文相撲
▲シテ(真中にて名乗る)「八幡大名です。かやうに過(くわ)は申せども。使ふ者は只一人。一人にては人が使ひ足らぬ程に。新坐の者を大分抱(かゝ)やうと存ずる。先(まづ)。太郎冠者(くわじや)を呼出して申付(まをしつけ)やう。やいやい。太郎冠者居るか。
▲太「はア。
▲シテ「ゐたか。
▲太「御前に居ります。
▲シテ「念なう早かつた。汝を呼出す事。別の事でない。汝一人では人が使ひ足らぬ。新坐の奉公人を大分抱(かゝ)やうと思ふが。何とよかろか。
▲太「これは。中々能(よ)う御坐りましよ。
▲シテ「何程おいてよかろ。
▲太「されば。何程が能う御坐りましよぞ。
▲シテ「やア。千人程おかう。
▲太「それは大分の人で御坐る。置(おき)所が御坐るまい。
▲シテ「いや。広い野山へ追ひ放しておかうまで。
▲太「中々。野山において奉公はいたしませぬ。
▲シテ「それなら。くわツと減(へ)さう。もの程おかう。
▲太「何程で御坐る。
▲シテ「五十程おかう。
▲太「それでも。勝手の堪忍はつゞきますまい。
▲シテ「堪忍といふは。食物(はみもの)の事か。
▲太「中々。左様で御坐る。
▲シテ「深山(みやま)にある水を飲(のま)しておけ。
▲太「いやいや。水など食べましては。御奉公はいたしませぬ。
▲シテ「それなら。これも。もそつと減さう。づんと減して二人おかう。
▲太「迚(とて)ものことに。も一人減したらよう御坐ろ。
▲シテ「いやいや。汝ともに二人ぢや。
▲太「すれば新坐者は一人で御坐る。
▲シテ「中々。左様(さう)ぢや。
▲太「や。これが一段よう御坐りましよ。
▲シテ「其の義なら。汝は上下(かみしも)の街道へ行(い)て。よささうな者が来たらば。抱へてこい。
▲太「畏つて御坐る。
▲シテ「最早(もはや)行くか。
▲太「かう参ります。
▲シテ「やがて戻れ。
▲太「はア。
▲シテ「えい。
▲太「はア。やれやれ。急な事を申付(まをしつけ)られた。先(まづ)街道へ参り。能からう者が参つたら。抱ヘて参らうと存ずる。誠に。只今迄は某(それがし)一人で。殊外(ことのほか)苦労いたして御坐るが。新坐の者が参つたらば。楽を致すで御坐らう。参る程にこれが街道ぢや。先(まづ)此(この)所に待つて居やうと存ずる。
▲取手(とりて)「罷出たるものは。東国方の者で御坐る。某。今に上方を見物致さぬほどに。此度都へ上り見物致し。またよさゝうな所もあらば。奉公致さうと存ずる。先(まづ)。そろそろ参らう。誠に人々の仰せらるゝは。若い時旅をせねば老いての物語が無いと申さるゝに依つて。俄に思(おもひ)立つて御坐る。
▲太「やア。似合(にあは)しい者が参つた。言葉をかけて見やう。喃(なう)々。是々。
▲取手「此方(こち)の事か。何事でござる。
▲太「そなたは。どれからどれへ行(ゆく)人ぞ。
▲取手「私は奉公が望(のぞみ)で。都へ上ります。
▲太「夫(それ)は幸(さいはひ)ぢや。身共の頼うだ人は大名ぢや。これへ肝(きも)入れて出してやろ。
▲取手「それは忝う御坐る。御肝入られて下され。
▲太「其の義なら。只今同道致さう。さアさア。おりやれおりやれ。
▲取手「参ります。
▲太「喃(なう)々。何と其方(そなた)に芸はないか。
▲取手「されば。斯様(かやう)の者も芸になりましよか。
▲太「何でおりやる。
▲取手「弓。鞠。庖丁。碁。双六。馬の伏起(ふせおこし)。やつと参つたを覚えました。
▲太「扨も扨も万能の人ぢや。其の通(とほり)申したらば。お気に入るであらう。さアさア。早うおりやれ。やア。何彼(なにか)と申すうちに。これぢや。其方(そなた)を同道した通申さう。それにて待ちやれ。
▲取手「心得ました。
▲太「頼うだお方。御坐りますか。太郎冠者が帰りました。
▲シテ「やア。太郎冠者が戻つたさうな。太郎冠者。戻つたか戻つたか。
▲太「御坐りまするか。御坐りまするか。
▲シテ「戻つたか。
▲太「只今帰りました。
▲シテ「やれやれ。骨折や骨折や。何と。新坐の者を抱へて来たか。
▲太「成程。抱へて参りました。
