水くみ新発意

▲アト住持「これは当寺(たうじ)の住持で御座る。今日(こんにち)は旦那衆を四五人申(まをし)入れ。相談致す事が御座る。夫(それ)に就き。茶には水が第一で御座る程に。清水(しみづ)へ水をくみに遣(やら)うと存ずる。先(まづ)新発意(しんぼち)を呼出(よびいだ)し申しつけう。喃(なう)々。新発意。ゐさしますか。
▲シテ「はア。これに居ります。
▲住「早かつた。其方(そなた)を呼出すは別の事でない。今日は。追付(おつゝ)けて旦那衆をよぶ筈ぢや。夫に就き。茶には水が第一ぢや程に。其方は清水へいて。水をくんでおりやれ。
▲シテ「夫(それ)は畏つたと申す筈で御座りますが。私。頃日(このごろ)持病の脚気が起(おこ)りまして。中々水など汲みには{*1}。え参りますまい。門前のいちやを遣(つか)はされ。
▲住「いやいや。あれは女の事なり。殊に彼是として日も暮るれば。如何(いかゞ)ぢや。我御料(わごれう)いておりやれ。
▲シテ「いや。私は重ねて参りましよ。此度(このたび)は。どうでもえ参りますまい。兎角いちやを遣はされませ。
▲住「能(よ)うおりやる。身共がいふ事を。何彼(なにか)とおしやる。我御料が様な者は。そちへ引退(ひか)うでゐやれ。
▲シテ「心得ました。喃(なう)々。嬉しや嬉しや。まんまと抜けすました。いちやと申すも。ちとした心あつての事で御座る。
▲住「扨も扨も。悪(わる)い事で御座る。是非に及ばぬ。いちやを遣らずはなるまい{*2}。喃(なう)々。いちやはをりやるか。
▲女「妾(わらは)を呼ばせられますは。何事で御座る。
▲住「我御料を呼出すは別事(べつじ)でない。俄に客がある。夫に就き。其方は。大儀ながら清水へ行(い)て。茶の水を汲んで来てたもれ。
▲女「何事で御座ると存じました。易い御用でこそ御座りますれ。成程参りましよ。
▲住「夫は満足ぢや。先(まづ)それに待ちやれ。
▲住「これこれいちや。此桶をやる程に。早う行て汲んでおりやれ。
▲女「扨も扨も。俄な事をいひつけられた。先(まづ)清水へ参り。水を汲んで参らずばなるまい。やれやれ。合点の参らぬ事で御座る。いつも新発意の汲みに参られます。身共に参れとは思(おもひ)寄らぬ事で御座る。やア。何彼と申す中(うち)にこれぢや。扨も扨も。いつ見ても美麗(きれい)な水で御座る。何(いづ)れもの茶の水になさるゝが。尤ぢや。
▲シテ「やア。御住持の水を汲んで来いといはれたを。何彼と申していちやを遣(つかは)して御座る。定めて最早(もはや)清水へ参つたで御座ろ。これも。いちやと身共とは。日頃人知らずよい中で御座るに依つて。私も後から清水へ参り。何事もゆるゆると物語も致さうと存じ。いちやをさしづいたした。嬉しや。先(まづ)急いであれへ参り。いちやに逢はう。やれやれ。此様(このやう)な事は住持は知らいで。身共が拗(す)ねて参らぬが。憎い奴と思ふてゐらるゝで御座ろ。やア。参る程にこれぢや。いちやはどこもとに居る知らぬまで{*3}。さればこそ。あれに何やら物淋しさうに。只一人小歌ぶしで水を汲んでゐる。喃(なう)々。これこれいちや。是にゐさしますか。
▲女「やア。こなたは。御住持様の茲(こゝ)へ水汲みに行けと仰せられたれば。持病が起つたとやら云ふて。ひかうて御座ると聞いたが{*4}。何しにこれへ御座つた。
▲シテ「其方は何しにとは聞えぬ。此中(このぢゆう)は。久しうしみじみと話す事もなし。何卒(なにとぞ)逢ふて語りたい語りたいと思ふて。持病はうそでおりやる。真実我御料を頼(たの)ましたは。身共があふて語らう為ぢや。さアさア。先(まづ)其の水も棄てゝおかしめ。こゝへおりやれおりやれ。
▲女「喃(なう)々。軽忽(けふこつ)な事をいはします。人も見聞くものぢや。訳もない事いはしますな。妾は其所(そこ)へ行く事は厭で御座る。此方(こなた)は先へ帰らせられ。
▲シテ「はて扨。先(まづ)何かいひたい事も有るに。茲へおりやれ。
▲住「門前のいちやを清水ヘ遣はして御座る。余(あまり)遅う御座る。見に参らう。何をしてゐる知らぬ{*5}。これは如何(いか)な事。新発意か。己は持病の脚気のと云ひをつて。茲へうせて其の体(てい)は何事ぢや。
▲女「いや妾が遅いといふて。只今これへ見に御座りました。
▲住「いやいや。兎角これは合点がいかぬ。二人共に。身共の方(かた)へ今より入れる事はならぬぞ。
▲女「いや。それは御住持様聞(きこ)えませぬ。あの人に咎は御座らぬ。
▲住「やア。己いちや奴(め)。贔屓をしをつて。悪(にく)い奴の。
▲女「これは何とめされる。住持でも堪忍がならぬぞ。
▲住「これはこれは。徒者(いたづら)者共。何としをる。何としをる。
▲シテ「我御料の様な人は。斯(か)うしておいたがよい。(打(うち)こかす)喃(なう)々。いちや。茲へおはれさしませおはれさしませ。いとしやいとしや。
▲住「やいやい。師匠を此の様にしをつて。将来が能う有るまい。いたづらものめ。やるまいぞやるまいぞ。

底本:『狂言全集 下巻 狂言記拾遺』「巻の三 三 水くみ新発意」



校訂者注
 1:底本は「水など吸(く)みには」。
 2~5:底本のまま。