薄う見えい。薄い処を厚う見ゆるやうに作るが。庖丁人の腕でおぢやる。いかにもかつすくばうて刀ばやに。すはりすはり。すはすはすはと作つて。生姜酢をもつて。きつきつと虀(あ)へ。深草士器(かはらけ)に。南天じくのかいしきを。ちよぼちよぼと盛(よそ)うて。其方(そなた)にも振舞はうず。身共も相伴せうが。何とこれは好い肴ではあるまいか。
▲ヲヒ「仰せの通(とほり)。これは一段と好う御ざりませう。
▲ヲヂ「それならばこれを肴にして。ひだりを以て五盃飲うでくれさしませ。
▲ヲヒ「尤肴は好う御ざりますれども。夫(それ)はなりますまい程に。御許(おゆる)されて下されませ。
▲ヲヂ「いや酒と云ふものは。しひねば飲(のま)れぬ物ぢや。是非とも飲(のう)でくれさしませ{*2}。
▲ヲヒ「夫(それ)程に。仰せらるゝ程に。下されても見ませうか。
▲ヲヂ「飲(のま)う。
▲ヲヒ「中々。
▲ヲヂ「近比(ちかごろ)満足した。扨勝手よりも。物こそ出来たれとて。ゆのかうたふに。貝杓子(かいしやくし)おつとり添へ。持(もつ)て出やう。これをも好い処をよそうて。其方(そなた)へも申さうず。某も相伴せうが。何とこれは五杯目の盃には好うは有るまいか{*3}。
▲ヲヒ「ないことで御ざらう。
▲ヲヂ「夫程に思ふならば。今度は右を以て七杯飲うでくれさしませ。
▲ヲヒ{*4}「最前の五杯さへ迷惑に存(ぞんじ)ましたに。況(いはん)や其大盃(おほさかづき)で。存(ぞんじ)もよらぬことで御ざる。御免なされて下されませ。
▲ヲヂ「いや。我御料(わごれう)は能(よ)う上戸(じやうご)を知つて強(し)ひることぢやに。是非ともに飲うでくれさしませ。
▲ヲヒ「夫程に強(し)ひさせられまするならば。何卒(なにとぞ)ねらふて見ませうまで。
▲ヲヂ「狙(ね)らうて見やう。
▲ヲヒ「中々。
▲ヲヂ「それは嬉しい。扨小盃を以てちよろちよろりと廻さうか。さつと取らうか。
▲甥「いや。もう早うお取りなされませ。
▲ヲヂ「夫(それ)ならばさつと取らうず。扨酒の上に。濃茶(こいちや)は好いものではないか。
▲甥「中々。一段好いもので御ざる。
▲ヲヂ「某は宇治辺に知音をもつたが。今度此(この)とうを営むと有(あつ)て。極(ごく)を三袋(たい)くれた。折節一袋は。挽(ひか)せておいた。其方(そなた)が知る通り。身共茶の湯に好いたに依つて。奥の間に湯がりんりんと沸(たぎ)りすまいて有る。これへ其方を同道してお茶を申さう。
▲甥「夫は忝う御ざりまする。
▲ヲヂ「これも其方(そなた)にお立(たて)そいと申さうが。茶は亭主の役ぢやに依つて。某が立つるであらう。湯七分に泡八分。むくむく。やはやは。ほうほうと。昔様に中高(なかだか)に。猫の背をたてた如くに。立(たて)ないて振舞はう。
▲甥「夫は好う御ざりませう。
▲ヲヂ「其処で其方(そなた)が褒(ほめ)てくれたがよい。
▲甥「何と褒(ほめ)ましたが好う御ざるぞ。
▲ヲヂ「最前鱸を料理なされた御手許(おてもと)。近比(ちかごろ)見事で御ざると存(ぞんじ)ましたれば。殊に御茶の湯の御手前見事さうに御ざると。おりしきつて誉(ほめ)てくれたがよい。
▲甥「中々。左様に申(まをし)て誉(ほめ)ませう。
▲ヲヂ「総じて人は乗せらるといへども。誉(ほめ)らるゝは嬉しいものぢや。そこで某がふわと乗つて。いや我御料(わごれう)は。言はれぬ辞誼を云ふ人ぢや。親子の心安さは。此様な時ぢや。寛(ゆるり)と居て二服も三服もお飲みそいと申さうが。如何に其方(そなた)が茶好(ちやずき)でも。極(ごく)をニ服と得(え)飲(のむ)まいぞ。
▲甥「思ひもよらぬことで御ざる。
▲ヲヂ「手前をさつと仕舞はうず。後(のち)にはなるまい。迚(とて)もの事に暇乞ひの様子を教へう。お立(たち)やれ。
▲甥「畏つて御ざる。
▲ヲヂ「最前の酒は。五杯と七杯と十二杯よ。
▲甥「中々十二杯で御ざる。
▲ヲヂ「十二杯飲うだらば。如何に我御料(わごれう)は強いと云ふたりとも。舌元も立つまいし。足元も定まるまい。
▲甥「左様で御ざらう。
▲ヲヂ「其時科(とが)も無い扇をひねりまはして。今日は甚(いかい)御馳走で御ざる。殊にお茶と申(まをし)。御酒(ごしゆ)と申(まをし)。忝う畏(かしこ)まり候。重(かさね)ては鯉をこそ持(もつ)て参らずとも。鯲(どぢやう)なりとも。鮠(はえ)にても。持(もつ)て参らう。さらばさらばさらばと。おしやる程饗(もてな)いて戻したいが。我御料(わごれう)が鯉は獺(をそ)が喰(く)ふたとおしやる。某が鱸をはうてうが喰(く)ふたといふ。今の物語を喰ふた心をしてとつとゝお帰りそい。
▲甥「面目も御ざらぬ。
▲ヲ「好うおりやつた。

底本:『狂言全集 中巻 続狂言記』「巻の二 九 鱸庖丁」

校訂者注
 1:底本は「三刀づゞ」。
 2:底本は「飲(の)で」。
 3:底本は「五抔目」。以下も同様。
 4:底本は「▲オヒ」。