棒しばり

▲主「罷出でたるものは。此辺(このあたり)に住居(すまゐ)致すもので御座る。某(それがし)。今日(こんにち)はさる方(かた)へ用事有つて参る。それに就き。身共の使ふ両人の者共が。留守になれば。酒を盗(ぬす)うで食(くら)ふ。悪(にく)い事で御座る。今日(けふ)は思案の致した事が御座る。酒をえ飲まぬやうに致様(いたしやう)が御座る。やいやい。太郎冠者(くわじや)。在るか。
▲太「はア。お前に居ります。
▲主「汝を呼出(よびだ)す事。別の事でない。今日は或方(さるかた)へ参る程に。能(よ)う留守をせい。
▲太「畏つて御座る。
▲主「夫(それ)に就き。留守になれば。次郎冠者が酒を盗(ぬす)うで飲むと聞いた。何卒(なにとぞ)して。飲まぬ様に意見のせうと思ふが。何とあらう。
▲太「さればで御座る。御(おん)留守になれば。酒を食べます。私が色々意見致せど。聞きませぬ。身共の存じますは。彼奴(きやつ)が。頃日(このごろ)棒を稽古致してつかひます程に。只今これへ呼出し。棒を使はして見させられ。隙(すき)を見て。棒しばりになされましたら能(よ)う御座りましよ。
▲主「これはよい事を思(おもひ)寄つた。それなら。両人して捕へ。棒しばりに致さう。呼出せ。
▲太「畏つて御座る。
▲主「必(かならず)ぬかるな。
▲太「心得ました。やいやい。次郎冠者。召すわ。
▲シテ「何と。召すか。心得た。はア。お前に居ります。
▲主「早かつた。汝呼出す事。別の事でない。今日は或方(さるかた)へ用事有つて参る。能う留守をせい。
▲シテ「畏つて御座る。留守は気遣(きづかひ)なされますな。仮令(たとひ)。五人や七人盗人が参つたと申して。私一人しても防ぎますぞ。
▲主「夫は頼もしい。夫に就き。頃日(このごろ)。聞けば汝は棒を遣(つか)ふと聞いた。いつの問に稽古した。少し見たい程に。つかうて見せい。
▲シテ「いや。夫は思ひもよりませぬ。棒をつかふ事は存じませぬ。
▲太「いや。是々隠すな。頼うだお方は。能う御存じぢや。
▲シテ「扨は。汝が申(まをし)上げたものであらう。私も。使ひますと申す程の事では御座りませぬ。此中(このぢゆう)。少し稽古致しました。つかふて御目に掛けましよ。
▲主「如何(いか)にもよかろ。使ふて見せい。
▲シテ「畏つて御座る。先(まづ)。此棒と申すものが斯(か)う持つて出(いで)ますから。早(はや)心得が御座る。先から打つて参るを斯う致してとめます。扨。向うの者が引きます。直(すぐ)に取(とり)直し。斯う致して。これで胸をつきます。
▲主「尤。よい手ぢや。
▲シテ「又。夜道と申すが無(ぶ)用心なもので御座る。其の時には。後(うしろ)から打つて参るも知れませぬによつて。兎角後を用心致して。此如くにして参れば。先(まづ)。後の分に気遣は御座らぬ。
▲主「太郎冠者。ぬかるな。
▲太「心得ました。かつきめ。
▲シテ「これは何とする。
▲主「己(おのれ)は悪(にく)い奴の{*1}。能う留守には酒を盗うで飲み居る。斯うして置いたがよい。
▲太「扨も扨も。よい姿(なり)の。
▲シテ「其方(そち)は聞(きこ)えぬ者ぢや。よう騙した。
▲主「どつこい。己もやる事ではないぞ。
▲太「私は何も存じませぬ存じませぬ。
▲主「己も{*2}。一緒になつて酒を飲み居つて。存じませぬとは。さア。先(まづ)これでよい。其の姿(なり)で。二人共に能う留守をせい。
▲二人「是では留守はなりますまい。盗人がはいつたら。どうもなりますまい。解いて置(おか)せられ。
▲主「いやいや。其のなりで防げ。よう留守せい。
▲二人「申し申し。是々。これは如何な事。早(はや)何方(どち)やら御座つた。
▲シテ「やいやい。是は何とも迷惑な事ぢやな。
▲太「さればされば。皆これは。汝が酒を飲うだゆゑぢや。
▲シテ「夫は汝も同じ事ぢや。やア。何と思うぞ。此様にしてゐれば。いつもより。取分(とりわけ)酒が飲みたいなア。
