止動方覚
▲主「これは此の辺(あたり)に隠れない者で御座る。此の中(ぢゆう)の方々(はうばう)の御参会は夥(おびたゞ)しい事で御座る。又今日は。山一つあなたへ茶の湯に参る。夫(それ)に就き。太郎冠者(くわじや)を呼出(よびいだ)し。申付(まをしつく)る事が御座る。やいやい。太郎冠者。あるかやい。
▲シテ「はア。御前に居ります。
▲主「念なう早かつた。汝を呼出す事。別の事でない。今日は山一つ彼方(あなた)に各(おのおの)立(たち)寄り。茶の湯がある。これへ参らねばならぬが。夫に就き。汝は伯父御(をぢご)の方(かた)へ行(い)て。借る物がある。借つて来い。
▲シテ「畏つて御座る。何を借つて参りましよ。
▲主「あれへ参り云はうは。今日は山一つ彼方へ茶の湯に参ります。夫に就き。手前に茶をきらしました。御無心ながら極上一たいわたしに入れて。お貸しなされて下されと云うて借つて来い。
▲シテ「畏つて御座る。
▲主「又。各馬上で御座る。御馬も貸して下されといふて借つて来い。
▲シテ「心得ました。
▲主「まだある。何(いづ)れも太刀を持(もた)せらるゝ程に。御太刀も貸して下されといふて借つて来い。
▲シテ「畏つて御座る。去(さり)ながら。如何(いか)に伯父御ぢやと申して。その如く様々の物を貸さうとは仰せられまい。
▲主「いやいや。苦しうない。追付(おつゝ)け戻しましよといふて借つて来い。
▲シテ「畏つて御座る。
▲主「追付け早(はや)御出でなさるゝ程に。早う行て来い。
▲シテ「心得ました。
▲主「えい。
▲シテ「はア。やれやれ。これは急な事を仰(おほせ)付けられた。去(さり)ながら。借(かり)に参らずばなるまい。急いで参らう。誠に。扨伯父御ぢやといふて。如此(かくのごと)くに様々の物を貸さうとは仰せられまい。日頃頼うだ人が不嗜(たしなみ)なによつて{*1}。斯様(かやう)の時迷惑致さるゝ事ぢや。やア。何彼(なにか)と申す中(うち)に。是ぢや。物まう。案内も。
▲ヲヂ「表に案内がある。どなたで御座る。えい。太郎冠者か。能(よ)うこそ来(きた)れ。只今は何と思ふて来たぞ。
▲シテ「其の儀で御座ります。頼うだる方よりお使(つかひ)に参りました。今日。山一つあなたへ各(おのおの)茶の湯の会が御座る。これへ。頼うだ人も参られます。折節茶がきれて。御座りませぬ。此方(こなた)の御茶を。一たいわたしに入れて。お貸しなされて下されませと申しておこされました。
▲ヲヂ「如何(いか)にも安い事ぢや。幸(さいはひ)挽かせておいた。貸してやらう。夫(それ)に待て。
▲シテ「夫は忝う御座ります。
▲ヲヂ「これこれ太郎冠者。わたしに入れて貸す程に。損(そこな)はぬ様にして。役に立てたら戻しやれといへ。
▲主「畏つて御座る。未(まだ)御座ります。各太刀を持たせられます程に。お太刀もお貸しなされて下されませ。
▲ヲヂ「何と。各が太刀を持たせらるゝ。夫なら持たせいではなるまい。貸してやる。さりながら。此度(このたび)は貸してやる。侍の太刀を持たぬといふ事はない事ぢや。拵(こしら)やれといへ。
▲シテ「畏つて御座る。
▲ヲヂ「こりやこりや。此は重代なれど貸す程に。損はぬ様にして戻しやれといへ。
▲シテ「畏つて御座る。まだ御座ります。
▲ヲヂ「夫は何ぢや。
▲シテ「何(いづ)れも馬上で御座ります。とてもの事に御馬も借つて参れと申されました。
▲ヲヂ「成程尤ぢや。是も貸してやろ。こりやこりや。此の馬を貸してやる。引いて帰れ。
▲シテ「これは。久しう見ませぬ中(うち)に逞しうなりました。定めて待ちかねて居られましよ。追付け帰りましよ。色々の物をお貸しなされて下されて。忝う御坐ります。最早(もはや)斯(か)う参ります。
▲ヲヂ「やア。其の馬には少し癖があるわ。
▲シテ「夫は如何様(いかやう)の癖で御坐る。
▲ヲヂ「されば。其の馬の後で咳払(せきばらひ)すれば。必(かならず)とつと出る程に。左様(さう)心得。
▲シテ「夫は気の毒に御座る。私は承りました。致しますまいが。去(さり)ながら。道で人などが致したら。何とも気の毒で御座る。
▲ヲヂ「尤ぢや。さりながら。其の時は馬の鎮(しづま)る文(もん)がある。教へてやらう。じやくれん童子。六万菩薩。鎮まり給ヘ。しどう方覚しどう方覚といへば。其儘鎮まるわ。
▲シテ「是は調法な事で御座る。覚えまして御座る。最早斯(か)う参ります。
▲ヲヂ「行くか。用に立てたら早く戻せ。
▲シテ「畏つて御座る。
▲ヲヂ「能う来た。
▲シテ「はア。喃(なう)々嬉しや嬉しや。まんまと借り済(すま)した。急いで帰らう。扨も扨も。結構なお方ぢや。残らずお貸しなされて下さつた。よい伯父御ぢや。
▲主「太郎冠者奴(め)は何をして居る知らぬ。遅い事かな。最早何(いづ)れも御出でなされた。扨も扨も。憎い奴かな。
▲主「やい。其所(そこ)な奴。己は今迄何をして居つた{*2}。各早御出でなされて。身共ばかりぢや。扨も扨も。憎い奴ぢや。
