樋の酒
▲主(わき正面にて名乗る)「これは。この辺(あたり)のもので御座る。某(それがし)。今日さる方(かた)へ用事ありてまゐる。夫(それ)に就き。身どもの留守になれば。両人ののさ者共が。酒を食べ乱舞などなすと申す。これでは何とも留守が心もとなう御座る。今日は身どもがきつと思案をめぐらし。致しやうが御座る。先(まづ)呼出して申付(まをしつ)けやう。やいやい。太郎冠者(くわじや)。あるか。
▲シテ「はア。御前に居ります。
▲主「早かつた。汝を呼出す事別のことでない。今日は或方(さるかた)へ用事あつて行く。能(よ)う留守をせい。
▲シテ「畏つて御座る。御留守は御気遣(おきづかひ)なされますな。
▲主「それに就き。今日は身どもの存ずる仔細がある程に。汝はこの次の間に。一人留守をせい。
▲シテ「畏つて御座る。
▲主「又。次郎冠者にもいひ付(つけ)る事がある。呼出せ。
▲シテ「心得ました。喃(なう)々。次郎冠者めす。
▲次「何ぢや。召すか。
▲シテ「中々。
▲次「心得た。御前に居ります。
▲主「其方(そち)を呼出すこと別の事でない。今日は或方へ行く程に。能う留守せい。
▲次「畏つて御座る。両人共に能う留守を致しましよ。
▲主「いやいや。今日は存ずる仔細がある程に。汝は奥の間に。一人居て留守をせい。
▲次「これは何とも心得ませぬ。両人一所に居りまして。留守をいたしましよ。
▲主「いやいや。夫はならぬ。太郎冠者は次の間。汝は奥の間にゐて。能う留守せい。
▲次「畏つて御座る。
▲主「さアさア。身どもがゐる中(うち)に。両方へはいれ。
▲二人「心得ました。
▲主「先(まづ)。下にとうと居よ{*1}。
▲二人「畏つて御座る。
▲主「能う留守をせい。やがて戻らうぞ。
▲二人「やがてお帰りなされませ。
▲主「やア。一段と仕済(しすま)した。先急いで参らう。
▲シテ「扨も扨も合点の参らぬ事ぢや。終(つひ)に。此の様なことは今迄ない事ぢや。誠に思(おもひ)付いた。留守なれば両人酒を飲み。乱(みだり)に致す気遣(きづかは)しさに。此の様に言(いひ)付けられたと見えた。是非もない事ぢやまで。
▲次「扨も扨も。いかう淋しい事かな。いつ余所(よそ)へ行かるゝとても。両人一所に留守をするに。今日は何と思ふて。此の様に別におかるゝ知らぬ。太郎冠者は何んとして居るぞ知らぬ。
▲シテ「次郎冠者は何んとして居るぞ知らぬ。次郎冠者次郎冠者。そこに居るか。
▲次「やア。太郎冠者か。何と淋しい留守ではないか。
▲シテ「さればされば。淋しい事ぢや。身共は。今日も余所へ行かるゝなら。汝と酒を飲まうと思ふて。調(とゝの)へておいたわ。
▲次「夫は羨しい事ぢや。定めて。最早(もはや)飲(の)うたであろ{*2}。
▲シテ「いやいや。一人は飲まれぬ。身共ものみ。其方(そなた)にも飲ましたいなア。
▲次「それは過分な。何卒(どうぞ)飲む様に。思案のしてみさしめ。
▲シテ「されば。何卒(なにとぞ)此のへいに穴をあけて。差(さし)出す様にしたいが。やア。茲(こゝ)に幸(さいはひ)な事があるぞ。鼠があけたか穴がある。これから仕様があるぞ。さアさア。飲め飲め。此の竹の先をもて。これから樋(ひ)をかけて。酒を流すぞ。
▲次「これは出来た。又思案もあるものぢや。先(まづ)我御料(わごれう)飲うで差さしませ。
▲シテ「夫なら。身共一つ飲うでさすぞ。さアさア。是からさすぞ。酒を流すぞ。うけてゐさしませ。
▲次「心得た。受けて居るぞ。はア。酒はくるわくるわ。応。丁(ちやう)どある。おかしませ。飲むぞ飲むぞ。扨も扨も斯(か)うして飲めば。とりわけ何時(いつ)もより旨いわ。さらば。此の盃をそこへ差すぞ。
▲シテ「いやいや。序でにも一つ飲ましめ。又つぐぞつぐぞ。
▲次「左様(さう)も致さうか。受けて居るぞ。これこれ。最早あるわあるわ。
