ひめ糊(のり)

▲との「御存じの者。太郎冠者(くわじや)あるか。
▲冠者「御前に。
▲との「念無う早かつた。汝を喚び出すは。別義でない。此中(このぢゆう)御前につめて在れば。新地をくわつと下された。何と芽出度(めでたい)事では無いか。
▲冠者「是は御芽出度事で御座りまする。
▲との「それに付(つき)明日(みやうにち)は。出仕に上らうと思ふが。彼(かの)紺屋(こうや)へ遣つたる。肩衣は。張つて参つたか。
▲冠者「されば。取りに参りて御ざるが。何やらん足らぬと申して。張つてくれませなんで御座る。
▲との「紺屋に足らぬ物ならば。籡(しんし)絹張のやうな物ではなかつたか。
▲冠者「いや。左様な物では御座りませなんだ。
▲との「退(しさ)り居(を)らう。汝(をのれ)がやうなる。鈍な奴は。物によそへて。聞いて来たが好い。
▲冠者「いや。よそへて。参りました。
▲との「して。何によそへて来たぞ。
▲冠者「殿様の。何時も。四畳半敷へ。取籠(とりこも)らしやれて。読(よま)せらるゝ物の本の内に。有(あ)るかと存ずる。
▲との「ふん。某(それがし)が好いて読むのは。源氏平家の。物語などを読む程に。一つ二つ読(よま)う程に。有らばあると。軈(やがて)答へ。
▲冠者「畏つて御ざる。
▲殿「牀机々々。
▲冠者「はつ。
▲との{*1}「此(これ)へ寄つて聞け。扨も。赤馬関。速鞆(はやとも)が沖にて。おん身を投げさせ給ふ。西海。四海のかせん(合戦)の内に有らばあると軈(やがて)答へ候へ。いで其頃は。寿永二年の事なるに。平家は時節の思ひをなし。津の国生田の森に陣をとる。其城郭は。前は海。後は嶮しき鵯鳥越。左は須磨。右方(めて)は明石よな。大手には。生田の森をこしらへし。そのあひ三里が間は。満(みち)々たりしよな。陸(くが)に赤旗いくらもいくらも立てならべ。天地翻す有様は。宛然(さながら)錦を張つたるが如く。此様な物では無かつたか。
▲冠者「張つてだに御座るならば。よこしませうが。其様な物では御ざりませなんだ。
▲との「茲(こゝ)に又梶原が二度のかけといつぱ。梶原平蔵景時。源太景末。後陣平山の武者所季重が一の木戸を切つて落し。分捕高名数をつくす所に。かくて。梶原本陣に帰り。源太はと尋ねしかば。源太は敵(かたき)の方(かた)よりも。おしつけを見せうずる事を不覚と思ひ。深入りをし。鎬(しのぎ)をけづり鍔を割り。攻め戦ふを見て。梶原取て返し。前車の覆(くつがへ)すを見ては。後車の戒(いましめ)する。一しやうに引けや。一しやうに懸(かゝ)れやと。下知をなす所に。源太は兜をぬぎ。高紐にかけ。一首の歌は。かくばかり。武士(ものゝふ)の。とりつたへにし。あづさ弓。引いてや人の。かへす物かな。と詠じせは{*2}。梶原は西東。さんざんに撃つて廻りしが。好き敵(かたき)をば十七八騎。切て落し。梶原が二度のかけと。呼ばゝて。しんづしづと。ひいていりたる。所にては無きか。
▲冠者「いや。左様の物でも御ざりませなんだ。
▲との「茲(こゝ)に又。御一門にとりては。丹後の少将忠澄か。無官の太夫敦盛か。知盛か。逆茂木切て廻りしは。川原太郎か。川原次郎か。寄手(よせて)にも。亀井。片岡。伊勢。駿河。武蔵坊弁慶にては無きか。
▲冠者「いや。左様の物でも。御ざりませなんだ。
▲との「茲(こゝ)に又。主(ぬし)は誰とも知らねども。白糸縅の腹巻に。白柄の長刀かいこうで。鹿毛なる馬に打乗つて。渚を添ふて落行(おちゆく)を。又味方の方(はう)よりも。岡辺の六弥太忠清(たゞずみ)と名乗りて。六七騎にて。追(おつ)かくる。好き敵と見。馬の上にて無手(むず)と組み。両馬が間(あひ)に。だうと落ち。上よ下よとしたりしが。六弥太やがて。取て押(おさ)へ。乱れ頭(かしら)をつかみあげ。首かき切りて見てあれば。錏(しころ)に付(つい)たる短冊に。花といふ字を題にすへ。行(ゆき)くれて。木の下かげを。宿とせば。花やこよひの。主(あるじ)ならまし。と詠じ給ふは。平の薩摩の守忠度にては無きか。
▲冠者「はア。それで御座りました。
▲との「やい。そこな奴。己言葉のすゑで聞(きい)てある。紺屋に使ふは賤(しづ)がひめ糊にてある。
▲冠者「いよいよそれで御ざりました。
▲との「しさり居ろ。某が内に在らうずる奴めが。ひめ糊。忠度のわけ差別も知り居らず。太ぼねをらせ。大汗を流させる。前代末聞の曲者(くせもの)。此度折檻の加へうすれども。かさねて。折檻の加(くは)やうずる。其処立(たつ)て失(う)せう。ゑつ。
▲冠者「はつ。
底本:『狂言全集 上巻 狂言記』「巻の一 二 ひめ糊」

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校訂者注
 1:底本は「▲との。「」。
 2:底本のまま。