宗論

▲法華[次第]「妙法蓮華経。蓮華経の経の字を。きようせんと人や思ふらん{*1}。
罷出たるは。都(みやこ)本国寺の坊主で御ざる。此度思ひ立(たち)。甲斐の身延に参詣致し。只今下向道(だう)で御ざる。やれさて。身延と申す所は。聞き及うだよりは。殊勝な所で御ざる。若い折に斯(か)やうに修行を致さねば。老いての物語が無いと申す。先(ま)づ徐々(そろそろ)上(のぼ)りませう。いや。ほどは参らねども。草臥(くたびれ)て御座る程に。先づ此所(このところ)にすこし休らひませうず。
▲浄土[次第]「南無阿弥陀仏の。六の字を六(むつ)ヶ敷(しく)人や思ふらん{*2}。
罷出たるは。東山黒谷の愚僧で御ざる。信濃国善光寺へ参り。只今下向道で御ざる。先づ徐々(そろそろ)上りませう。彼(あれ)へ好ささうなる道連(づれ)が行かるゝ。呼(よび)かけ道連に致さうと存ずる。しゝ申(まをし)。
▲法華「こなたの事で御ざるか。
▲浄土「中々。
▲法華「何の御用で御ざるぞ。
▲浄土「して。こなたは何処から何処へ御ざるぞ。
▲法華「いや。かう上方へ参る愚僧で御ざる。
▲浄土「ゑ。身共も上りまする。卒爾ながら。道連にもならしやるまいか。
▲法華「いや。身共も。連(つれ)欲(ほし)いと存ずる所に。あふたり。叶ふたる事で御ざる。都迄は同道申さう。はれさて嬉しや。さ。御ざりませい。
▲浄土「先づ御ざれ。先(せん)で御ざる程に。
▲法華「参らうか。
▲浄土「御ざれ御ざれ。なう申(まをし)。かうして。同道申(まをす)からは。乃至は。こなたの方(はう)にも。又身共が方にも。五日十日暇のいる事が御ざろと。まゝよ。待合せ同道致さうぞ。
▲法華「中々。五日十日の事はさて置かつしやれい。一くわん日(にち)でも待合せ。都までは同道申す。
▲浄土「はれさて。善い御坊に出逢ふた事かな。して。こなたは。都が何処もとに御ざるぞ。
▲法華「いや。本国寺の愚僧でおぢやる。
▲浄土「いや。きやつは家例の情強(じやうこは)でおぢやる。道すがら争ひませうず。
▲法華「なうなう。御坊。してそなたは又何処もとでおぢやるぞ。
▲浄土「いや。も。何処と申(まをし)たらば。京辺土の者でおぢやる。
▲法華「いや。左様(さう)仰やれば心憎うおぢやる程に。名乗らしやれ。
▲浄土「其義ならば。名乗りませう。黒谷の坊主でおぢやる。
▲法華「はれさて。おとましい(疎(うと)ましい)者と連立つた事ぢや。
▲浄土「いやはや。も。いやがると見えました。
▲法華「なう。坊(ぼん)。して其方(そなた)は又。此方(このはう)へは。何方(どれ)へ行かしましたぞ。
▲浄土「いや。信濃国善光寺へ参りて御ざる。
▲法華「やア。参らいで。叶ひそむない坊主ぢや。
▲浄土「して又。其方は何(ど)の方へ行かしましたぞ。
▲法華「いや。甲斐の身延へ参詣致した。
▲浄土「おう参らいで。叶はぬ御坊ぢや。
▲法華「なうなう。御坊。其方に意見が仕度(した)うおぢやるわいの。
▲浄土「何でおぢやるぞ。
▲法華「彼方(あそこ)の隅でも。此処でも。黒豆を数へて。くどくどと。ねがはうよりも。其方。其珠数を切(きつ)て。法華にならせませ。
▲浄土「いやいや。法華にはなりともなうおぢやる。其方にも意見が仕度いわ。一部八巻の二十八品(ぼん)などゝて。事六(むづ)ヶ敷(しい)事を願はうよりも。南無阿弥陀仏とさへ。申すればよいに。某(それがし)が法にならせませ。
