米市
▲シテ「これは此辺(このあたり)の者で御ざる。一日一日と暮(くら)す程に。今日ははや大晦日になつて御ざる。世間を見ますれば仕舞(しまひ)ようして。歳暮(さいぼ)の礼などに歩(あり)く人もあるに。私は仕舞ふ事は措(を)いて。何を一色(いろ)年取り物を調(とゝの)へも致さぬ。気の毒な。仕舞兼(しまひかね)た事で御ざる。又爰(こゝ)に誰殿と申して。私に御目をかけらるゝ御方が御ざる。何時(いつ)もこれから定(さだめ)て年取(とり)物を御合力(かふりよく)なさるゝが。今に沙汰が無い。これから参らねば。何共年を取らうやうも無い。只今から参つて。御気の付くやうに申(まをし)て。貰ふて参らうと存ずる。其下心で此棒を持(もつ)て参る。先(まづ)急ぎ参らう。やれやれ誠に来る年も来る年も此如くに仕舞兼て。迷惑な事で御ざる。参る程にこれぢや。物もう。御案内も。
▲アト「表に案内とある。誰ぢや。
▲シテ「いや私で御ざります。
▲アト「やア我御料(わごりよ)か。定(さだめ)て仕舞ふて。歳暮の礼に出られたか。
▲シ「いやまだ仕舞ひましたやら。仕舞ひませぬやらで御ざります。
▲ア「はて扨今日は大晦日。最早(もはや)日も晩したにまだ仕舞はぬとは。それも常々働(はたらき)が不精(ふせい)なに依つてぢや。
▲シ「私も随分常にも稼ぎますれど。何と致しましたやら。此如くに仕舞ひ兼(かね)まして迷惑致します。
▲ア「はて扨夫(それ)は苦々しい事ぢや。夫に付(つき)いつも其方(そなた)へ遣(つかは)す合力米(かふりよくまい)はいたか。
▲シ「いやまだ参りませぬ。
▲ア「何と未(まだ)行かぬか。夫なら云ひつけてやらう。
▲シ「夫は忝なう御ざります。
▲ア「やいやい平常(いつも)誰へ遣(つかは)す合力米はやつたか。何と蔵をしめ。松飾(まつかざり)をした。少(ちと)でも出たはないか。何と半石(はんせき)の又半石出たがあるか。それは少(すくな)いなア。なうなう。蔵をはや締(しめ)て。飾(かざり)を仕(し)たに依つて。出たが無いと云ふが。半石の又半石有るが。これなりとも先(まづ)遣(や)らうか。
▲シ「夫は忝なう御ざる。夫程御ざれば。ざつと年を夫婦(めうと)の者が取ります。
▲ア「それなら遣らう程に待(まち)やれ。これこれ。此を遣る程に取つて行(い)て。姥(うば)にも見しやれ。
▲シ「忝なう御ざります。取つて帰り嬉(よろこ)ばしましよ。
▲ア「又春蔵を開(ひら)いたら早々遣らうぞ。
▲シ「それは愈(いよいよ)忝なう御ざります。夫に付(つき)まして{*1}。今日(こんにち)路次で近付(ちかづき)に逢(あひ)ましたれば。棒を言伝(ことづて)ました。棒にかけて参りましよ。
▲ア「いかにも好かろ。
▲シ「申(まをし)々これ程な物が此方(こちら)にも一つ御ざれば好う御ざるが。片荷(かたに)ずつて持(もた)れませぬ{*2}。
▲ア「さうであらう。
▲シ「やア幸(さいはひ)どれからぞ負ふて参つたやら。負縄(おひなは)が御ざる。負ふて参りましよ。
▲ア「一段好かろ。手をかけてやろ。さア立て。はあ丁度好いわ。先(ま)づ早う帰つて仕舞(しま)やれ。
▲シ「毎年毎年御蔭で仕舞ひます。忝けなう御ざリます。最早(もはや)御暇(おいとま)申(まをし)ます。
▲ア「お行きやるか。好うおりやつた。
