茶盃拝
▲女「妾(わらは)は此の辺(あたり)の者で御座る。誠に縁につるれば唐(から)の者で御坐る。妾が夫(をつと)は茶盃拝(ちやはいはい)と申して。唐人(からびと)で御坐る。爰許(こゝもと)に親類とては無い人で御坐るによつて。朝夕妾が馳走致し。随分念比(ねんごろ)に致します。何と致した事で御坐るやら。当今世迷言(よまひごと)計(ばかり)をいふて。涙を零し泣き零し泣き致されます。妾も久々馴染みましたに由つて。大方唐言葉も合点致しますが。此の世迷言は如何様(いかやう)の事やら。何とも合点が参りませぬ。夫(それ)に就き。茲(こゝ)に私の存じたお方に物知りが御坐る程に。今日はこれへ参り。此の様子を尋ねて参らうと存じます。先(まづ)急いで参りましよ。誠に縁と申しながら。唐人と夫婦になるといふは。不思議な事で御坐る。やア。参る程にこれで御坐る。物も。御宿に御坐りますか。
▲モノシリ「やア。表に案内がある。何方(どなた)で御坐る。やア。我御料(わごりよ)か。これは何と思ふておりやつたぞ。
▲女「されば。其の事で御坐る。久しう御見舞申しませねども。又。妾が用があれば参りまして御坐る。妾の男の茶盃拝(ちやはいばい)を御存じで御坐りましよ。
▲モノ「成程存じたが。息災なか{*1}。
▲女「如何(いか)にも。息災には御坐りますが。就きましては。何とも合点の参らぬ事が御坐つて。此方(こなた)へ尋ねに参りました。
▲モノ「夫(それ)は何事でおりやる。
▲女「さればで御坐る。唯明暮(あけくれ)何やら世迷言計いふて。涙を流して泣き泣き致されます。
▲モノ「して。其の世迷言には何をいふぞ。覚(おぼえ)はないか。
▲女「成程。覚えて居ります。日本人無心自我唐国妻恋(たうこくさいれん)といふて。泣き泣き召されます。好い事で御坐るやら。又悪い事で御坐るやら。存じませぬ。様子をいふて聞(きか)して下されますなら。忝う御坐りましよ。
▲モノ「何と。日本人無心自我唐国妻恋といふて泣くか。
▲女「中々。左様で御坐る。
▲モノ「これは知れた事ぢや。歌に直して見れば。日本(ひのもと)の。人の心のなかりせば。我が唐国(からくに)の妻ぞこひしき。といふ事ぢや。つくづく其方(そなた)がつらう当るに由つて。唐国の妻が恋しいと云ふ事でおりやるわ。
▲女「喃(なう)々。腹立(はらだち)や腹立や。妾が唐人ぢやと思ふて。常々念比に致しますに。また唐の女が恋しいとは。喃(なう)。腹立や腹立や。
▲モノ「これこれ。其の様に腹を立ちやるな。只気に入る様にして。いよいよ念比にしやれ。腹を立つる心なら。云ふて聞(きか)すまいもの。
▲女「これは私が誤りました。夫(それ)なら。腹を立てますまい。去(さり)ながら。未(まだ)御坐ります。
▲モノ「夫(それ)は。何事でおりやる。
▲女「泣きましたあとには。茶盃拝茶盃拝といふて。なきなきめされます。
▲モノ「夫(それ)も。成程知れた事ぢや。常々好い茶酒も飲(のま)いで。悲しいといふ事ぢや程に。随分今から酒肴(さけさかな)も調(とゝの)へ。馳走さしましよ。
▲女「成程。心得ました。最早(もはや)帰りましよ。
▲モノ「お行きやるか。さらばさらば。能(よ)うおりやつた。
▲女「はア。忝う御坐る。喃(なう)々。嬉しや嬉しや。如何様(いかやう)の事ぞと思ひました程に。帰られたら酒肴拵へておいて。馳走致しましよ。何彼(なにか)といふ中(うち)に。帰りました。茶盃拝の戻られますを待ちましよ。