▲法華「いやいや。なりとも無うおぢやる。なうなう。
▲浄土「何でかおぢやる。
▲法華「礑(はつた)と忘れた事がおぢやる。彼(あ)の向ふに見ゆる在所へ。某は。寄らねばならぬ。
▲浄土「いや。某も寄らう。
▲法華「いや。先へ行かしませ。
▲浄土「いや。待合せませうと約束でおぢやる。なうなう。
▲法華「其方のやうなる人に。かまはうよりも。某は先へ行(い)たがようおぢやる。はア。嬉しや。逃げ延びて御ざる。
▲浄土「なう。御坊はてさて人にはしらしやつた。
▲法華「ゑ。こゝな。其方と我とあみつれた身かいの。
▲浄土「いや。都迄は同道申すとの約来でおぢやる。
▲法華「いやはや。連立(つれたて)ならば。連立(つれたゝ)う程に。某が珠数は辱(かたじけ)なくも。日蓮聖人より。伝(つたは)りの珠数じや程に。少(ちつ)と戴きやれ。
▲浄土「戴きたか。其方(そち)戴け。
▲法華「いや。是非共戴かせう。こりやこりや。はゝ。嬉しや。思ふまゝに戴かした。
▲浄土「なうなう。某が珠数も辱(かたじけ)なくも。法然上人よりも伝はりの珠数。少(ちつ)と戴きやれ。是々。はア。戴かした。まつと戴かせう。いやこりや。見失なうて。はてさてもつけな事した。
▲法華「はア。嬉しや。逃げ延びて御ざる。先づ此所(このところ)に宿をとりませう。物も。お案内。
▲やど「や表に案内が有(ある)。お案内は誰様(どなた)で御ざるぞ。
▲法華「いや。旅の坊主で御ざる。一夜の宿を貸さつしやれい。
▲やど「安(やすい)事で御ざる。奥の間へ通らしやれい。
▲法華「畏(かしこまつ)て御ざる。亭主。出家の相宿厭で御ざるぞ。
▲やど「心得ました。
▲浄土「これは扨。是程に行き延びはせまいが。日も晩して御ざる程に。宿をとりませう。物も。お案内。
▲やど「や表に案内が有(ある)が。案内は誰様(どなた)。ゑ。最前のやうな御坊ぢや。
▲浄土「なうなう。最前も某がやうなる坊が宿を取て御ざるか。
▲やど「中々。宿を取らつしやれて御ざる。
▲浄土「某にも貸して下されい。
▲やど「いや。出家の相宿はなりませぬ。
▲浄土「いや。先程の御坊と某は。弟子兄弟で御ざるが。言葉論を致し。先へ御ざる程に。某にも貸して下されい。
▲やど「心得ました。
▲浄土「なうなう。御坊。
▲法華「いや。其方は何として来たぞ。なう御亭主。別の間はおぢやらぬか。
▲浄土「はてさて。無いとおしやるわいの。
▲法華「其方が思ふてのやうわいの。して其方は。某に後先に附いてまふは。法問(はふもん)ばし為(し)ても見やうと思(おも)やるか。
▲浄土「いや。誠に。好い所へ気が付いた。夜長にもおぢやる程に。いざ。法問を致さうず。
▲法華「先づしたらば。其方(そなた)から仰(おし)やれ。
▲浄土「先づ其方(そつち)仰やつたがよいわ。
▲法華「ふん。其義ならば語らう程に。何方(どちら)なりとも。負けた方を。珠数を切らする程に。さう心やれ。
▲浄土「先づお語りやれ。
▲法華「耳の垢を取りて聞かせませ。先づ。五すゐてんでん。ずゐきの功徳と云ふ事が有る。聞きやつた事が有らう。
▲浄土「誠に。何方(どこ)でやら聞いておぢやる。
▲法華「聞かいで何とせう。三国に憚る程の法問ぢや。
▲浄土「先づ甚(いか)い事を云はずとも。語らせませ。