▲シテ「何と。飲むか飲むか。うまい事か。
▲次「何ともいはるゝ事ではない。覚(おぼえ)はないよい気味ぢや。一息にはいかぬ。下におかう。いざ。ちつと唄はうまいか。
▲シテ「一段よかろ。
▲二人{*3}「さゝんさア。浜松のおとは。さゝんさア。
▲次「さらば。上げうか。さア飲うだ。これを其所(そこ)へ差すぞ差すぞ。
▲シテ「如何(いか)にも戴いた。一つ食べう。さアさア。もそつと唄はしめ。
▲二人{*4}「つはものゝ交頼みある中の酒宴かな。
▲シテ「あら面白面白。さア。又そこへ差すぞ。
▲次「いやいや。も一つ重ねて飲ましませ。
▲シテ「いや。大盃ぢや。夫では過ぎる。
▲次「是非とも飲ましめ。
▲シテ「夫なら。も一つ飲うでやろ。受けもつた。もそつと唄はう。
▲二人{*5}「またはなの春は。清水の。たゞたのめ。頼もしき春もちゝの花さかり{*6}。
▲次「扨も扨も面白い事ぢや。飲うだ飲うだ。
▲シテ「さア飲うだ。差すぞ差すぞ。
▲次「戴いた。さアさア。ついでたもれ。
▲シテ「さらば。つぐぞつぐぞ。
▲次「応。あるわ。溢(こぼ)れる溢れる。つよい酌ぢや。最早上りかぬるわ。
▲シテ「何卒(どうぞ)して。早うあげさしませ。大方。酒がみなになつたぞ。
▲次「それなら上げるぞ。さア飲うだわ。はア。扨も扨もよい気味ぢや。酔ふたわ酔ふたわ。其所(そこ)へ戻すぞ。最早とらしませ。
▲シテ「最早飲まぬか飲まぬか。
▲次「如何なこと。ならぬぞならぬぞ。納めに。も一つ飲ましませ。
▲シテ「夫なら。も一つ飲うて納(をさめ)に致さう{*7}。また一つあるわ。これでは大分ぢや。過ぎるであらう。はア。うましうまし。いかう酔ふたわ。次郎冠者。とるぞとるぞ。
▲次「あ。よう取りやれ取りやれ。
▲シテ「身共も沢山(いかう)酔ふた。さらばちと横にならう。
▲次「何といふ。寝るか寝るか。頼うだ人の留守を言付(いひつけ)られた。寝てはなるまいぞ。やア。太郎冠者。早(はや)ねたか。音がせぬ。よいとは仰(お)しやるまい。はア。太郎冠者が寝たれば。どうやら身共も寝(ねむ)りかくる。これは堪忍がならぬ。寝やう。
▲主「太郎冠者。次郎冠者。留守において御座る。此度(このたび)は酒を飲まぬ様に。別々に致しておいた。いつもとは違ひ。留守をして居るで御座らう。先(まづ)。帰らうと存ずる。これは如何なこと。壁に穴をあけて。あれからこれへ。これは何ぢや。扨も扨も。何共ならぬ奴の。樋を仕掛けて酒を飲みをつたと見えた。太郎冠者。次郎冠者。どちへ失せた。これは扨。伏(ふせ)つて居るか。次郎冠者奴(め)も。正体もなう酔うて伏り居つた。己(おのれ)何とせう{*8}。横着者。やい。起上(おきあが)らぬか。起上らぬか。
▲次「いやいや。最早食べまい。
▲主「食べまいとは。身共じやが。
▲次「頼うだ人か。許させられ。
▲主「やるまいぞやるまいぞ。やア。己。まだ伏つて居るか。悪(にく)い奴の。起きおらぬか。起きおらぬか。
▲シテ{*9}「あゝ。酔ふたわ酔ふたわ。もそつと唄はう。さゞんざア。
▲主「やア。おのれ。まださゞんざア。悪(に)くい奴の。何とせうぞ。
▲シテ「頼うだお方。お許されませ。あゝ悲しや。今から飲みますまい飲みますまい。
▲主「何の。飲むまい。やるまいぞやるまいぞ。
▲シテ「許させられ許させられ。
底本:『狂言全集 下巻 狂言記拾遺』「巻の一 七 樋の酒」
校訂者注
1:底本に句点はない。
2:底本のまま。
3~5:底本、これらには全て傍点がある。
3~5:底本、これらには全て傍点がある。
6・7:底本のまま。
8:底本は「已(おのれ)」。
9:底本、「さゞんざア」に傍点がある。
8:底本は「已(おのれ)」。
9:底本、「さゞんざア」に傍点がある。
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