磁石
▲シテ「罷出たる者は。遠江の国の者で御ざる。某(それがし)終(つひ)に都を見物致さぬ。此度都へ上り。此処彼処(かしこ)を見物致さうと存ずる。先(まづ)急いで上らう。
[道行]皆人々の申さるゝは。若い時旅をせねば。老(おい)ての物語が無いと仰せらるゝに依て。俄に思ひ立(たつ)て御ざる。やア参る程にこれは尾張の国ぢや。扨も扨も聞(きゝ)及うだより好い国ぢや。急いで参らう。是は何処の国ぞ。何と近江ぢや。是も取分(とりわけ)大きな国ぢや。又彼(あ)の向(むかふ)に人立(たち)が有る。何事ぢや。何と云ふ。坂本の市ぢや。夫(それ)は幸(さいはひ)のことぢや。見物致さう。扨も扨も夥(おびたゞ)しい見世ぢや。何を買(かは)うとまゝぢや。是は小間物見世ぢや。色々の物が有るわ。
▲アト「罷出たる者は。坂本辺(へん)を走廻(かけまは)る。心の直(すぐ)に無い者で御ざる。今日は坂本の市で御ざる。彼(あれ)へ参り仕合せを致さうと存(ぞんず)る。やアこれに田舎漢(もの)と見えて。小間物見世に見入(みいつ)て居る。少(ちと)当(あたつ)て見やうと存(ぞんず)る
▲シテ「何を買(かは)うとまゝぢや。櫛。針。笄(かうがい)。
▲アト「櫛。針。笄。
▲シ「白粉(おしろい)。
▲アト「白粉。何と久しいの。
▲シ「其方(そなた)は誰ぢや。見知らぬが。
▲ア「いや身共は知(しつ)て居る。
▲シ「身共はものゝ国の者ぢや。
▲ア「それそれ。ものゝ国の人ぢや。
▲シ「扨は知つて居やる。有様(ありやう)に云はう。
▲ア「中々おしやれ。
▲シ「尾張の者ぢや。
▲ア「いかにも尾張の人ぢや。
▲シ「尾張の熱田の宮を伏拝(ふしをが)うで。
▲ア「それそれ拝(をが)うで。
▲シ「夫から右へ行(い)て。
▲ア「右へ行て。
▲シ「門(かど)から三軒目に大きな家がある。
▲ア「中々ある共(とも)。
▲シ「其家の者では居りない。
▲ア「いやいや其所(そこ)では無い。
▲シ「扨は能(よ)う知つて居やる。有様に云はう。
▲ア「中々おしやれ。知(しつ)て居る。
▲シ「真実は遠江の国見付(みつけ)の者ぢや。
▲ア「それそれ見付の人ぢや。
▲シ。「見付の町を一丁程行てひぢたわつて。角に大きな藪がある。
▲ア「いかにもある。
▲シ「其隣に小(ちひさ)い家がある。
▲ア「在るとも。
▲シ「其家の内の者で候。
▲ア「それそれ其処ぢや其処ぢや。
▲シ「扨は能う知つて居やる。近づきぢや。
▲ア「何と只今は何と思ふて上りやつた。
▲シ「さればされば。終に都を見ぬ故に。此処彼処を見物致さうと思ふて。上つておりやる。
▲ア「夫なら此処も不案内にあらう。身共が案内者(しや)して。名所を見せう。又京へは明日(あす)連立(つれだつ)て参らう。
▲シ「いかにも万事頼みますぞ。
▲ア「さアさア此方(こち)へおりやれおりやれ。
▲シ「心得た。
[道行]▲ア「なう何とものは無事かな。
▲シ「誰でおりやるの。
▲ア「それものは。
▲シ「伯母か。
▲ア「中々其伯母か。
▲シ「成程息災におりやるわ。
▲ア「夫は嬉しい。身共は其伯母に抱育(だきそだて)られた者ぢや。
▲シ「扨は足下(そなた)のことであらう。上方に子同前の者が有(ある)と常々云はるゝわ。
▲ア「成程身共でおりやる。参る程にこれが身共が常宿(じやうやど)ぢや。最早(もはや)今日は日も晩(ばん)じた。これに泊つて。明日都へ上らう。先(まづ)これヘお通(とほり)やれ。
▲シ「心得ました。苦しう無い。
▲ア「中々。
▲シ「なう身共は殊の外草臥(くたびれ)た。最早寝(ふせ)りますぞ。(寝る)
▲ア「やア最早寝るか。明日御目にかゝらう。扨も早う寝られた。なうなう亭主御ざるか。
▲亭「なかなかこれに居ます。やア其方(そなた)に逢(あひ)たかつた。
▲ア「何の用ぞ。
▲亭「先日(いつぞや)の者が。何の役に立(たゝ)ぬ者ぢや。何(どれ)ぞ好さゝうな者があらば代(かへ)てたもれ。
▲ア「何ぢや。役に立たぬ。夫なら幸の事ぢや。只今遠江の見付の者を。まんまとたらして。奥に寝さして置いた。此と代て遣らうぞ。
▲亭「一段ぢや。夫と代てたもれ。
▲ア「扨明日早々立つ程に。鳥目を貸してくりやれ。
▲亭「易いこと。何時(いつ)でも貸して遣らう。
