俄道心
▲主「罷出たる者は。此辺(このあたり)の者で御ざる。存(ぞんず)る仔細が御ざる程に。料裡人と出家を抱(かゝ)へうと存(ぞんず)る。先(まづ)高札をうたう。はつしはつし。一段と好う御ざる。
▲アト出家「これへ出たる者は。此辺(このあたり)に住居(すまゐ)致す者で御ざる。某(それがし)は二三日以前迄。片田の辺(あたり)に住居(すまゐ)致した漁師で御ざつた。漁師も何共後世も無心許(こゝろもとな)う御ざるに依つて。俄に斯様(かやう)に道心になつて御ざる。乍去(さりながら)。俄の出家で御ざれば。檀那は無し。何共致さうやうが御ざらぬ。夫(それ)に付(つき)て。聞(きけ)ば山一つ彼方(あなた)は。出家を抱(かゝ)へうと有る高札をうたせられた。身共が参つて有付(ありつ)かうと存(ぞんず)る。先(まづ)徐々(そろそろ)参らう。
[道行]やれやれ。何と致さうと存(ぞんず)る所に。一段のことで御ざる。何でも有付いて。仕合せ致さうと存(ぞんず)る。参る程にこれぢや。物もう。案内。
▲主「表に案内が有る。誰様(どなた)で御ざる。
▲アト「私は高札の面(おもて)に付(つい)て参つた出家で御ざる。
▲主「何と思ふてお出やつて。
▲ア「私無調法(ぶてうはふ)な者で御ざれども。抱へて下されましたらば。辱(かたじけ)なう御ざりませう。
▲主「いかにも抱へて遣らう。先(まづ)此方(こち)へ通りやれ。
▲ア「畏つて御ざる。通りませう。これに居りませう。やれやれ。嬉しや嬉しや。
▲シテ「罷出たる者は。此辺(このあたり)の者で御ざる。某は頃日(このごろ)迄も出家で御ざつたが。出家と申(まをす)も。殊の外何かにつけて。六ヶ敷(し)いもので御ざるに依て。俄に還俗致し。斯様(かやう)の躰(てい)になつて御ざる。乍去(さりながら)。俄に出家を落(おち)たれば。資本(もとで)は無し。商(あきなひ)もあらず。何共暮(くら)さう様が無いと存(ぞんず)る所に。山一つ彼方(あなた)に。有徳な人が。料理人を抱(かゝ)へうとある高札が上つたと申す。先(まづ)之へ参り何卒(なにとぞ)致し。料理人に有付(ありつ)かうと存(ぞん)ずる。先(まづ)徐々(そろそろ)参らう。
[道行]やれやれ。某も出家の時。精進の料理は大方致したれども。魚類の義は心許なう御ざる。乍去(さりながら)。彼(あれ)へ参りたらば。某一人でも御ざるまい、料理人も御ざらう程に。行々(ゆくゆく)は見習うて致さうと存(ぞんず)る。参る程にこれぢや。物もう。案内もう。
▲主「又表に案内が有る。誰様(どなた)で御ざる。
▲シ「いや私は高札の面に付(つい)て参つた料理人で御ざる。抱へさせられたらば。辱(かたじけ)なう御ざりませう。
▲主「成程聞届(きゝとゞけ)た。いかにも抱へてやらう。此方(こち)へ通りやれ。
▲ア「それは辱(かたじけ)なう御ざる。通りませう。
▲主「やれやれ。二人共まんまと抱へて御ざる。各々(めいめい)に役を申付(まをしつけ)ませう。なうなう出家。此経は法華ぢや。明日(あす)志の日ぢや。これを高々と読(よう)でたもれ。勝手で聴聞致すぞ。
▲ア「心得ました。読(よみ)ませう。
▲主「これこれ料理人。俄に客が有る。此鮒は鱠(なます)。鯛は焼物に。背切にしてたもれ。
▲シ「畏つて御ざる。
▲主「切目(きりめ)尋常にしてたもれ。
▲シ「心得ました。これはいかな事。早料理を吩咐(いひつけ)られた。これは何とやら云はれたが。赤い魚ぢや。
▲ア「これは扨。はや此経を読めとおしやる。何経とやら云はれた{*1}。升の底の様な字が幾箇(いくつ)も有るわ。何処から読まうぞ。
▲シ「此魚を何とせう。目を抉(くじ)らうか。皮を剥かうか。いやいや。先(まづ)かぶを離さう。
▲ア「なうなうこれこれ。
▲シ「誰様(どなた)で御ざるぞ。
▲ア「いやいや苦しう無い。身共は此内(このうち)参つた出家ぢや。心安い者でおりやる。最前から見れば。其鯛を。目を抉(くじ)らう。皮を剥かうとおしやるが。知つておしやるか。知らいでおしやるか。