▲シ「はアなうなう。嬉しや嬉しや。まんまと先(まづ)合力米は貰ふた。さりながら。いつもおごう様(さま)から。女共方へ古着の御小袖を下さるゝ。これは忘れさせられたか沙汰が無い。これも序(ついで)にお気のつくやうに申(まをし)て貰ふて参らう。申(まをし)々御ざリますか。
▲ア「やア我御料は未(まだ)行(い)なぬか。
▲シ「最早帰りますが。女共がおごう様へ御言伝(ことづて)申(まをし)ましたを失念致しました。
▲ア「夫(それ)は何と云ふ言伝ぞ。
▲シ「先(まづ)近い正月で御ざります。定(さだめ)て正月お小袖が出来ましたで御ざりましよ。姥(うば)らは寒うてこそ居りますれ。春暖かになりまして。御小袖を見に参りませうでこそ御ざりますれと申(まをし)て御言伝を申(まをし)まして御ざります。
▲ア「それは好うこそ言付をしられた。夫に付(つき)思ひ付(つけ)た。いつもおごうが方(かた)から其方(そなた)の女房へ古着を遣(つかは)すが。夫は行(い)たか。
▲シ「いや未(まだ)これも参りませぬが。夫はよう御ざります。
▲ア「いやいやよいと云ふ事はあるまい。吩咐(いひつけ)てやろ。これこれいつも遣る物を忘れた。取(とつ)て行かしめ。おごうが方(かた)から着古したれど遣(つかは)すと云ふて。女房衆へやりやれ。
▲シ「これは結構なお小袖を忝なう御ざります。女どもに見せて喜ばしましよ。扨これ如何(どう)して持(もつ)て参りましよ。後(うしろ)の俵と相応致さぬ持(もち)物で御ざる。
▲ア「誠に相応せぬが。やア致しやうがある。此方(こち)へおこしやれ。此俵に打かけてやらう。これこれ好うおりやる。それでは俵も見えず。其儘人を負ふた様なわ{*3}。
▲シ「やア人を負(おふ)たやうなと仰せられますが。時分柄(じぶんから)で御ざる{*4}。若(もし)道で人が咎めましたら。何と致しましよ。
▲ア「夫は好い事がある。若(もし)人が咎めたらば。俵藤太のお娘子米市(よねいち)御れう人(にん)の御里帰りぢやとおしやれ。
▲シ「さてもさても。先(まづ)は俵につき米市。面白う御ざります。夫なら女共も待兼(まちかね)て居りましよ。斯(か)う参りましよ。まづは御蔭で年を取ります。春は早々夫婦連(めうとづれ)で御礼に参りましよ。
▲ア「いかにも早々御出やれ。さらばさらば。
▲シ「はアなうなう。嬉しや嬉しや。まんまと二色(いろ)ながら貰ふた。先(まづ)帰つて女共に見せて喜ばせう。誠に結構な御方ぢや。彼(あ)のやうな人が無ければ身共はたゝぬ。はア大勢歳暮の礼に行く人が来るよ。
▲立衆一同「いづれも御ざるか。
▲立衆四人「皆々これに居ります。
▲立「いざ歳暮の礼に参らう。
▲四人「中々参りましよ。
▲立「なうなう彼(あれ)を見させられたか。人を負ふて参る。何人(なにびと)ぢや。尋ねて見ましよ。
▲四人「好う御ざろ。問はせられ。
▲立「これこれ其処な人。
▲シ「此方(こち)の事か。何事ぢや。
▲立「足下(そなた)の負ひまして居るは誰様(どなた)ぢや。
▲シ「何と此御方(このおかた)か。
▲立「なかなか。
▲シ「これは俵藤太のお娘子米市御寮の御里帰りぢや。
▲立「それなら少(ちと)用がある。待(まつ)てくれさしませ。
▲シ「用は有るまいが待てなら待たう。さればこそ咎むるわ。