▲ア「彼(か)の者奥に寝さして置いた。心許(もと)ない。最早行て寝ますぞ。
▲亭「中々休ましませ。明日御目にかゝらう。
▲ア「なうなう。何と湯水でも呑みたう無いか。やア草臥(くたびれ)た。能う寝らるゝ。身共も此処に寝るぞ。(側に寝る)
▲シ「なうなう可怖(おそろし)や可怖や。最前から合点のいかぬ者ぢやと思ふて。そつと起きて立聞きして居たれば。人売(ひとうり)に出逢ふた。先(まづ)急いで退(の)かう。さりながら宵に聞いた事がある。して退かう。亭主亭主。約束の物たもれ。
▲亭「心得た。これこれ。
▲シ「先(まづ)過分な。なうなう可怖(こは)や可怖や。急いで退かう。さりながら余り夜深(よふか)な。此(この)所に待(まつ)て夜明(あけ)て参らう。
▲ア「亭主亭主。約束の鳥目をくりやれ。
▲亭「いや最前渡した。
▲ア「いや未(まだ)請(うけ)取らぬ。
▲亭「いやいや渡した。
▲ア「夫は合点がいかぬ。見て来(こ)う。南無さん。宵の相談を聞いたかして退いた。
▲亭「それは憎いことぢや。
▲ア「身共は追(おつ)かけう。
▲亭「中々追掛て見やれ。程は行(ゆく)まい。
▲ア「さりながら丸腰ぢや。何ぞ一腰貸してたもれ。
▲亭「心得た。重代なれど貸すぞ。首尾好うして帰りやれ。
▲ア「心得た。扨も扨も憎い事かな。何方(どち)へうせた知らぬ。
▲シ「なうなう畏しや畏しや。夜が明(あけ)た。先(まづ)退かう。可怖(こは)い事に逢ふたことかな。先(まづ)急いで参らう。
▲ア「さればまだこれに居る。かつきめ。大盗人(ぬすびと)。やるまいぞ。一打(うち)にしてくれうぞ。
▲ア「さればまだこれに居る。かつきめ。大盗人(ぬすびと)。やるまいぞ。一打(うち)にしてくれうぞ。
▲シ「汝(おのれ)が人売ぢや。
▲ア「兎角汝(おのれ)打(うち)切つてくれうぞ。
▲シ「あゝあゝ。
▲ア「何のあゝと云ふたりと。一打(うち)にしてくれうぞ。
▲シ「あゝあゝ。
▲ア「汝(おのれ)は身共が一打にせうと云へば。此太刀を見てあゝと云ふが。何者ぢや。
▲シ「身共を知らぬか。某は唐と日本の境に。ちくらが沖といふ処に。磁石山(さん)と云ふ山がある。其山の磁石の精ぢや。夜前鳥目を呑うだれば。殊外(ことのほか)咽(のど)に詰つて悪い。今汝が太刀を見れば爽然(せいせい)として呑(のみ)たい程に。切先から只一呑(ひとのみ)にせうぞ。
▲ア「汝(おのれ)が其如くに口を開き。手を広げ。呑まうと思ふたりとも。呑まれまいぞ。さア呑うで見よ呑うで見よ。(切(きつ)て掛(かゝ)る)
▲シ「あゝあゝ。
▲ア「やア彼奴(きやつ)があゝと云へば。何とやら此太刀がど見たやうな。やいやい此太刀を見すれば何と有るぞ。
▲シ「呑まう呑まうと思ふて。心が爽然(せいせい)として好い。
▲ア「又隠せば何とあるぞ。
▲シ「隠せば心が消々(きえぎえ)として悪い。
▲ア「鞘にせば何と。
▲シ「いやいや差すな。命がきえる。
▲ア「夫は幸のことぢや。命を取らうが為にこれ迄追掛て来た。鞘に差(さし)て差し殺すぞ。
▲シ「いやいや差すな差すな。
▲ア「差すぞ差すぞ。
▲シ「差すな。
▲ア「差すぞ差すぞ差すぞ。やア彼奴(きやつ)が死んだ態(てい)する。最早(もはや)騙さるゝことでは無いぞ。起きよ磁石磁石。是は如何な事。誠に空(むなし)うなつた。人が見付てはなるまい。急いで退かう。乍去(さりながら)思ひ付(つけ)た事がある。彼奴が世に有(ある)時から。此太刀を好うだ。謀(はかりごと)にて二度ゑんぶに返さうと存(ぞんず)る。いかに磁石が氏神も慥(たしか)に聞きたまへ。元より磁石が好む此太刀を。鎺先(はゞきもと)抜きくつろげ。枕元にどうと置き。くわつくわつの文(もん)を唱へ。磁石が上をひらりひらりと飛び越えて。いかに磁石磁石。
▲シ[謡]「たそやあたりに音するは。
▲ア「いにしへのたうたうに。
▲シ「名を聞くだにも恨めしや。
▲ア{*1}「うらむるは道理なり。げに恨(うらむ)は道理なり。
▲シ「かづきめやるまいぞ。
▲ア「はア是は生返つた。又太刀を抜いて何とする。危険(あぶない)わ危険わ。
▲シ「何の危険。大盗人。切(きつ)てくれうぞ
▲ア「許せ許せ。
▲シ「やるまいぞやるまいぞ。
コメント