▲シテ「此方(こなた)は聞(きこ)えませぬ。此の様々の物を色々といふて借りて参つたに。まだ其の様な事仰せらるゝか。聞えませぬ。
▲主「何をぬかし居る。己は又酒がな食(くら)うて。口をきいて居つたものであろ{*3}。此方(こち)へおこしをろ。其の壺も太刀も持つて。早ううせい。
▲シテ「扨も扨も。聞えぬ事いはるゝ。是程色々の物借つて参つたに。能う借つて来た。出来(でか)したとはいはいで。腹を立てらるゝ。
▲主「やいやい其所(そこ)な奴。己は其所に何をして居る。早ううせぬか。馬にひつそうてうせい。
▲シテ「あ。心得ました。
▲主「是は如何(いか)な事。ひつそうてと云へば負(おは)れかゝるやうにし居る。後からうせい。
▲シテ「心得ました。
▲主「これはこれは。後からといへば何をして居るやら。はてることではない。先へうせう。
▲シテ「心得ました。
▲主「やいやいやい。先へうせいと云へば。方量も無う早ううせをる。扨も扨も憎い奴ぢや。己帰つて何とするぞ。待てよ。
▲シテ「これは如何な事。先へ行けば行くとおしやる。後から行けばさがると被仰(おつしや)る。憎(に)くさもにくし。落して呉(くれ)う。思(おもひ)付いた。えへんえへん。じやくれん童子。六万菩薩。鎮まり給ヘ。しだふ方覚しだふ方覚。申し申し。何となされました。痛みますか。夫へ参りたう御座れど。御馬を乗り鎮めて居ります。最早鎮まりました。御馬に召しませ。
▲主「扨も扨も。悪い馬かな。したゝか腰をうつた。最早乗るまい。徒歩(かち)で行かう。汝乗つて来い。
▲シテ「いや勿体ない。私は乗られますまい。此の上私が乗りまして。此の壺からお太刀を持つて。口の剛(こは)いこの馬には乗られますまい。此方(こなた)召しませ。
▲主「いやいや。乗る事は厭ぢや。夫なら是非に及ばぬ。其の太刀や壺は身共が持たう。汝乗つて来い。
▲シテ「左様に御座らば。乗りましよか。
▲主「さアさア。乗れ乗れ。身共が持つて行くぞ。
▲シテ「御許されませ。乗(のり)ます。
▲主「乗れ乗れ。許すぞ許すぞ。
▲シテ「申し申し。此(かく)の如くにして参りますを人が見ましては。此方(こなた)を下人で。私が主(しゆう)かと存じましよ。
▲主「如何様(いかさま)。知らぬ人が見たらば左様(さう)思ふであろ。
▲シテ「夫に就きまして。少し此方(こなた)に申(まをし)上げたい事が御座ります。
▲主「夫は何事ぢや。
▲シテ「先(まづ)私も。後々はお取立(とりたて)に預りまして。立身致しましたらば。定めて馬に乗る事も御座りましよ。
▲主「それそれ。
▲シテ「其の時には人も使ひまするで御座ろ。俄に遣(つかひ)つけも致さいで遣(つか)ふも不調法に御座ろ。其の時の為で御座る程に。只今此方を下人にして。いや。最早おきましよおきましよ。お許されませ。
▲主「如何にも聞(きゝ)届けた。今度其方(そなた)が立身のして。人を遣ふ時の稽古に。今身共を内の者にして。遣ふて見たいといふ事か。
▲シテ「いやいや。左様では御座りませぬ。御許されませ御許されませ。
▲主「いやいや苦しうない。よかろ。許すぞ許すぞ。さアさア。呼うで見よ呼うで見よ。
▲シテ「何と。お許されますか。
▲主「中々。苦しうない。許すぞ。
▲シテ「夫なら呼うで見ましよ。やいやい。太郎冠者。
▲主「はア。
▲シテ「御座りますか。いやいや。如何にしても呼ばるゝことでは御座りませぬ。最早おきましよ。
▲主「はて扨。ちつとも苦しうない。許す程に。思(おもひ)切つて呼うで見よ。
▲シテ「夫なら。のし切つて呼びましよ。御許されませ。
▲主「許すぞ許すぞ。呼ベよベ。
▲シテ「やいやいやい。太郎冠者。
▲主「はア。
▲シテ「居るか。
▲主「はア。
▲シテ「己は憎い奴の。今迄何をして居つた。何れも早御出でなされた。又酒飲うで口をきいて居つたか。扨も扨も憎い奴かな。先へうせい。やいやい。先へといへば無上に早ううせる{*4}。後からうせう。これはこれは。後からといへば方量も無う後からうせる。兎角ひつそうてうせう。憎い奴かな。何とせう知らぬ。
▲主「これは如何な事。余りな事ぢや。のきをろ。扨も扨も憎い奴かな。己は最前の云(いひ)かへしにいひ居るなア。
▲シテ「此方(こなた)は許すと仰せられた。
▲主「いかにも。許せばとて今の様な事ぬかすものか。早ううせう。
▲シテ「心得ました。やア。又おとして呉う。えへんえへんえへん。じやくれん童子。六万菩薩。鎮まり給ヘ。鎮まり給ヘ。
▲主「やア。これは身共ぢや。罰当(ばちあたり)何としをる。
▲シテ「あゝ。許させられ許させられ。
▲主「やるまいぞやるまいぞやるまいぞ。
底本:『狂言全集 下巻 狂言記拾遺』「巻の四 八 止動方覚」
校訂者注
1:底本のまま。
2:底本は「已(おのれ)は」。
3:底本は「居つたでものあろ」。
4:底本は「先へといべば」。
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