▲立「なうなう何人(いづれ)も。米市御れうは承はり及(およう)だ美人ぢや。いざ盃を望(のぞみ)ましよ。
▲四人「一段好う御ざろ。
▲立「これこれ御れう人の事は承り及んだ美人ぢや。盃を戴(いたゞき)たいと皆云はるゝ。何卒(どうぞ)頼む。盃をさしてたもれ。
▲シ「はて扨我御料(わごりよ)達は人躰(じんてい)と見えたが。此途中で其様な事がなるものか。それはならぬぞ。
▲立「尤左様(さう)でおりやれども。これは好い所で御目にかゝつた。如何(どう)でも盃が戴きたい。何卒(どうぞ)よいやうに申(まをし)てさしてたもれ。
▲シ「はて扨聞分(きゝわけ)も無い。其様な聊爾(れうじ)な事がなるものか。夫はならぬ事ぢや。乍去(さりながら)身共はさう思へど。又お御れうの何と思召(おぼしめす)も知らぬ。先(まづ)伺ふて見よ。とつと其方(そち)へ寄つて居りやれ。
▲立「心得た心得た。伺ふてなるやうにしてたもれ。
▲シ「必ず此方(こち)を見やるな。申(まをし)々彼処(あれ)に居られます若い衆が。足下(こなた)のこと聞(きゝ)及び。是非共御盃を頂きたいと申されます。はア御尤で御ざります。私も左様に存じました。其通り申(まをし)ましよ。これこれ若い衆。伺ふたれば。縦(たとへ)人が云ふとも。其様な事を取次(とりつ)ぐものか。なかなかても無いと云ふて。殊外(ことのほか)おむづかるに依つてならぬぞ。
▲立「はて扨それは聞こえぬ。其処を我御料(わごりよ)に頼む。好いやうに申(まをし)て。是非共御盃をさしてたもれ。
▲シ「身共も如才で無い。成らうかと思ふて申上(まをしあげ)たれど。おむづかるに依つてならぬ。思ひ切りやれ。ならぬぞ。ふつゝりとならぬ。
▲立「やア我御料(わごりよ)は若い者共がこれ程いろいろ最前から頼むに。聞こえぬ。此上は厭でも応でも盃をせねばならぬ。若(もし)成らねば目に物見せうぞ。
▲シ「夫は無理な事を云ふ。目に物見せだて仕(し)たと云ふて何程の事があらう。おいてくれ。
▲立「悔(くや)むなよ。
▲シ「悔むことは無いぞ。
▲立「汝(おのれ)憎い奴の。たつた今思ひ知らせうぞ。さアさアいづれも兎角埒が明かぬ。皆寄せさせられ。
▲四人「心得ました。
▲五人「ゑい。どうどうどう。
▲シ「汝等(おのれら)何程の事があらう。
▲五人「扨も扨も強い奴で御ざる。何とせうぞ。
▲立「これこれ。身共は後(うしろ)から廻つて彼(あ)の御れう人を連(つれ)て参らう程に。又いづれも一度寄せさせられ。
▲四人「心得ました。ゑい。とうとうとう。
▲シ「ゑい。とうとう。ゑいゑい。あふ。
▲四人「扨も扨も強い奴で御ざる。
▲立「はアこれは騙された。俵ぢや。何の役に立たぬ物ぢや。何人(いづれ)も帰らせられ帰らせられ。
▲四人「扨も扨も騙された事かな。
▲シ「やいやい。此と盃がなるならせいでな。
▲立「おのれ此と盃がなるものか。やらぬやい。
▲シ「やアやア盃をせいでな。さうもおりやるまい。夫ならこれは身共取つて帰つて。年取物にするわやい。
底本:『狂言全集 下巻 狂言記拾遺』「巻の五 八 米市」
校訂者注
1:底本に句点はない。
2・3:底本のまま。
4:底本は「時分抦(から)」。
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