通円
▲ワキ[次第]「ほろりとしたる往来の。ほろりとしたる往来の。茶替(ちやかは)りのなきぞ悲しき。
[詞]これは坂東方(ばんどうがた)の者で御坐る。某(それがし)未(いまだ)宇治の里を見ず候ふ程に。此度(このたび)思ひ立ち。宇治の里へと心ざし候ふ。
[ハル]{*1}大(おほ)水の先に流るゝ杤柄(とちがら)も。先に流るゝ杤柄も。身を捨てゝこそ浮(うか)むなれ。[下]{*2}我も身をすて浮まんと。[ハル]漸う急ぎ[下]行く程に[クル]{*3}。宇治橋の橋の柱の{*4}。擬宝珠(ぎぼしゆ)のもとに着きにけり。
[詞]。急ぐ程に。これは早(はや)宇治の里に着いて御坐る。これなる茶屋を見れば。茶湯(ちやたう)を手向け置かれて候ふ。如何様(いかさま)。いはれの無き事は御坐有るまい。所の人に尋ね申さばやと存じ候ふ。所の人の御坐候ふか。
▲間(あひ)「所の者と御尋ねは。如何様(いかやう)なる御事にて候ふぞ。
▲ワキ「これは坂東方の者にて候ふ。此所(このところ)始めて一見仕(つかまつ)り。これなる茶屋を見れば茶湯を手向け。由ありげに見えて候ふ。謂(いはれ)のない事は候ふまじ。教へて給はり候へ。
▲間「さん候ふ。あれは。古(いにし)へ通円と申す茶屋坊主の御坐候ふが。茶を点死(たてじに)に致され候ふ。所のもの痛はしう存じ。今に。命日には茶湯を手向け吊(とむら)ひ申し候ふ。御僧(おんそう)も。逆縁ながら吊ふてお通りあれかしと存じ候ふ。
▲ワキ「懇(ねんごろ)に御物語。満足申し候ふ。さらば立越(たちこ)し。吊ふて通らうずるにて候ふ。
▲間「又御用もあらば。重ねて御申し候へ。
▲ワキ「頼み申さうずるにて候ふ。
▲間「心得ました。
▲ワキ[謡]「おもひよるべの茶屋の中(うち)。おもひよるべの茶屋の中。むしろも古き此の床(とこ)に。破衣(やぶれごろも)を[下]かたしきて。夢の契(ちぎり)を待たうよ。夢の契(ちぎり)を待たうよ。
▲シテ{*5}「大場点(おほばたて)飲まし客へむねにしづむやう宇治川の水くみて、あら昆布こひしや。お茶方(かた)の。[ハル]あはれはかなき湯の中に。
[地]𨫝子(くわんす)のつるのあつきにも。
▲シテ「にゆる茶の湯はおもしろや。
▲ワキ{*6}「ふしぎやな。まどろむ枕の上を見れば。法躰(ほつたい)の身として柄杓を腰に差し。まぼしの如く見えたまふは。いかなる人にてましますぞ。
▲シテ[色]{*7}「これは古(いにしへ)此の所にて。茶を点死(たてじに)にせし。通円といふ茶屋なり。
▲ワキ[詞]「扨は通円の幽霊なるかや。最後の有様語り給へ。後(あと)を吊ひ申すべし。
▲シテ[詞]「さあらば。其の時の有様語り申さん。後をとふて給はり候へ。
▲シテ[詞]「去(さる)程に。宇治の供養今を半(なかば)と見えし所に。都の道者(だうしや)と打(うち)見えて。通円が茶を飲み尽さんと。
[上]名乗(なのり)もあへず三百人。
[地]三百人。[ハル]口あきを広げ茶を飲まんと{*8}。群居(むれゐ)る旅人に。大茶を点(た)てんと茶杓押取(おつと)り。ひくずどもをちやちやつと打(うち)入れて。浮きぬ[下]沈みぬたちかけたり。
▲シテ[下]「通円下部(しもべ)を下知していはく。
[地][下]水の逆(さか)巻く所をば。[ハル]砂ありと[下]知るべし。弱きものには柄杓をとらせ。強(つよき)に水をになはせよ。流れんものには茶筌のもたせ{*9}。互(たがひ)に力を合(あは)すべしと。只一人の下知によりて。さばかりの大場なれども。一騎も残らずたてかけたてかけ。ほさきを揃へて。こゝを[下]最後とたてかけたり[ハル]。去(さる)程に。入乱(いりみだ)れ。我も我もと飲み居れば。通円が頼みつる。茶碗火入(ひいれ)もうち破(わ)れば。
▲シテ[下]「是迄と思ひて。
[地]是迄と思ひて。平等院の椽(えん)の下。[ハル]これなる砂のうちにうちはを打ちしき。衣(ころも)ぬぎすて。座をくんで。さすが名を得し通円が。
▲シテ[上]「うづみ火の燃えたつことも[下]なかりしに。湯のなき時はあわも立てられず。
[地][上]後(あと)とひたまへ御僧よ。[ハル]かりそめながらこれとても。他生の種の縁に。今うちはの[ハル]砂の草のかげに。帰るとてうせにけり。後(あと)ちやちかくれ失せにけり。
底本:『狂言全集 下巻 狂言記拾遺』「巻の一 五 通円」
校訂者注
1:底本は「大水(おほ)(ハル)の」。
2:底本は「我(われ)(下)も」。
3:底本は「程(ほど)(クル)に」。
4:底本は「宇治橋の橋のはし柱の」。
5・6:底本、5▲シテ「から6▲ワキ「まで傍点がある。
7:底本、「茶を」以降に傍点がある。
5・6:底本、5▲シテ「から6▲ワキ「まで傍点がある。
7:底本、「茶を」以降に傍点がある。
8・9:底本のまま。
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