▲法華「先づ。五すゐてむでん。ずゐきの功徳。又は涙とも解かせられたる法問な。大地を割り。芋の子を植(うゆ)る。天地の潤ひを以てずゐきを生ず。丈(たけ)ゆるゆるとせいじんしたるを。刃物で以て薙倒(なぎたふ)し。芥子で辛(から)々と虀(あ)へ。檀方(だんはう)がたで下さるゝ時は。尊うて。難有うて。涙がこぼるゝを以て。五すゐてんでん。ずゐきの功徳。又は。涙とも解かせられたる法問は。難有いことではおぢやらぬか。
▲浄土「たつた解かせませ。
▲法華「いや。是迄でおぢやる。
▲浄土「して。それは誠でおぢやるか。それは芥子が辛うて涙がこぼれたものでおぢやろう。
▲法華「先づ。小言を言はずとも。其方(そのはう)も解かしませ。
▲浄土「おう。宗論(しうろん)でおぢやる程に。某も申そ。是へよりて聞かせませ。一念弥陀仏。即滅無量罪と云ふ事が有る。お聞きやらうのう。
▲法華「おう誠に聞きはつゝたやうにおぢやる。
▲浄土「其方(そなた)の身の上にも有(ある)事。又某が身の上にもある事。だんはう方(かた)へ斎(とき)に参れば。事足らうたる御方へ参れば。醍醐のうどめ。鞍馬の木の芽漬。はべん。麩。椎茸。無量の菜(さい)を満(みち)々て下さるゝ。彼(かの)事足(たら)はぬ御方へ参れば。焼塩一菜で下さるゝ。彼(か)の無量の菜が満々て有ると思ふて。心に観念して下さるゝを以て。一念弥陀仏。即滅無量罪。又は菜(さい)とも解かせられたる法問な。難有うはおぢやらぬか。
▲法華「たつた解かせませ{*3}。
▲浄土「是迄でおぢやる。
▲法華「して。それが誠でおぢやるか。
▲浄土「中々。
▲法華「悉皆たゞそれはむざいがきといふ物でおぢやる。
▲浄土「いやいや。むざいがきではおぢやらぬ。
▲法華「無い物を有(ある)と思ふて食(く)へば。むさいがきではおぢやらぬか。
▲浄土「いや。其方(そち)がやうな者に構はうよりも。非学者論義に負(まけ)じと事が有る。先づ。念仏しゆ致したがゑい(好い){*4}。
▲法華「いや。先づと云はしまさいで。いや。某も少(ちと)交睫(まどろ)みませう。
▲浄土「いや。兎角申す間に。御経時(どき)になつた。くわくわくわなまいだ。
▲法華「悉皆彼(あ)の坊主は夜の目が寝られぬと見えた。某も看経(かんきん)を致さう。
▲浄土「いや。負けじ劣らじと精を出さるゝ。何とがなして。彼(あ)の坊(ぼん)を浮かしたいと存じまする。いや。思ひ付けた事が御ざる。一遍上人の踊(をどり)念仏が御ざる。是を申しませう。
[ハル]なもだなもだ。
▲法華「いや。某も負けは致すまい。
[ハル]蓮華経蓮華経。
▲浄土「南無(なも)だ。
▲法華「蓮華経蓮華経。
▲浄土「南無(なも)だ{*5}。
▲法華浄土「是は如何な事。取違(とりちが)へてのけた。
実(げ)に今思ひ出したり{*6}。昔在霊山妙法花(じやくざいれいさんめうほつげ)。今在西方妙阿弥陀(こんざいさいはうめうあみだ)。娑婆示現観世音(しやばしげんくわんぜおん)。三世利益同(せりやくどう)一躰(たい)。と此文(このもん)の聞く時は。法華も弥陀も隔(へだて)はあらじ。[クル]今よりしては両人(ふたり)が名をば。[クル]妙阿弥陀仏とぞ付かうよ。

底本:『狂言全集 上巻 狂言記』「巻の一 六 宗論」


校訂者注
 1・2:底本、ここまで傍点がある。
 3:底本は「たつゝた解かせませ」。
 4:底本は「致したかゑい」。
 5:底本、「[ハル]蓮華経」からここまで傍点がある。
 6:底本。ここから最後まで傍点がある。