楽阿弥

▲ワキ[次第]「ろさいに出づる門(かど)わきに。ろさいに出づる門わきに。犬の伏せるぞ悲しき。
[詞]これは東国方の者で御座る。某(それがし)未(いまだ)太神宮へ参らず候ふ間。此度(このたび)思(おもひ)立ち伊勢太神宮へと心ざし候ふ。
[謡]旅衣(たびごろも)。尚(なほ)撓(しを)れゆく往来の。尚撓れゆく往来の。[下]ふすまのなきぞ悲しき。足に任せて行く程に。足に任せて行く程に。これぞ名に負ふ伊勢国。へつはうに早く着きにけり。
[詞]急ぎ候ふ程に。これは早(はや)へつはうの松原に着いて御座る。これなる松を見れば。札を打ち短尺を付け。尺八の様なる物を数多(あまた)かけられて候ふ。如何様(いかさま)謂(いはれ)の無い事は御座あるまい。所の人に尋ねばやと存ずる。所の人の渡り候ふか。
▲間「所の者と御尋(おんたづね)は。如何様(いかやう)なる御用にて候ふぞ。
▲ワキ「これなる松を見申せば。札を打ち短尺を付け。尺八の様なる物を数多かけられて候ふ。謂(いはれ)のない事は候ふまじ。教へて給はり候へ。
▲間「されば。其の事にて候ふ。あれは古(いにしへ)楽阿弥(らくあみ)と申す尺八吹(ふき)の。久しく尺八を吹死(ふきじに)に致され候ふにより。所の者共痛はしう存じ。土中(どちゆう)に突(つき)込め{*1}。印に植ゑたる松にて候ふ。御僧(おんそう)も逆縁ながら。吊(とむら)ふて御通りあれかしと存じ候ふ。やア。見申せば御僧も尺八を遊ばすやらん。腰にさゝれて候ふよ。
▲ワキ「いやいや。これは犬嚇(いぬおどし)までにて候へども。逆縁ながら吊ふて通らうずるにて候ふ。
▲間「又御用もあらば。重ねて御申し候へ。
▲ワキ「頼みましよ。
▲間「心得ました。
▲ワキ[謡]「扨はこれなるは。楽阿弥陀仏の旧跡かや。いざや跡とひ申さんと。我も持つたる尺八を。懐よりも取出(とりいだ)し。此尺八を吹きしむる。此尺八を吹きしむる。
▲シテ一セイ{*2}「[下]尺八の。あら面白の音色(ねいろ)やな。お主(ぬし)を見ればそうてうきりなり。
▲ワキ「不思議やな。まどろむ枕の上を見れば。
[詞]大(おほ)尺八小(こ)尺八。してき。半てき。両てきを指し。我等の笛を面白がるは。如何(いか)なる人にてましますぞ。
▲シテ[詞]「これは古(いにしへ)。尺八を吹死にせし楽阿弥といへる者なるが。御尺八の面白さに。これ迄顕(あらは)れ出でゝ候。
▲ワキ{*3}「これは不思議の御事かな。昔語(がたり)の楽阿弥陀仏に。言葉を交(かは)すは不審なり。
▲シテ[詞]「何をか不審し給ふらん。あの朗安寺の尺八の頌(しよう)にも。両頭を截断(せつだん)してより以来(このかた)。尺八寸の内。古今に通ず。吹起(ふきをこ)す無常心の一曲。三千里外に知音を截断すと作られたり。
▲ワキ{*4}「げにげにこれは理(ことわり)なり。
昔語の楽阿弥陀仏に。言葉を交すも尺八故。古今に通ずる心よなう。
▲シテ[詞]「応。中々の事。我もまた。坂東方(かた)の人に馴れ申すも尺八故。
▲ワキ「おう。
▲シテ{*5}「面白や。
面白けれど尺八の
[地]面白けれど尺八の。我吹くは喧(かしま)しゝとて。三千里の外(ほか)知音は隔つまじ。先(まづ)我は差措(さしを)くなり。御尺八を吹き給へ。
▲ワキ{*6}「同じくは連れ尺八。
▲シテ{*7}「いやいや。夫(それ)は
楽阿弥が御尺八をよこすなりと。
[地]云ふ声の下よりも大尺八を取出し。とらあろら。りい。りい。とらあろ。らあらろふう。
▲シテ「あら昔恋しや。暇(いとま)申して帰るなり。
▲ワキ「あら痛はしの御事や。最後を語りおはしませ。
▲シテ「いでいでさらば語らんさらば語らん{*8}。
本(もと)より楽阿弥は。しゆつつうなる面(つら)さしにて。彼所(かしこ)の旅人此所の茶屋。あそこの門(かど)にさしよせさしよせ。機嫌も知らず尺八を吹(ふき)鳴らして。楽阿弥に代り{*9}。
一銭尺八吹(ふき)には何も呉(く)れねば。腹立(はらたち)や腹立やと。あそこ茲(こゝ)にて[下]悪口(あくこう)すれば。尺八吹は図無(づな)しなり。不祥なり。あてよやとて。枴(あふこ)だめの三つ伏(ふせ)に押(おし)伏せられて{*10}。
▲シテ{*11}「縄だめ柱だめに。
[地]焙(あぶ)つゝ踏(ふ)んづ捩(ね)ぢつ引(ひか)れつ。其の古(いにしへ)の尺八竹の。今に迷土(めいど)の苦患(くげん)となるを。助け給へよ御僧よ。尚も輪廻の妄執は。此年迄も数奇のさからぬ姥竹(うばだけ)の恋ひしさは{*12}。我ながらうつ頬(つら)憎(に)くやと。かき消す様にぞ失せにける。

底本:『狂言全集 下巻 狂言記拾遺』「巻の四 三 楽阿弥」



校訂者注
 1:底本は「土中(とちゆう)に」。
 2:底本のまま。
 3:底本、ここは最後まで傍点がある。
 4:底本、「理なり」まで傍点がある。
 5:底本、「面白や」に傍点がある。
 6:底本、ここの最後まで傍点がある。
 7:底本、「いやいや。夫は」に傍点がある。
 8:底本、ここまで傍点がある。
 9:底本、ここ以降最後まで傍点がある。
 10:底本の「枴」、旁下部は「刀」でなく「方」の下部。テキストに字体がなく代用した。
 11:底本、「其の」まで傍点がある。
 12:底本のまま。