▲シテ「唐の東 西日本地(にほんち)に住めるなり{*2}。
[詞]これは唐土(もろこし)茶盃拝と申す者で御坐る。我十ヶ年以前に日本へ捕はれ。箱崎の浦に住居(すまゐ)せり。日本人無心自我唐国妻恋日本人無心自我唐国妻恋。
▲女「喃(なう)々。腹立や腹立や。今迄こそ知らなんだれ{*3}。夫(それ)は妾も合点ぢや。これ程馳走するに。まだ唐の女が恋しいか。腹立や腹立や。
▲シテ「茶盃拝茶盃拝。
▲女「喃(なう)々。夫(それ)は尚(なほ)合点ぢや。美(よ)い酒茶が飲みたいといふ事であらう。今日は其方(そなた)におまさうと思ふて。酒肴を調へておいた。先(まづ)下にゐて。一つ飲(のま)しませ飲しませ。さア。此の盃で飲しませ。
▲シテ「うらいりやうすうらん。
▲女「左様で御坐る。一つ参れ。
▲シテ「はああふうれいらしや。
▲女「如何にも。美(よ)い酒を調へて置きました。気に入つたら。も一つ重ねさせられ。
▲シテ「ちんふんちやは。
▲女「妾にさゝせらるゝか。戴きましよ。妾も一つ飲みました。又。此方(こなた)へさしましよ。
▲シテ「さるまにやちやりきそ。
▲女「中々。参れ参れ。
▲シテ「すうらいかほちや。
▲女「何と被仰(おしや)るぞ。受け持つた程に。妾に肴をせい。小舞をまへと被仰るか。
▲シテ「しやかとくりんらい。
▲女「成程舞ひましよ。兎角此方(こなた)の機嫌さへよければ。嬉しう御坐る。
▲女。[舞謡]「あはれ。一枝(し)を花の袖に手折(たを)りて。月をも共に詠めばやの望(のぞみ)は残れり。此の春の望の残れり。
▲シテ「さらはにやまにはるちやそ。
▲女「また妾たべましよ。
▲シテ「どんしやちやそ。
▲女「夫(それ)ならも一つたべましよ。過ぎましよか知らぬ。喃(なう)茶盃拝殿。此方(こなた)の何時(いつ)も機嫌のよい時は。唐人の小歌を唄はせらるゝ。妾も受け持ちました肴に。小歌を唄はせられ。理(わけ)は知りませねども。聞きましよ。
▲シテ「ちうらいどんまんきん。
▲女「夫は面白御坐らう。歌はせられ歌はせられ。
▲シテ{*4}「すうらんどんほ「こいてう。ぶゆがんなでつる「ほろけなんかんしいもんがんごい「せへは。せうやらてう「おたら。
▲女「扨も扨も。わけは知らねど面白い事で御坐る。さアさア。も一つ参れ。
▲シテ「さらはにやしやりはらい。
▲女「いやいや。是非とも参れ参れ。夫なら妾がおさめましよ。喃(なう)々茶盃拝殿。唐土(もろこし)には。楽(がく)を舞ふて楽しむと聞いて御坐る。此方(こなた)も楽を舞ふて見せさせられ。
▲シテ「ふうれいらしやてうらんすう。
▲女「何と。舞ふて見せう。さアさア。舞はせられ舞はせられ。
▲シテ「舞楽(ぶがく)を奏して舞(まひ)遊ぶ。日本人無心自我唐国妻恋。
▲女「喃(なう)々腹立や腹立や。これ程に念比にして馳走するに。まだ唐の女の事いふか。腹立や腹立や。
▲シテ「らいれうちやるやそまかはん。
▲女「何の許せとは。最早堪忍がならぬ。茲(こゝ)には置かぬぞ。出てゆけ出てゆけ。腹立や腹立や。
底本:『狂言全集 下巻 狂言記拾遺』「巻の四 六 茶盃拝」
校訂者注
1:底本のまま。
2:底本の「東 西」の間に三文字分の空白。
3:底本のまま。
4:底本、ここは最後まで傍点がある。
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