▲シ「さればされば。其事ぢや。足下(こなた)も此内来たとおしやる程に。心安う存ずる。身共が身の上を懺悔致さう。某も此頃迄。足下(こなた)の様な出家で御ざつた。出家と申(まをす)者も。檀那あしらひの何の彼(か)のと申(まをし)て。とつと六ヶ敷い物ぢやに依つて。俄に此様に還俗致して御ざる。俄に還俗致したれば。商(あきなひ)致さう資本(もとで)は無し。何と致さうと存(ぞんず)る処に。此方(こなた)に料理人を抱へうと。高札が揚つたに依て。先(まづ)参つて抱へられたけれども{*2}。元出家なれば。魚類の料理は存ぜぬ。精進の料理は形(かた)の如く致した処に。はや此魚を料理せいとおしやるに依て。迷惑致した此躰(このてい)で御ざる。
▲ア「扨は左様で御ざるか。身共も懺悔致さう。此頃迄某は。片田の漁師で御ざつた。漁師も後世の程が心許(もと)なう存(ぞんじ)て。俄に斯様(かやう)に出家致したれども。檀那は無し。何共暮(くら)さうやうが無い処に。此方(こなた)に出家を抱(かゝへ)うと仰せられたに依て。何かなしにこれへ参り。有付(ありつい)て居りやる所に。はや此何経とやら読めと云ふて渡されて。迷惑致す。一字も読(よめ)ることでは御ざらぬ。足下(こなた)古(いにしへ)出家なら。経がなりませう。何経で御ざるぞ。
▲シ「どれどれ。夫は法華経で御ざる。
▲ア「誠にそれそれ。法華経と云はれました。
▲シ「なうなう。是に付(つい)て好い事が有る。身共は此頃迄出家であつたに依て。経の分は何でも読(よみ)ます。又足下(こなた)は元漁師なら。魚類の料理がなりませうぞ。
▲ア「いかにもいかにも。何なりとも料理致すわ。
▲シ「それなら一段好いことが有る。其経を身共が読(よみ)ませう程に。足下(こなた)は此料理をめされ。
▲ア「これは重畳のことぢや。さらば代りませう。これへ御座れ。
▲シ「それそれ。互に行々は習合(ならひあ)ふて致さう。
▲ア「左様で御ざる。代りませう。さアさア。其経を高々と読ませられ。
▲シ「心得ました。妙法蓮華経普門品第(ふもんぼだい)妙法蓮華経普門品第{*3}。
▲ア「扨も扨も気味のよい。水の流れる様な読(よみ)やうぢや。
▲シ「さアさア料理めされ。
▲ア「心得ました。此魚は何になると云はれました。
▲シ「されば其赤いは何で御ざる。
▲ア「此は鯛。又此は鮒で御ざる。定(さだめ)て鮒は鱠。鯛は背切にして。焼物で御ざらう。
▲シ「それそれさうで御ざる。
▲ア「夫なら先(まづ)此鯛の鱗をふいて。
▲シ「なうなう。それは先(まづ)皮を剥(むく)か。
▲ア「いやいや。皮を剥(むく)とは云はぬ{*4}。鱗をふくと申す。能(よ)う覚えさしませ。扨魚頭を突(つい)て。
▲シ「なうなう。夫はかぶを離すか。
▲ア「いやいや。これもかぶを離すとは申さぬ。魚頭を突(つく)と申す。能(よ)う覚えさしませ。足下(こなた)は皆精進物の事ばかりおしやる。扨背切(せきり)にして。
▲シ「又せろつほう(千六本)に刻むか。
▲ア「否々(いやいや)。これは背切(せぎり)にすると申(まをす)。能(よ)う覚えさしめ。
▲シ「心得ました。覚えました。
▲ア「扨此鮒を鱗をふいて。おろして。魚頭を突き。扨鱠に作るぢや。
▲シ「それははりに刻むか。
▲ア「いやいや。此は鱠に造ると申(まをす)。さアさア皆よいわ。さらば鱠(なます)を和(あへ)ませう。
▲主「両人の者に役を申付(まをしつけ)た。心許(もと)無う御ざる。見に参らう。これは如何(いか)な事。出家が料理する。料理人が経を読む。売僧(まいす)の皮ぢや。やいやいやい。
▲シ「そりやお出やつたわ。此方(こち)へおりやれ。
▲ア「妙法蓮華経。
▲主「やいやいそれは鯛ぢやが。読まれるものか。
▲ア「あゝ許させられ許させられ。
▲主「やるまいぞやるまいぞ。やいやい。それは勿躰無い。経を切るか。大盗人(おほぬすびと)。やるまいぞやるまいぞ。
▲ア「あゝ悲しや。許させられ許させられ許させられ。
▲主「やるまいぞやるまいぞ。
校訂者注
1・4:底本に句点はない。
2・3:底本のまま。
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