▲太「中々。身共も其の通りぢや。何卒蓋をあけ。くみさへしたら飲(のま)うが。やア。見れば。其方(そち)が手先が叶ふわ。蓋をとれ。
▲シテ「誠に。身共は又手先は叶ふ。蓋をとらうか。さア。まんまと蓋をとつたわ。くまうか。これに盃がある。酌(く)んで先(まづ)身共が飲まう。これは如何な事。飲まうと思ふても口がとどかぬ。気の毒な。何とせうなア。
▲太「やア。思(おもひ)付いた。先(まづ)それは身共に飲ませ。
▲シテ「心得た。さア飲め飲め。
▲太「飲(の)うだわ飲うだわ。扨も扨も此躰(てい)で飲めば。いついつよリ別して旨い事ぢや。何卒して其方(そち)にも飲ましたいが。思ひつけた。又酒を酌んで。身共にもたせ。
▲シテ「心得た。さアさア持て。
▲太「持つたぞ持つたぞ。これへ寄つて飲め。
▲シテ「誠に。これでは飲まるゝわ。飲むぞ飲むぞ。扨も扨も旨い事かな。又其方に差さう。先。ちと下にゐて唄はう。
▲太「一段よかろ。
▲二人{*3}「さゞんさア。浜松のおとはさゞんさア。
▲シテ「扨も扨も面白い。さアさア。又身共食(たべ)う。最早一息には飲まれぬ。下に置(おか)う。やいやい太郎冠者。受けもつた。肴に何ぞ小舞(こまひ)をまへ。
▲太「いや。このなりでは舞はれぬ。
▲シテ「どうなりと心持斗(ばかり)舞へ。
▲太「夫なら何もなぐさみぢや。舞はう。
[小舞]ばんじよ屋の娘子の。召したりや召したりや帷子(かたびら)。かたにかんな箱。腰に小のみこちよんの。さい槌やのこぎり。忘れたりや。墨さし。すそに鉋屑。ふきや散らした。はつとちらした。おかたに名残をしけれど。ようらはまの手(た)くり舟が急ぐ程にの。やがてかうぞほい、
▲シテ「えいやア。
▲二人{*4}「さゞんさア。はま松の音はさゞんさア。
▲シテ「さアさア。また我御料(わごれう)飲め飲め。先ゆるりと飲ましめ。
▲太「やいやい次郎冠者。身共もうけ持つた。肴に舞をまへ。
▲シテ「夫なら。今のかへしに舞はうか。
▲太「よかろ。舞へ舞へ。
▲シテ[小舞]{*5}「十七八は棹にほした細布。とりよりやいとし。たぐりよりやいとし。糸より細い腰をしむれば。(三つ拍子ありて)いたんと尚いとし。
▲太「えい。やアやア。扨も扨も面白い事かな。最早いかう酔ふたわ。
▲シテ「さアさア。先盃を真中(まんなか)に置いて唄はう。
▲二人{*6}「つはものゝ交(まじはり){*7}。頼みある中の酒宴かな。
扨も扨も。面白い事かな面白い事かな。
▲主「両人の者共を留守において御座る。何として居る存ぜぬ{*8}。急いで帰らう。是は如何な事。さかもりの音がする。謡を唄ふ。あの如くに縛つておいても未(まだ)酒を飲みをる。悪(にく)い奴かな。
▲シテ「やいやい。あれを見よ。頼うだ人の影が盃の中へうつる。不思議なことの。身共の存ずるは。吝嗇(しわ)い人ぢやに由つて。この様に縛つておいても。まだ酒を盗んで飲むかと思はるゝ執心が。これへ映るものであろ。
▲太「左様(さう)であろ。
▲シテ「いざ。此様子を謡に唄はう。
▲太「一段よかろ。
▲シテ{*9}「月は一つ。かげは二つ。二人みつ潮の夜(よ)のさかづきに主をのせて。ぬしとも思はぬ内のものかな。
▲主「何ぢや。主とも思はぬ。かつきめ。やるまいぞ。
▲太「あゝ。許させられ許させられ。
▲主「己{*10}。まだそこに居るか。そこに居るか。
▲シテ「あゝ。許させられ許させられ。
▲主「やるまいぞやるまいぞ。

底本:『狂言全集 下巻 狂言記拾遺』「巻の三 一 棒しばり」



校訂者注
 1・2・10:底本は「已(おのれ)」。
 3・4:底本、ここは最後まで傍点がある。
 5:底本、「いたん」まで傍点がある。
 6:底本、「酒宴かな」まで傍点がある。
 7:底本は「つはものゝ交(はじは)り」。
 8:底本のまま
 9:底本、ここは最後まで傍点がある。