石神
▲女「妾(わらは)は。此の辺(あたり)の誰と申す者の女房で御坐る。こちの人は常々大酒を食(た)べ。酔狂を致し。又しても又しても妾を打擲致します。何とも気の毒に御坐る。呆れ果てましたによつて。暇(ひま)を乞棄(こひすて)に致し。出て参つて御坐る。これより親里へ帰らうと思ひます。さりながら。妾が嫁入致して参る時の肝入(きもい)られた人が御坐る。これへ参り此の様子を申し。それより親里へ帰らうと存じます。扨も扨も縁とは申しながら。あの様な男を持つて迷惑な事で御坐る。ひさひさ馴染(なじ)うで帰ると申すも。気の毒で御坐る。やア。参る程に。これで御坐る。物も。案内も。
▲アト「表に案内とある。何方(どなた)で御坐る。
▲女「いや。妾で御座ります。
▲ア「やア。能(よ)うこそ御出でやつたれ。何と思うておりやつたぞ。
▲女「されば。其の事で御ざる。私の男は明暮(あけくれ)大酒を食べ。酔狂斗(ばかり)致し。其の上に妾を打擲致します。ふつゝりと飽(あき)果てましたに由つて。暇を乞棄に致し出て参りました。定めて。これへ尋ねに参る事も御坐ろ。参つたら。成程これへ参つたが。最早(もはや)我御料(わごりよ)に飽(あき)果てゝ。暇を呉(く)れる様にというて。石神(いしがみ)へ毎日毎日。神楽あげに参ると仰せられて下され。此の上は。何方(どなた)が中直(なかなほし)なされても。あの男はふつふつ厭で御坐ります。
▲ア「はて扨。夫(それ)は先(まづ)気の毒ぢや。さりながら。其方(そなた)の言分(いひぶん)を聞けば尤ぢや。定めてこれへ参る事があらう。見えたらば其の通り云はう程に。心安く思(おも)やれ。
▲女「忝なう御坐ります。呉(くれ)々頼みます。此の様に出て参る妾の心を。推量なされて下され。よい心では御坐りませぬ。愈(いよいよ)只今の通り頼みまする。最早(もはや)斯(か)う参ります。
▲ア「お行きやるか。
▲二人「さらばさらばさらば。
▲女「扨も扨も久々馴染みました中を。此の様に別れますは。情ない事で御坐る。先々。里へ帰りましよ。
▲シテ「罷出でたる者は。此の辺(あたり)の者で御坐る。某(それがし)が女共は。方(かた)々祈祷等(など)致す神子(みこ)で御坐る。私が少し酒を食べ。何彼(なにか)と申して御坐れば。暇を乞ひ。親里へ帰りて御坐る。定めて。われが媒人(なかうど)なされた方へ。参らぬ事は御坐るまい。誰殿へ参り。様子を尋(たづね)うと存ずる。誠に。女と申す者は愚(おろか)な者で御坐る。身共が酒に食べ酔ひ。何彼と申したを誠と存じ。帰つて御坐る。愚痴なもので御坐る。やア。参る程に是ぢや。物まう。案内も。
▲ア「表に案内がある。何方(どなた)で御ざる。
▲シテ「私で御坐ります。
▲ア「やア。能うこそ御坐つたれ。何と思うての御出でぞ。
▲シテ「されば。只今参るは別の事で御坐らぬ。私が女共と一つ二つ云ひ事いたして御坐れば。夫(それ)を腹立ち。出て参つて御坐る。定めて。此方(こちら)へ参らぬ事は御坐るまい。様子を御存じならば。仰せられて下され。
▲ア「はて扨。夫は気の毒な事ぢや。これへは見えぬが。陰(かげ)ながら様子を聞けば。我御料(わごりよ)に飽果てゝ家出をして。頃日(このごろ)は石神へ毎日毎日神楽をあげ。其方(そなた)が暇を呉(く)るゝ様にと。祈らるゝと聞いたわ。
▲シテ「扨は。左様で御坐りますか。夫なら。私も石神へ参り。逢ひまして。何卒(なにとぞ)中直(なかなほり)致し。連れて帰りましよ。
▲ア「夫なら。少しも早う行かしませ{*1}。
▲シテ「心得ました。斯う参ります。
▲ア「お行きやるか。能うおりやつた。
▲シテ「はア。やれやれ一段の事で御坐る。石神へ毎日毎日参るならば。致方(いたしかた)が御坐る。身共が即(すなはち)石神となつて。託宣を卸(おろ)さうと存ずる。参る程に。これで御坐る。先(まづ)。参らぬ先に身拵(みこしらへ)致さう。
▲女「又。今日も石神へ参り。祈誓(きせい)申さうと存じます。此の如くに。毎日毎日参詣致します程に。定めて。首尾よう男が暇を呉れるで御坐ろ。やア。参る程に。これで御坐る。さらば。今日も又神楽をあげましよ。
▲シテ{*2}「てうよふ災難除いて。息才延命に守らせ給へ。遥(はるか)の沖にも石のあるもの。蛭子(えびす)のごせの腰掛の石。
▲女「やア。是はわ男(をとこ)ではないか。己(おのれ)は悪(にく)い奴の。扨は神の贋(にせ)をして。又妾をだまさうと思ふか。あゝ腹立(はらたち)や腹立や。
▲シテ「あゝ。これこれ左様(さう)ではない。何事も堪忍して戻つて給(たも)れ。頼む。
▲女「いやいや。何程いうても戻る事ではない。あゝ腹立つ。やるまいぞやるまいぞ。
▲シテ「あゝ許せ許せ。
底本:『狂言全集 下巻 狂言記拾遺』「巻の二 七 石神」
校訂者注
1:底本は、「少しも早う行かせまし」。 2:底本、ここは全て傍点がある。
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