聟貰

▲おな「妾(わらは)は此辺(このあたり)の者で御座る。妾がつれあひ(連合(つれあひ))。何とも彼(か)ともならぬ酒飲(さゝのみ)で御座るが。酔狂(ゑひぐるひ)を為(し)られて。迷惑致します。それに付(つき)意見を申(まをし)たれば。暇をくれて御座る。別に参らう所は御座らぬ程に。恥(はづ)かしや。親のかたへ帰りませう。物も。御案内。
▲おなが親「聞いたやうな声がするが。誰も出ぬか。や。おなは何として来たぞ。這入(はいり)はせいで余所(よそ)余所しい有様な。
▲おな「いや父(とゝ)様。己(おれ)がかうして来るは{*1}。別の義では御座らぬ。内の食倒(くらひだふれ)が言事(いひこと)をしたによつて。戻りました。
▲おや「何と云ふぞ。子中(こなか)をなしたる中を。出るぞ引くぞと云ふ事はあるまい。一時(じ)も置かぬ。御帰りやす。
▲おな「なう。父(とつ)様。左様(さう)おつしやるは合点で御座る。然(さ)らば往(いに)まする。最早(もはや)逢(あひ)ますまいぞや。
▲おや「やいやい。それは何事を云ふぞ。身をも捨てう(捨(すて)てう)といふ言葉か。
▲おな「中々。
▲おや「いや。夫(それ)程に思ふならば。先(ま)づ這入れ。
▲おな「心得ました。
▲おや「してまた。汝(われ)は確(しか)と往(い)ぬまいと云ふ気か。かまへて親に恥をかゝすなよ。
▲おな「は。父(とつ)様。何為(し)に往(いに)ませうぞ。
▲おや「おう。したらゑいわ。
▲おな「なう。父(とつ)様。其恥知らずが。尋ねてなど来る事が御座ろ程に。此処へは来ぬとおしやれい。
▲おや「おう。倥(ぬか)る事では無いぞ。
▲むこ「罷出たるは。此辺(このあたり)の者で御座る。夜前女(め)ぢや者と言葉論を致したれば。ついと出て御座るが。其辺(そこらあたり)を尋ねますれども。居りませぬ。定めて親の所へいんだもので御座ろ。尋ねに参りたう御座れども。遂に未(ま)だ聟入りを致さぬ。よつて。何とも参り悪(にく)う御座る。と申(まをし)ても。参らずばなりますまい。いや。程無う此で御座る。物も。お案内。
▲おや「やら。きどくや。表に案内がある。お案内は誰様(どなた)で御座る。見馴(なれ)ぬ御方で御ざるが。
▲むこ「やア。見馴れさつしやれぬはお道理で御座る。此方(こなた)には。おな上臈といふて。娘子が御座らうが。
▲おや「中々御ざる。
▲むこ「したが。夫(それ)に付(つい)て参りまして御ざる{*2}。
▲おや「それはなんといふ事で御ざつたぞ。
▲むこ「いや。ちよつと両人(ふたり)諍(いさかひ)をめされまして。お出やりまして御ざる。恥かしながら。尋ねて参りました。
▲おや「ふん。扨は此方(こなた)は聟殿で御ざるか。
▲むこ「はゝ。
▲おや「はて。此方(こち)へは帰りませぬが。随分其方(そなた)を尋ねて下されい。
▲むこ「畏(かしこまつ)て御ざる。是は如何(いか)な事。此処へも戻らぬと申すが。何と致したもので御ざろぞ。
▲おな「なう{*3}。父(とつ)様。恥知らずが来ました。
▲おや「然(され)ばいやい。
▲むこ「はゝ。女どもの声がする。物も。
▲おや「いや。又表に案内がある。しゝうこなたは何として御ざつたぞ。
▲むこ「何としてといふ事があるものぞ。女どもの声がした{*4}。通さつしやれい。
▲おや「やい。其処な者。おぬしが所へは。最早彼(あ)の娘はやらぬぞ。
▲むこ「なう。舅殿。彼(あ)の内に居るかなばうしは。此方(こなた)の娘の為には子では御ざらぬか{*5}。又。戻すまいとお仰(しや)るそなたの為には。孫ではおぢやらぬか。母を尋ぬるが可憐(かはゆ)うはおぢやらぬか。
▲おや「何程其様に吠えたとても。往なす事では無いぞ。
▲おな「なう。父(とつ)様。彼(あの)様に来て又泣きやれば。往ないでも叶ひますまい程に。往なして下されい。
▲おや「いや。許す事では無い{*6}。
▲むこ「おな。それぢや。しうと。しうと。一度再(ふたゝび)呉(く)れた女房をば。戻すまいと云ふか。連れて行て見せう。
▲おや「やる事では無いぞ。
▲むこ「何の連れて行かいでは。
▲おや「こりや何とするぞ。
▲むこ「舅覚えたか。おなこれへ這入れ。
▲おな「父(とつ)様。祭には来ませうぞや。
▲おや「親を踏倒して行き居る奴は。何によぼなれや。其方(そつち)に居れ。

底本:『狂言全集 上巻 狂言記』「巻の一 五 聟貰
 1:底本は「已(おれ)が」。
 2:底本は「夫(をれ)に付(つい)て」。
 3:底本は「なう。父(とつ)様。」。
 4:底本に句点はない。
 5:底本は「娘のあには」。
 6:底本は「計(ゆる)す事」。