▲シテ「どこもとに居るぞ。
▲太「御門外(ごもんぐわい)に待(また)せておきました。
▲シテ「それなら。物は初(はじめ)からが大事ぢや。彼奴(きやつ)が聞く様に過(くわ)を云はう程に。汝は色々にこたへ。
▲太「畏つて御坐る。
▲シテ「やいやい。太郎冠者居るか。
▲太「はア。
▲シテ「床机を持つてこい{*1}。
▲太「畏つて御座る。お床机で御坐る。
▲シテ「何と。今の声を聞かうなア。
▲太「中々。承りましよ。
▲シテ「それなら。あれへ行(い)ていはうは。頼うだ人。只今広間へ出られた。あれへ出て御目見えをしやれ。お目に入つたら。其の儘御げんざうであろ。又御気に入らずは逗留があらうといふて。これは汝が云分(いひぶん)にして。彼奴(きやつ)に深う思はせ。
▲太「畏つて御坐る。喃(なう)々。をりやるか。
▲取手「中々。これに居ります。
▲太「頼うだお方。只今広間へ出でさせられた。あれへ出てお目見えをしやれ。御目が参つたら。当分に御げんざうであろ。又御気に入らずば。逗留のある事があらう。左様心得て出やれ。
▲取手「心得ました。
▲シテ「やいやい。太郎冠者。あるかやい。
▲太「はア。
▲シテ「侍衆に徒(たゞ)居られうより矢の根を磨かれといへ{*2}。
▲太「はア。
▲シテ「また中間(ちうげん)共には。頃日(このごろ)奥から引かせた。百匹斗(ばかり)の馬の湯洗(ゆあらひ)をさせい。
▲太「はア。
▲シテ「今日は天気がよい。若い衆の鞠をなされう程に。かゝりへ水をまかせておけ。
▲太「はア。新坐の者で御坐る。
▲シテ「彼奴(きやつ)か。
▲太「中々。
▲シテ「とつと利根(りこん)さうな奴ぢや。さりながら。見たと違うて鈍(どん)な奴もあるものぢや。何ぞあれに芸はないか。問うて来い。
▲太「夫は路次で尋ねましたれば。斯様なものも芸になりましよかと申します。
▲シテ「何ぢや。
▲太「弓。鞠。庖丁。碁。双六。馬の伏起。やつと参つたを覚えて居ると申します。
▲シテ「あの。彼奴が。
▲太「中々。
▲シテ「それは万能の奴ぢや。さりながら。其の中(うち)に何ぞ得てゐる芸はないか。問うて来い。
▲大「畏つて御座る。喃(なう)々。其方(そなた)の芸の中(うち)に。何ぞ得てゐる事は無いかと仰せらるゝわ。
▲取手「中にも。相撲をえて取ると仰せられ。
▲太「心得た。中にも。相撲をえて取ると申します。
▲シテ「何と。相撲をえて取る。
▲太「中々。
▲シテ「彼奴は。身共に生れ合ふた奴ぢや。夫なら相撲を見やう程に。これへ出て取れといへ。
▲太「畏つて御座る。喃々。相撲を見やうと仰せらるゝ。出て取りやれ。
▲取手「如何にも取りましよ程に。お相手を下されと仰せられ。
▲太「心得た。如何にも取りましよ程に。お相手を下されと申します。
▲シテ「はて扨。独(ひとり)出てとれといへ。
▲太「畏つて御坐る。独とれと仰せらるゝ。
▲取手「いや。独取りましては。勝負が知れませぬ。お相手を下されとおしやれ。
▲太「心得た。独とりましては。勝負が知れませぬ。是非お相手を下されと申します。
▲シテ「何と。勝負(かちまけ)が知れぬ。これも尤ぢや。それならば。誰と取らせうぞ。風呂をたく道雲ととらせうか。
▲太「いや。あれは。年寄りまして取りますまい。
▲シテ「最早(もはや)すねがながれうなア。やア。汝とれ。
▲太「いや。私は終(つひ)にとつた事は御坐らぬ。
▲シテ「やア。弱い奴ぢや。相撲は見たし相手はなし。是非に及ばぬ。身共がとらうか{*3}。取るか問うてこい。
▲太「畏つて御坐る。喃々。相撲取(とり)も数多(あまた)あれども。折節方々へ遣はされた。夫故。頼うだ人の御取(おとり)なされうと仰せらるゝわ。とりやるか。
▲取手「中々。お相手に嫌(きらひ)は御坐らぬ。取りましよと仰せられ。
▲太「心得た。お相手に嫌はない。取りましよと申します。
▲シテ「何と。とらう。扨は彼奴が相撲もしれた。身共に勝つたれば。誰が扶持をせう。勿論まけたらば。尚扶持をせまい。是非に及ばぬ。とらずばなるまい。身拵(みごしらへ)して出よといへ。
▲太「畏つて御座る。さアさア。身拵して出やれ。
▲取手「心得ました。
▲シテ「やいやい。太郎冠者。身拵せい。身拵がよくば出よといへ。
▲太「畏つて御座る。さアさア。拵がよくば出やれ。
▲取手「心得ました。
▲シテ「太郎冠者。行司をせい。
▲太「畏つて御座る。御手ッつ。
▲二人「やアやアやア。(シテ負ける)
▲太「これ。申し申し。何となされました。太郎冠者で御坐る。何となされました。何となされました。
▲シテ「扨も早い相撲ぢや。やつと云うて手合(てあはせ)をするや否や。はつしはつしと打つてきたれば。眼(まなこ)がくらくらとした。何といふ手ぢや。問うてこい。
▲太「畏つて御坐る。喃々。今の手は何といふ手ぢやと仰せらるゝわ。
▲取手「只今の手は。坂東方に流行(はや)る。目隠(めかくし)と申す手ぢやと仰せられ。
▲太「心得た。只今の手は。坂東方にはやる。目隠と申す手ぢやと申します。
▲シテ「何ぢや。目隠といふか。
▲太「中々。
▲シテ「いつぞや伯父者人(をぢじやひと)から来た相撲の書があらう。取つてこい。
▲太「畏つて御座る。相撲の書で御坐る。
▲シテ「これが書か。書いた物は調法ぢや。なになに。相撲の相撲の。是は何ぢや。
▲太「私も読めませぬ。
▲シテ「相撲の書の事でがなあらう。
▲太「左様で御坐りましよ。
▲シテ「何々。相撲の書の事。一ツ目隠。ちやうと打つ。其の時貌をひくべし。やいやい。今の時貌をひけばよいもの。
▲太「左様で御坐る。
▲シテ「一ッ。右をもつて左へ廻し。左を以つて右へ廻し。小股にかけてすでいどう。やいやい。も一番取らうといへ。
▲太「畏つて御座る。喃々。も一番取らうと仰せらるゝ。お出やれ。
▲取手「心得ました。
▲シテ「太郎冠者。行司せい。
▲太「畏つて御座る。お手ッ。
▲二人「やアやアやア。
▲シテ「やアやア。さアさア。勝つたぞ勝つたぞ。
▲太「お勝ちなされました。お勝ちなされました。
▲取手「これ。喃々。太郎冠者どの。太郎冠者どの。
▲太「呼びます。行て参りましよ。
▲シテ「いてこい。なるまいと云へ。
▲太「何事でおりやる。
▲取手「相撲の手は。数多(あまた)御坐れども。只今の様に。拳(こぶし)をもつてはらせらるゝ手は。何と申す手ぢや。問うて下され。
▲太「心得ておりやる。申しますは。相撲の手は数多ござるが。只今の様に。拳をもつてはらせらるゝ手は。何と申す手ぢやと申します。
▲シテ「あれへ行て云はうは。相撲の手は。砕けば百手にも二百手にも取る。中にも只今の手は。都方(がた)にはやる。はつ手はり廻すはり相撲。どうなりとも取(とり)たい様に取れといへ。
▲太「畏つて御座る。喃(なう)々。只今仰せられたをお聞きやつたか。
▲取手「中々。これで一々聞きました。其の義なら。今一番取りましよと仰せられ。
▲太「心得た。其の通り申して御坐れば。左様で御坐るなら。今一番とりませうと申します。
▲シテ「何と。今一番取らうといふか。扨は。負腹(まけはら)を立て居ると見えた。是非に及ばぬ。取らう程にこれへ出せ。
▲太「畏つて御座る。
▲シテ「やいやい。太郎冠者。
▲太「何事で御坐る。
▲シテ「同じか無用にせいといへ{*4}。
▲太「畏つて御座る。喃々。夫なら取らうと仰せらるゝ。身拵してお出やれ。同じくは無用にしやれ。
▲取手「いやいや。是非共とりましよ。
▲太「また私の行司致しましよ。お手ッ。
▲二人「やアやアやア。お手ッ。参つたの。(シテ負ける)
▲シテ「相撲の書。何の役に立たぬものぢや。やア。己(おのれ)は未(ま)だ爰(こゝ)にをるか。
▲太「いや。私は太郎冠者で御坐る。
▲シテ「何の。太郎冠者。お手ッ。まゐつたの(小股とり打ちこかし。楽屋へ入るなり。)。
底本:『狂言全集 下巻 狂言記拾遺』「巻の一 二 文相撲」
校訂者注
1・2:底本に句点はない。
3:底本は「身共がとらうが」。
3:底本は「身共がとらうが」。
4:底本のまま。
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